城郭 長谷川博美 基本記録

城郭遺跡見学講師 信長公記講師 お城イベント案内 民俗学講師  神道思想史講師 などの情報を発信して行きます。

滋賀民俗学会の いぶき 健在

2024-12-21 17:06:05 | 民俗学

滋賀民俗学会の いぶき 健在

◆長谷川

国立滋賀大学経済学部の理解

により半世紀以上続いた昭和

の記録民俗学民学誌その展示

は令和の現在においても米原

市近江はにわ館「近江図書館」

や米原公民館の後身米原学びあ

ステーシヨンの一階ミニ展示

ケースや二階多目的図書館前の

ケースは月毎に展示物を変更を

し同会の理事長様が自ら展示を

されて『滋賀民俗学』のいぶき

を令和の現代にまで継承してお

られます。どうぞ皆様明治大正

昭和平成そして令和へと時代は

推移いたしましたが庶民や民衆

が生活の為に使った民具は貴重

な文化遺産ともいえます。近江

図書館米原学び合いステーシヨン

にお立ち寄りの折節の機会に是非

展示物の見学を是非お願いします。

滋賀民俗学会理事 長谷川博美。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代社会常識 現実社会常識 古京極氏の砦の実態を知る。5現場編

2024-12-08 20:00:36 | 民俗学

現代社会常識 現実社会常識 古京極氏の砦の実態を知る。5現場編

◆現場質問者

私は山東町生れの山東育ちです。

地元だからアケビの取れる谷や

栗の取れる山尾根を知り尽くし

てる訳です顧問役様が立ってる

竪堀写真は本物なのでしょうか?

私は見た事もない訳なのですよ!

◆長谷川

素朴に率直に本物なのです

良かったら今日日曜ですか

ら現地のご案内致します。

 

◆長谷川

先ず林道に入ったら矢竹生え

が見えます。これは中世城郭

指標や基本と言える目印です。

ここに連続竪堀が存在します。

 

◆現場質問者

古い地蔵さんとか墓石を見る

と私は中世の街道や間道だと

私は感じるのです。重要です。

 

◆長谷川

そのとおり歴史地理の基本事項

の御教示を賜り恐縮に思います。

さてあなたの前方の尾根に段築

見えて参りました貴方の気持は?

◆現場質問者

最初一挙に本丸に登りたいと

気がはやりましたが本丸へと

至る過程プロセスこそが城の

要害の本質だと説かれて私は

腰を据えて山尾根を見学した。

 

◆長谷川

お世辞ではなく良いセンスを

されていますね!これは千鳥と

言う縄張なのです。貴方は悟

った気付いたこれが城址見学

本丸へワザと遠回りさせてる。

 

◆現場質問者

本丸に到着致しましたなんだ

応仁の乱の本陣の様にマンマ

の山頂の様に感じましたが?

◆長谷川

さてこれから長岡方面に尾

を降って行きましょう!

 

◆現場質問者

これは巾の広大きな竪堀です

こんな巨大な工事をしいる!

◆長谷川

これは本丸を守る一本目の堀

です。次に二ノ丸の堀を見る!



◆現場質問者

ここれは!明瞭な堀切が

存在します。土橋も見事

に現地に残っており驚愕!

まるで長岡の中世の空間

にタイムスリップした様

異次元の体験致しました。

まさに現地ドキュメント!

◆長谷川

さて貴方と玉手箱の約束を

致します。城跡がある事は

現実ですこの城のある場所

は絶対第三者に口外しない

事を是非とも御約束下さい。

 

◆長谷川

さて近江長岡の砦123だけ

で200m超えました。私は

第四の堀第五の堀があると

研究家の視点から考えます。

4と5は未だ計測してない!

従って顧問役と再度測量に

行きたいと願っています。

◆現場質問者

4の堀 5の堀 見てみたい!

 

◆長谷川

4の堀予測どうり出現しました。

◆現場質問者

何故?第4の堀が長谷川先生

は予測出来るのでしょうか?

◆長谷川

そりや長岡に向って当時の

部将が1234と堀を掘削して

る第5の堀と木戸を見たい!

木戸とは堀や矢倉で防衛を

した陣城の関門と言えます!

