城郭ビイスタ論 上記文字クリック
戦国兄弟 覚恕法親王と正親町天皇 浅井氏と武田信玄の民俗学的考察
◆戦国異腹兄弟
対談者
この投稿は猿に始まり猿で落す投稿ですね?
最後まで読んで楽しみたいと思っています。
一般者
11/29の大河麒麟が来るを見ました!比叡山
に居た覚恕法親王が甲斐の武田信玄に面会
する場面を!
長谷川
覚恕法親王(かくじょほうしんのう)
正親町天皇(おおぎまちてんのう)
両者は母親の異なる戦国兄弟です。
対談者
ワシャ、知らなんだ!全く知らんなんだ!
長谷川
後奈良天皇の正室の子供が正親町天皇で
側室伊予局の子供が元亀の騒乱/志賀の陣
の頃の比叡山天台座主の覚恕法親王です。
対談者
うん!大河麒麟が来るで春風亭小朝師匠
が演じた比叡山天台座主の覚恕法親王か!
ふふふふ、、、、流石は稀代の名演じや!
長谷川
羽柴筑前守藤吉郎秀吉の弟は諸説あります
が秀吉の義父に相当する竹阿弥を父とする
小一郎また小竹とも呼ばれ、秀吉に従順な
優れた豊臣政権を支えた豊臣政権の常務的
な人物です。羽柴美濃守長秀やがて大和国
も含める100万石の領地を秀吉から下賜さ
ます。秀長の書簡は、兄秀吉の私的傾向の
書状が「ひらがな」を多用するのに対して
厳格な武家書式の書簡であり、小竹/小一郎
の幼少時学習教育課程の状況が兄藤吉郎と
異なった事が類推されると思われます。さて
文献『信長公記』には羽柴秀長は秀吉とは別
に、単体で度々一廉の武将として登場する人。
秀才と言うべき人物、秀吉から大和大納言の
官位を朝廷を通じて下賜された豊臣内閣府の
官房長官とも言える人物です。太閤五三の桐
紋瓦や金具は近江佐和山城から発見発掘され
ていますが桐紋瓦は彦根城天秤櫓下石垣付近
でも採取されています。桐紋は豊臣秀吉政権
の官房政権の一種です。現代でも官房府発表
の記者会見で、大臣が会見する演台の全面に
桐紋がデザインされていた事を記憶致します。
また逸早く織田信長は水上交通の根本拠点と
して佐和山城に『信長公記』では「在佐和山」
と信長の永禄後半の所在地を明記し琵琶湖畔
の彦根松原で芹川から流し下した木材で信長
の琵琶湖水運湖上権力のネットワークの根本
根幹です。ちなみに信長の家紋も桐紋を使用
する肖像画が数多く残されています。
対談者
ワシャ知らなんだ!全く知らんなんだわい!
ところで秀吉の手紙は、ひらがな多いと言う
学門的学術的利点や特徴はありますかのう?
長谷川
秀吉の書状「ひらがなが」が多様されてます
つまり「表音文字」私達が戦国時代にタイム
スリップ触れる機会は現実実際の城郭遺跡を
冷静的確に見学できる場合と当時の秀吉自身
の表音文字こそ当時の人間の実際の発音を知
る機会があると言えましょう。
対談者
ほな?秀吉は黒田官兵衛をどの様に記した?
大納言豊臣秀長をどの様に表記してますか?
長谷川
「かんふひよえい」と平仮名で表記してます。
大納言を「たいなんご」と稚拙に表記します。
でもこれ当時の発音をしる大切な歴史的証拠。
また織田信長が直筆で秀吉の正室寧々に宛て
た書状で信長は自分の署名を「のふ」簡潔に
表現しています。つまり信長の信を「のふ」
と表記しています。信長の時宜や適時即刻を
好む傾向と藤吉郎秀吉との主従の意気投合は
このような書面からも類推する事が出来ます。
信長が天正3年越前一向一揆掃討に出掛ます
が当時小谷城に居た秀吉は岐阜から越前へと
向かう信長全軍の兵糧を事前準備して主君の
織田信長も天正3年小谷城を訪れた事は天正
3年の『信長公記』に知るされてます。秀吉
は段取8分の人、事前に信長が越前に向かう
為には何が必要で何を準備すべきか秀吉こそ
は事前準備、現代で言うところの危機管理術
り達人です。本能寺変後の秀吉の中国大返し
の策戦も秀吉が危機管理を事前にシュミート
としていた事でしょう。現代の政治家の様に
想定外の事や未曾有の事など言い訳、百連発
では戦国時代には通用しない現実があります。
ですからこの三段石垣も織田信長の宿館とし
て羽柴秀吉が事前に普請していた可能性あり
ます。
▼令和2/12/19城郭フオーラム小谷城見学会予定
長谷川
同じく信長の岐阜城天守側面の三段石垣
一般者
あのう~?近江国伊香郡杉野村の事を秀吉は
なんと書状で表記しているんにやろか?伊香
弁で申し訳ないのですが?