◆現場質問者

ウヒョーッツ!第五の堀と

土塁が突然出現しました!

オモシロイ!ヤミツキです!

素晴らしい推理と現実遺跡!

 

◆長谷川

午後は雨天予想です下山です。

貴殿は私を待っていてくれた

伊吹の峰は白く雪化粧してる。

私の漂泊の旅は何と虚しい事。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あゆち の万葉 あゆち の城郭  秀吉秀長

2024-11-09 09:35:41 | 民俗学

あゆち の万葉 あゆち の城郭 秀吉と秀長

 

◆事業所様

長谷川先生来季も米原で城

講座をお願いしたいと思い

ます。講座テーマの決定を!

 

◆長谷川

『秀吉秀長豊臣の城 近江の城etc』

にでもしようかなと思っています。

 

◆愛知様

長谷川先生は文献『信長公記』の

解説解題講師としてNHkの名古屋

文化センターで長期活役した先生

米原市内での信長公記も大好評!

◆熱仁様

私の学術の故郷はやはり国立滋賀

大なので滋賀の城講座に行きたい

ですが木曜が仕事で重なり残念!

 

◆和歌山県出身者様

長谷川先生は國學院大學出身です。

愛知県で有名な万葉歌となにかな?

 

◆長谷川

年魚市と書いて あゆち と読む

万葉人にはこの地こそが あゆち

滋賀近江の愛智はえち発音するが

愛知県名古屋の起源地名があゆち

 

 

0271: 桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴き渡る

1163: 年魚市潟潮干にけらし知多の浦に朝漕ぐ舟も沖に寄る見ゆ

 

▼米原市内の中世城郭「新発見」長谷川

▼米原市内の中世城郭「新発見」長谷川

◆質問者

藤吉郎「秀吉」

小一郎「秀長」の兄弟 あゆち

尾張出身と言う事超有名な事!

鳴海と言うまるで潮騒聞こえる

ような城址が愛知に存在した事。

 

◆熱仁様

日本国の城郭は放射腺測量用いて

築城されている事を長谷川先生は

城郭ビイスタ論で既に論述されて

います。この理論は画期的理論!

◆長谷川

享保年間まで日本国の城は

この様に測量されていた事

これを私は城郭ビイスタと

呼称させて頂いております。

あゆち 尾張 名古屋から

飛び出し西遷した織田信長

は安土城を城郭ビイスタで

築城をしております▼安土

◆質問者

脱線した質問を

してすみません。

尾張鳴海城の城郭ビイスタ

を是非もう一度分析下さい。

◆長谷川

A点とB点からビイスタ縄張

をしています。測量術存在。

 

◆長谷川

先ず尾張にはこの様なビイスタ

工法の城が清須城や鳴海城など

に存在した事を前説として必要

▼尾張鳴海城ビイスタ

 

▼尾張清須城ビイスタ

◆長谷川

尾張中村出身の秀吉の城を

考えてみましょう。

◆長谷川
たしかに秀吉の石垣山一夜城
は重複ビイスタ工法の城です。
 
 
◆長谷川
太閤秀吉の文禄慶長の役の
時の秀吉の本陣肥前名護屋
城も重複型ビイスタ工法と
言えます。織豊城郭ですね。

 

◆長谷川

天正豊臣秀吉大坂城も典型的

あゆち出身の人の城の縄張

していると言う事が 城郭

ビイスタ論で理解可能です。

 

◆長谷川

羽柴秀吉は小谷城城主

になるものの天正2年

に内湖「潟」のある

横浜、今浜を長浜へと

地名変更して長浜城を

築城いたしますがこれ

も「あゆち」出身武将

藤吉郎秀吉の長浜築城

あゆち」への回帰の

精神が存在したと思う。

▼長浜城ビイスタ試論

◆長谷川

信長の自筆書簡が秀吉妻の

お寧宛てに残されてますが

信長は自筆で自分を「のふ」

と表現しています。つまり

堅苦しい武家形式書簡でな

い場合は信長でさえ「のふ」

と表現していると言う事で

織田信長も「あゆち」尾張

への憧憬は深層心理として

存在していた事かと思います。

さて「あゆち」「あづち」と

平仮名文字に書いてみると彼

織田信長が「あづち」「安土」

に執心した心理側面が解ると

思います。ウイッキペデイア

によりますと安土城縄張奉行は

羽柴筑前秀吉とされてますが

彼等尾張出身武将は居城をば

大河や湖沼などの交通の流路

に置きたがる傾向にあります。

柴田勝家の北庄城や信長小牧

城や秀吉の大坂、伏見、長浜

などは河川や湖沼に面してる

▼安土城ビイスタ工法

◆長谷川

あゆち とは魚介類が豊かにとれる

豊穣の要地 万葉集では

年魚市と書いて あゆち と読む

万葉人にはこの地こそが あゆち

 

 

ウイッキペデイアより引用

 

年魚市潟(あゆちがた)とは、かつて現在の愛知県名古屋市熱田区から南区にかけての地域に存在した伊勢湾干潟の名称である[1][2]。『万葉集』にも詠まれている歌枕であり[2]、現在の「愛知県」の県名の由来になったとされている[3]

概要

[編集]

古代尾張国南東部(現在の愛知県名古屋市熱田区から南区にかけての地域)は「年魚市(あゆち)」と呼ばれていたとされ、この付近の海岸部が「年魚市潟」であった。「年魚市(あゆち)」の名は、律令制下で愛知郡として用いられ、さらに郡名が県名に継承されて現在の「愛知県」にも引き継がれている。熱田神宮は海と陸の境目に鎮座していた。年魚市潟は広範囲に渡るため、鳴海潟など地域ごとに呼び名がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北近江戦国歴史観雑学

2024-11-06 17:56:00 | 民俗学

北近江戦国歴史観雑学

 

◆質問者

古代坂田氏が二つに分かれて

長浜西部の下坂氏

  東部の上坂氏

が活躍しましたが。坂田郡の

鳥居本の坂田氏の存在伝承は?

 

◆長谷川

勿論鳥居本は元来坂田郡です

から伝承では物生山は坂田兵部

が居たと伝承され坂田郡の城郭

の要素を今でも強く残している

城です。佐和山とは別の方向に

堀切も開削して佐和山城攻囲の

城としては出来過ぎな在地城郭

鳥居本の百々屋敷丸山砦などは

織田軍から派遣された丹羽長秀

の佐和山城攻囲の為の陣城です

が城の遺構の凹凸メリハリとは

物生山城と異なる様式の砦です。

 

◆質問者

彦根市原町は純然たる彦根

昔から彦根と言う事ですね?

 

◆長谷川

いいえ地誌を調査すると坂田

郡に出て来る鳥居本地域です。

従って一部年配の方は坂田の

方言が見られます民俗学です

鳥居本とは純然たる坂田郡部

だったのが彦根市に合併した。

古代条里制も坂田郡部の影響

が残っているのです。従って

鳥居本地域は坂田郡と歴史的

な解釈をしたほうが賢明です。

現代自治体歴史観と過去歴史

には異なりがある訳なのです。

 

◆林業関係

彦根市男鬼の山林なんでか

坂田郡箕浦庄に含まれてい

た。

 

◆長谷川

それは正解。近江こまざらえ

と言う地誌には男鬼城は坂田

郡の中に記録されています。

時代により庄や郡堺が異なる。

 

◆米原河南中学卒業生様

僕ら学校林が武奈にありまし

たそれが坂田郡と言う事です。

武奈妙高という集落は坂田郡

で現在は廃村になっていす。

 

◆長谷川

なるほど、過去と現在の地理

は時代により異なる訳ですね。

 

◆彦根人

僕ら小学校で林間学校があり

男鬼の寺に宿泊した事が記憶

あり僕らには彦根市男鬼だと

強く考えていました。

 

◆長谷川

米原町には過去に 榑ヶ畑

くれがはた と言う集落

が存在して徒歩時代には

犬上郡と坂田郡を結ぶ道

で霊仙登山もなされた村

で地名には馬場や木戸が

ありこれは城郭関連地名

 

◆彦根市民様

彦根平田山雨壺山は犬上郡と

言う事なんですが。。。

 

◆長谷川

ところが史書には江北平田と

して記載登場致する京極氏の

領地は一般に愛知川以北だと

されていてこれが中世の江北

です。従って彦根の高宮氏も

江北の京極氏の被官の記録が

あります。与力に多賀土田氏

 

◆質問者

では湖東三山とか湖東彦根藩

の言葉いつの時代に作られた?