長谷川
天正10年本能寺変の後、長浜城に居た、秀吉
の母、なか、妻の寧々、などの女房衆を美濃
坂内村へと広瀬兵庫助が無事保護した功績に
より、伊香郡杉野を秀吉は広瀬に下賜しおり
ます。宛がい状には杉野を「すいの」の表音
しています。つまり杉野は「すいの」と発音
していた可能性があります。北陸自動車道に
杉津パーキングエリアと言う休憩所がありま
すが皆様当然ご承知の通り水津は「すいづ」
一般者
麒麟が来るでは越前の大守、朝倉義景や家老
の山崎吉家が比叡山延暦寺の僧院に宿泊して
いる様相が描かれていましたが実際には浅井
朝倉の陣城とはどの様なものだったのですか?
長谷川
平成4年今かに27年前の滋賀県の調査に私は加
わりました。昔比叡山ホテルが存在した場所を
本陣と古図にありました。私は比叡山ホテルか
ら京都川に、約数百メートル離れた一、本杉と
呼ばれる山尾根に巨大な城郭遺跡を発見してま
す。これらが浅井朝倉側の陣城の1つでしよう。
なお壺笠山城の陣営であると文献『信長公記』
には記されており堂塔とは別に陣城を構えた。
一般者
あんた!長谷川さんって全く無名なのにスゲエ人だ!
それにしてもこの長谷川さんの図面の詳細さに驚く
対談者
違います!我々近江が誇る堅実な城郭本舗的研究家!
民俗学や文献『信長公記』解説もする埋もれた人材!
長谷川
私は忘れ去られた影の竹中半兵衛のような人?
記録民俗学は厳格に詳細に記録していくもの
城郭遺跡は元来繊細で是を記録見学するもの
私はただただ現地に忠実で城の先生は城です
長谷川
そう言う意味で
民俗学の主役は伝承を伝える民衆市民が主役
城郭を遺跡を純心と真心で見る、市民が主役
対談者
ところで京都御所の鬼門には何が飾られていますか?
長谷川
京都御所の東北は丑寅の方向つまり邪悪の霊が入る
鬼門として城郭技巧で言う入隅が用いられています。
そこは猿が辻として有名で京都御所を悪霊から護る
猿の像が飾られています。勿論ころは京都御所内裏
の鬼門を霊的に守護する役目の比叡山の神祇大咋の
神とされ『古事記』、『先代旧事本紀』「地祇本紀」
では大山咋神と表記し、『古事記』では別名を山末之
大主神(やますえのおおぬしのかみ)です。比叡山の
神の使いを「猿」とする民間信仰が中世には広がって
おります。日吉、比叡、日枝、八王子、山王、これは
全て日枝山王信仰と言えましょう。山王一実神道など
も私は國學院大學で学びましたが、、余計事かと?
対談者
ところで比叡山より更に東北に位置する近江の鬼門を
護る霊山や山岳信仰のメッカとはどの様な寺院ですか?
長谷川
そりや勿論己高見山鶏足寺です。ここも猿と縁がある。
反論者
そんなもの絶対に関係ない!
長浜臨湖長谷川湖北観音受講者
関係ありますわよ!私達は己高閣に収蔵された仏像群に
猿が蓮華を持っ猿座像の見学に長谷川先生と行きました
長谷川先生は己高見山の方位と猿の座像を記憶しておい
て下さいと私達に言われた。ちやんと現実現物を見る事!
反論者
ふん、そんなもの偶然だろう!馬鹿々しい事を言うわ!
長谷川
この会話は民俗学的比較研究論の世界です柔軟に考えて
下さい。日本全国の日吉神社、日枝神社、八王子神社は
例えば猿にちなむ「猿の幔幕」や猿像が必ず存在します。
対談者
ところで比叡山延暦寺に味方した浅井備前長政や浅井
下野守久政の成人するまでの幼名は何と言いますか?
まさかまさか「猿」とは絶対無関係だと思いますが?
長谷川
あっさり言いますよ!