 

◆長谷川

井伊氏が彦根藩を創設した後に

『湖東』という概念が作られた

従って湖東三山は観光用語です。

湖東焼きは彦根藩の命名です。

 

◆対談者

長谷川先生と雑学対談すると

おもしろいです『信長公記』

解説や公家の有職故実にも

詳しく『記紀』からの影響

も『公記』が受けている事

や中国思想史『史記』から

の編年体様式の解説なども

引出が多く非常に楽しい。

 

◆長谷川

自分の講演や講座で一番に

参加者の方が目を輝かされ

る時は額面通りの解説より

も少し脱線した余談に目を

輝かされる傾向にあります。

 

◆対談者

今回は北近江歴史雑学です。

長谷川先生は元来は何人?

 

◆長谷川

木之本生れの余呉育ちです。

伊香型人間基本の北近江人

余呉町東野 伝豊前守墓所

◆対談者

伊香郡余呉東野の東野氏が

坂田郡で活躍した痕跡とは?

 

◆長谷川

東野政行 書状ですね。

永禄4年4月4日1563年

の文献です。京極加賀守

の領地を獲得していった

郷伊豆入道へ行書状です。

東野弥三郎 政行と著名

しています。この書状は

長岡郷鏡新田の件につい

て書かれておりますが

郷伊豆守が長岡の領地を

京極加賀守家から徐々に

簒奪して行ったとされて

います永禄4年と言えば

浅井長政の時代ですね。

 

◆対談者

私は伊香郡の出身なので

何となく東野氏はピント

きますが坂田郡米原長浜

の人々には全くピントが

合わない話題と思います。

 

◆長谷川

まあこれは仕方がない事

伊香郡赤尾の一族赤尾氏

が長岡郷に進出した事は

地元の人には関心がない

が赤尾家は今でも健在!

 

◆四国人

山内一豊の高知城の家老

職が東野氏な訳ですよ!

 

◆長谷川

ああそれ伊香郡余呉町中之郷

の東野左京系統の東野氏です。

左京家は西浅井町八田部にも

永禄期に浅井長政から領地を

宛がわれた記録が残っている

東野から西浅井町八田部へと

行くには余呉権現坂と塩津の

岩熊坂「やのくまさか」超え

で行かないと浅井郡西部には

行けません。歴史地理です。

 

◆長浜市内人

その話全くピント来ないです。

第一余呉も中之郷も知らない。

西浅井岩熊もヤノクマと読む?

 

◆長谷川

延喜式神名帳には片山神社や

下塩津神社も岩熊の矢相神社

も浅井郡に収録されています。

國學院大學出たからにはこれ

を知らないと恥をかきます。

 

◆対談者

無理もない事です。山内一豊

は長浜城時代もありましたが

地元長浜は太閤秀吉一色です。

 

◆質問者

米原学びあいステーションでの

長谷川先生の歴史講演は順調?

 

◆長谷川

ジリジリじわじわ紳士様の御参加

を伸ばしておりますがこれはこれ

でむずかしい問題なのです。地元

米原市の新発見城郭を講座にて

解説して良いものか全く不明!

 

◆対談者

伊香郡余呉の東野氏も浅井氏に

従属して浅井郡東野にも居館を

設け坂田郡長岡郷でも郷伊豆守

宛てに書簡を残しております。

でも坂田郡の人はピント来ない。

 

◆長谷川

近江町宇賀野の遠藤氏は浅井に

従い坂田郡の須川山砦に在番を

致します。遠藤氏は『信長公記』

にも姉川合戦に登場する浅井長政

方の武将ですが多賀大社遠藤直胤

の三十六歌仙絵は非常に有名です

があまり着目されていない訳です。

遠藤氏と多賀は関係なと一般の人

は考えていますが多賀の遠藤屋敷

に行ってみるとチャント堀切とか

曲輪残って騒然と驚く訳です。

 

◆長谷川

地域開催講座とは非常に難しい

ものです。浅井氏に従属して磯

に進出した磯野丹波家はやがて

佐和山城にまで南進して高宮氏

や坂田郡の今井氏を家臣団へと

組み込む記録が『嶋記録』です。

 

◆対談者

伊香郡の磯野伯耆守が磯山に

進駐した段階で米原市磯には

伊香小屋』と言う小字残し

ている。我々伊香郡から米原

の講座を聞きに行った者には

ピント来ます。

 

◆長谷川

その辺の話題が非常に難しい

磯に住んでおられ米原講座に

来ておられる方に此れを解説

すると伊香郡から米原磯山へと

来て伊香小屋を作った事はNG

 

◆長谷川

この小屋の言葉が 城郭研究界

ではいかに大切な文言なのか?

これは1980年代に山小屋、小屋

が文献に登場するにも関わらず

無視されている  山小屋論争

が大変盛り上がった時代がある

しかし近江湖北戦国史では一切

小屋の文言は語られていません。

 

◆長谷川

天正11年賤ケ岳合戦の羽柴秀吉

の記録には木之本に小屋の文言

があります。余呉天神山砦撤廃

の時の秀吉文書も柴田伊賀小屋

つまり当時長浜城主の柴田勝豊

の陣小屋を撤廃せよと書いてる。

だから山小屋や小屋の文言とは

非常に大切だと言えます。

 

◆長谷川

ここに注目すべき記録を紹介

長浜市加田町に佐久間玄番の

書状が残り、山小屋が見える。

◆長谷川

さらに驚く事があります。

上記の長岡郷 郷伊豆守

は京極加賀守系列の領地

を少しづつ蚕食して行っ

た一族なのですが天正11

年佐和山城主だった堀秀

政の書状にとんでもない

文言が挿入されている事

◆長谷川

米原市○○○の〇様の案内で

新発見の山城に行ったのです

がその谷の地名が滝戸タキド

だった事に私は仰天する事に

ではその近辺にどの様な城塞

が出現したのかと言う事です。

出るわ出るわの連続ヒット曲

これ一体なんじゃ?中世城郭

遺跡のヒットパレード状態!

こんなの発見したらかえって

私一人ぼっちのあいつ状態に

誰からも理解されず誰からも

孤立する恐れが120%ある事

これでは勉強が進まない研究

が進まない事途方に暮れます!

でも気軽に手軽に見学会希望!

これ未来の米原市の観光名所に

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彦根城を見る個人的力量と価値感を上げたい。

2024-10-21 02:02:17 | 民俗学

▲音楽トニージョーホワイト

 

◆みんな

さる10月14日の飛騨牧戸城

美濃篠脇城見学は黄金級の

充実した見学探訪会でした。

しかし長谷川先生はジョー

ワホイトさんの健康面を

心配される会話されました。

 

◆長谷川

当然ですジョーホワイト様

は「N様」から紹介を

受け私の担当する見学会や

講座参加される様なった私の

の大切な仲間です。御快癒を

私は心から祈念しております。

 

◆みんな

11月には無事御快癒される事

を祈りますのでどうぞ宜しく

お伝え下さいませ。

 

◆対談者

さて彦根城が世界遺産登録

される事を勿論期待します

私、個人はもっと大切な事

は彦根城が日本国伝統文化

を今に伝える名城である事

を城見学する人自身が気付

事すなわちスキルアップを

する事が大事と考えてます。

彦根城世界遺産になる前に

彦根城見る人こそ人間国宝

並みなるレベルアップ必要!

国宝彦根城天守の以前に自

らの鑑賞眼や識別力を付け

る事が重要と思います。

 

◆一般様

彦根天守閣どこまで日本国

城の形式継承してる由緒正し

い正統派城郭だといえます?

 

◆質問者

ユンゲの安土城版画が西欧

では発見されました長谷川

先生は本物の安土の城門を

伝えている絵画資料と思い

ますか?