三代目、浅井長政の幼名は「猿夜叉丸」
二代目、浅井久正の幼名も「猿夜叉丸」
と言う事は各種の文献で証明されてます。
これらは浅井氏が日枝山王信仰を持って
いた事や彼らが大津坂本の馬借連と連携
提携していた陸運業者馬借を介した人々
の信仰が起因するものでしよう。自分の
買った本は何度も何度も再読して書籍が
指圧と指紋で擦り切れるまで読む事です。
本は本棚の装飾品ではなく読んでこそ本。
反論者
ふん!そんなもの偶然の一致だ偶然だ!
小谷城に日枝山王信仰など有りえない!
対談者
小谷城には山王丸の大石垣が存在します。
長谷川
浅井氏は自分達が信仰する湖北琵琶湖中の小島弁天社
つまり竹生島弁天を祀る「弁天丸」と言う信仰曲輪と
日枝山王神をまつる「山王丸」を築城してます。弁天
丸の位置は未だに確定してません。山王丸は壮大です。
近江浅井氏の女性達に信仰された竹生島弁財天遠望。
浅井茶々/淀殿や息子秀頼は竹生島に極楽橋を寄進
浅井三代初代介政の側室尼子氏は竹生嶋小島弁財天
の復興寄進の勧進を出雲尼子氏に依頼している現実
徳川秀忠の御台所、浅井長政三女(小督、江与、崇源院)
は江戸にあり琵琶湖竹生嶋弁財天に参拝できず春日局に
江の島弁財天に代参を依頼しております。浅井家の女性
達の心のよりどころ信仰の対象とでも言えましょうか?
江姫の弁財天信仰も浅井家の女性達の「まつりごと」で
あり非常に驚くべき事に江戸の江姫のところに美濃斉藤
氏に嫁ぎ浅井家に帰った「近江の方」なる女性が江姫の
いる江戸に出仕している事なども大変驚きます。親戚の
オバサンが江戸城に就職した訳で、一種の縁故就職採用
かもしれません。これらの女性達により江姫の弁財天へ
の信仰帰依の心が「まつりごと」として発生したのか?
▼小谷城より琵琶湖竹生嶋の景観の眺望。
浅井長政やお市の方も毎夕この景色を見た事だろう。
遥か琵琶湖の彼方には近江高島郡の饗庭「あえば」や
海津「かいず」が存在し、近江浅井系女性の饗庭局は
淀殿に仕え海津の局は豊臣秀頼に「海津の尼」と親し
まれた。江姫、淀殿、初姫、など戦国を代表する女性
陣がこの近江小谷城の出身である事に興味が湧くもの。
対談者
近江浅井氏は甲斐の武田氏と交流を持ってましたか?
長谷川
詳しく正確な事は解っていませんが武田信玄から近江
浅井備前守長政への使者は雨宮存徹とも言われてます。
対談者
甲斐武田氏の城郭と、近江浅井氏の城郭には共通根が
ありますか?
長谷川
小谷城主浅井長政は武田信玄の人を書状で「信玄坊」
と表記しています。浅井武田の交流は確実でしょう。
長谷川
徳川家康の天正18年小田原城攻めに使われた今井の
陣所の図は以下の様な半円形の堡塁が描かれてます。
半月堡塁の左にL型つまり曲尺の土塁も表現される。
長谷川
また小谷城の出丸も是と酷似してます。ここは半月堡の右に
L型つまり曲尺の土塁も実際に存在致します。是見ましょう。
▲長谷川
上記小谷城出丸が東国型丸馬出と徹底的に異なる部位
は直接半月堡塁から主郭に接続されていない差異です。
この様な北近江型半月堡塁は鎌刃城、賎ケ岳城、太尾
山城など浅井系列の城址に残っております。勿論小谷
城御馬屋敷も半月堡塁の一種です。
▼賤ケ岳城半月堡塁(低土塁)
長谷川
武田勝頼の築城した新府城にも半月堡塁がある。
長谷川
また近江小谷城の、御馬屋敷も一種の半月堡塁です。
令和2年12月19日の谷城見学会でも見学したいです。
一般者
対話が「猿」さるから離れて小谷城に脱線してます。
小谷城に山王丸や浅井2代3代両名の幼名が猿夜叉で
ある事がわかりました。しかし武田信玄と比叡山の
座主の覚恕法親王(かくじょほうしんのう)や「猿」
のお話とは全く脈絡や関係がないと思いますが?
長谷川
覚恕法親王(かくじょほうしんのう)
大永元年(1521年~天正2年1月3日
(1574年1月25日))は、
戦国時代の天台宗の僧。で天台座主。
父は後奈良天皇で彼は異腹の第二皇子です。
生母は壬生雅久の娘の伊予局です。
覚恕の履歴
大永5年(1525年)、
延暦寺曼殊院門跡で得度
天文6年(1537年)に
曼殊院門跡を相続。
弘治3年(1557年)、
異母兄の正親町天皇が即位して
准三宮の宣下をうけ
金蓮院准后と称す。
元亀元年(1570年)、
戦国時代の混沌とした中で
166世天台座主となる。
その祝いとして武田信玄より
「猿図」(東京国立博物館蔵、
元亀元年(1570年)、
戦国時代の混沌とした中で
166世天台座主となる。
その祝いとして武田信玄より
「猿図」(東京国立博物館蔵、
重要文化財)が信玄から贈られました。
それは「猿図」に付属する武田信玄書状
それは「猿図」に付属する武田信玄書状
判明致します。
166世天台座主となった年の
翌年の元亀2年(1571年)、
織田信長の比叡山焼討ちの際に
比叡山にいなかっ為に難を逃れ
比叡山抵抗の責任を追及されて、
甲斐の武田信玄を頼り亡命して。
翌年の元亀2年(1571年)、
織田信長の比叡山焼討ちの際に
比叡山にいなかっ為に難を逃れ
比叡山抵抗の責任を追及されて、
甲斐の武田信玄を頼り亡命して。
この後、出家した武田信玄が
比叡山の権僧正の僧位を得る為に
覚恕法親王は尽力します。
覚恕は京に戻ることはなく、
天正2年(1574年)に没です。
享年は54歳。法号は金蓮院です。
比叡山の権僧正の僧位を得る為に
覚恕法親王は尽力します。
覚恕は京に戻ることはなく、
天正2年(1574年)に没です。
享年は54歳。法号は金蓮院です。
◆天正2年正月織田信長は岐阜城内で
『信長公記』に以下の3名の頭蓋骨に
金箔を塗り、酒肴として披露します。
①浅井『猿夜叉」こと下野守久政
②浅井『猿夜叉」こと備前守長政
③越前の大守朝倉義景の首級を諸侯に見せます。
重要文化財 猿図軸 伝毛松筆中国 南宋時代・13世紀
東京国立博物館蔵
伝毛松筆「猿図」付属の武田信玄書状 東京国立博物館蔵
質問者
しかし織田信長が天正元年に北国で打ち取った
浅井長政、久政、朝倉義景の頭蓋骨を正月酒宴
の酒肴に残酷にも用いたのでしょうか?
長谷川
諸説あるが厩猿信仰と言うものがあります。
サルを馬や牛の守護神とみる信仰で、起源は
はっきりしない。サルの頭骨を木箱に入れる
などして、馬小屋の柱に掛けてまつり、馬の
安産や健康、五穀豊穣(ごこくほうじょう)も
祈ったらしい。江戸時代のころから広まった
とされるますがこの厩猿思想の萌芽が信長
の所業に現れているかもしれません。何しろ
古代に隆盛した古代浅井氏には、浅井直馬飼
「あさいのあたいうまかい」なる人もおり、
小谷の馬借、坂本の馬借、疋田の馬車などの
起源をなす中世江戸の馬借集団の研究が必要
です。馬と猿は密接に関係する事は浅井氏の
長政、久政の幼名「猿夜叉」にも、影を落と
いる事でしょう。元亀の騒乱時期浅井朝倉
の軍勢は『信長公記』によると近江高島郡、
越前朝倉、北近江浅井を含め、その総勢3万
人とも表記されています。織田信長政権の
危機であった事は間違いないでしょう。それ
にしても織田信長包囲網の一角武田信玄が
猿図を叡座主が信玄から貰った事に驚きます。
城址見学会の御案内★小谷城
時節 令和2年12月19日土曜
時節 令和2年12月19日土曜
集合 JR河毛駅東口9時30分 ★9時30分に訂正しました。
主催 余呉城郭研究会
協賛 ウッデイパル余呉
講師 長谷川博美
会長 生月茂氏
名誉理事 田畑喜久弘氏
参加費 2500円
特典 詳細資料A4/P8 弁当付
参加予約先
ウッデイパル余呉 城郭係
☎0749-86-4145
主催 余呉城郭研究会
協賛 ウッデイパル余呉
講師 長谷川博美
会長 生月茂氏
名誉理事 田畑喜久弘氏
参加費 2500円
特典 詳細資料A4/P8 弁当付
参加予約先
ウッデイパル余呉 城郭係
☎0749-86-4145
一般者
今度令和2年12月19日の近江小谷城見学会
は長谷川先生の東海地方知名度抜群の為に
既に多くの東海地方の本格歴史見学者様が
7名予約されたと情報が入っておりますが?
長谷川
そうですか?大変光栄に思います感謝です。