◆長谷川

本物だと思います。なぜなら

日本の城郭の根本施設腰屋根

(こしやね)の描写が見られる

からです。文献『信長公記』

には安土の瓦は唐人一観を

指導者として「奈良衆」焼き

申すなりと太田牛一が記載し

ていてます。またユンゲ版画

から奈良の寺院の門には錣葺き

「しころ」葺きが特徴なのです。

ユンゲ安土版画は真実を現代

まであるていど伝えている

優れた歴史資料と評価致します。

 

◆元締め様

彦根城天守には小屋根が現存を

致します。これこそが国宝です!

◆長谷川

彦根城天守の国宝級の部署

とはこの小屋根の存在です。

日本の城郭の伝統文化継承

をしている正統派天守閣は

此れ国宝に相応し品格あり!

彦根城小屋根こそトラッド

なのです!日本文化の継承

◆長谷川

ちやんと日本の古典的城郭

文化の洛中洛外図の櫓の例

のような小屋根の伝統文化

を継承しているかなのです。

◆長谷川

日本人の観光主観は後世に

創られた創作建造物を観光

として楽しむ習慣がありま

す。しかし海外の人々そう

ユネスコを納得させて世界

の人々を納得させる為には

文化遺産に認定されるには

彦根城天守に建築の伝統文

化が400年続いている事を

認識させる手法が大切です。

 

◆長谷川

いいですか外人さんの観光

客は日本人観光客さんより

数段向学心のある知識有識

を備えてるのです日本国の

トラッド「本物の伝統」を

求めて京都の神社仏閣へと

来訪してる。さて日本人の

観光客の主観と海外観光客

の主観は異なっている訳で

日本では家具が古くなった

ら使い捨てなんですが英国

人などは数百年修繕された

原形を保っている家具こそ

高価アンテイーク家具です。

時代ものビインテージ感覚

だから彦根城天守閣小屋根

はまさに建築文化の本物の

継承トラディショナルです。

この写真見て下さい石垣の

普請作業と天守作事作業の

著しい違いが強烈に出てる

しかも伝統文化の小屋根が

の様式が歴然と修理保全が

なされている事が外人さん

は解かっている。日本人の

観光客さんはヒコニヤン様

の人形を欲しているこの差

がある事は否定できません。

◆長谷川

だからユンゲ安城版画は

大変な日本の城を考える

上で重要資料と言えます!

日本の初期天守は石垣に

ピッテタリフイットし

た建物を作らない傾向に

あるのでです。彦根城は

一階の裾部に「小屋根」を

作事する古い建築様式を残し

ている。フレアのように小さ

な小屋根が付いています。

これは古様城郭特徴です。

▼安土城城門の「腰屋根」
▼越前丸岡城「腰屋根」
 

◆元締め様

11月28日ジヨーホワイト様

が元気に回復して講座来場

された場合。我々は午後か

ら彦根城天守を見直しに行

く予定です。

 

◆一般様

長谷川さんは3回も講師を

解雇された駄目学者です!

第一日本の城館の絵画資料

にも腰屋根や小屋根はない!

 

◆長谷川

城を本当に真心をもった純心

な精神で見学するには会派に

よる牽制や同調強要は無用で

す。澄んだ心で城を見る事こ

そ長谷川城郭塾といえます!

 

◆一般様

長谷川さんは3回も講師を

解雇された駄目学者ですよ!

第一日本の城館の絵画資料

にも腰屋根や小屋根はない!

 

◆長谷川

城見学は心を落ち着けて腰を

すえて実施するのです。この

洛中洛外図屏風の城館の櫓に

も歴然と日本の城郭建築伝統

小屋根が描かれております。

我々日本人は城を観光地のみ

考え日本文化トラデショナル

を海外の方に説明発信しない

事は日本の歴史民俗学の盲点

かもしれません。

◆一般様

すげえ!民間無名不人気研究家

滋賀民俗学会理事たいしたもの

 

◆長谷川

見え透いた世辞は御断り致しま

す。今日本国民自身が城郭民俗

学を身に付ける時節と思います。

 

◆みんな

11月28日ジョーホワイト様笑顔

でお見えになる事を期致します。

 

◆関西風おっちやん

そや彦根城見直し隊の結成や!

そんなもんワテ隊長どすやん!

 

◆元締め様

あかんちゅうの!ホワイト様

復帰記念見学会に致しますよ!

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする