埼玉比企郡高見城の幾何学縄張考察
◆長谷川
城郭を研究する者にとり
比企郡の中世城郭は格別
高度な測量技術が用いら
れ憧れの土地と言えます。
さて今回は高見城四津山
城とも言われる山城形式
城郭城郭ビイスタを考察
致します。宜しく御理解
をお願い御理解を申し上
げます。
◆質問者
長谷川先生は山城にビイスタ
工法測量が使われていると思
っておられましたか?
◆長谷川
私は縄張図を作成する過程で
放射状に城が測量されている
事は成人になる以前から気付
いていましたが、指導や教授
して頂ける先生には恵まれず
社会から孤立した研究家へと
落ちてしてしまいました現在
も全く無名の人気ゼロ学者と
言う事で世捨て人の様な人間
◆質問者
埼玉比企郡高見城にビイスタ
はあるのでしょうか北条氏の
縄張りとは異なる比企郡様式
の城だとかんじるのですが?
◆長谷川
美しい山容の城址をより威厳
を持って作られた可能性ある
と思います。シンプル無駄の
ない簡潔な縄張の城の様です
しかし二の郭の食違虎口など
は秀逸な技巧縄張と言えます。
◆長谷川
この様にどこから見ても山城
が立派に見えるように工夫を
されていると思われます。
◆質問者
現代人はpersonal computerや
スマホを駆使してはいますが
中世城郭を設計縄張していた
当時の人々ほど城郭を真剣に
は観察していない登山ハイク
の様な感覚の人が多いですね?
◆長谷川
中世の人々の測量技術は現代
人が考えている以上に高度な
ものであり城郭縄張術は失わ
れた文化だと考えております。
以下ウイッキペデイアより引用
(山城)。四津山城ともいわれる。
概要
[編集]の丘陵部・四津山(標高197m、比高100m)に築かれた
山城である。山頂部全体を城郭化しており、南北約174m・
東西54mに広がる。北から三ノ郭・ニノ郭・本丸が並ぶ。
本丸は山稜最高部であり、現在は四津山神社が建っている。
北側が搦手口、南側が大手口とみられる。
築城時期は不明。ただし『青木家家譜』に、治承4年
政綱が居住したとある(『小川町史』)。これが城の
1487年)没の増田四郎重富がここに居住したと
支城となっていたとみられ、長享2年(1488年)の
扇谷上杉氏・山内上杉氏が戦った高見ヶ原合戦(第一次)
で、この城は東側の今市台地に陣取った山内上杉方の
背後を守る役割を果たしたと考えられる(『日本城郭大系』)。
この城は使用されたとみられる。ただし高見城での戦いの記録は無い
村上城は、観音山に築かれた山城で、東西約200m、南北250mの規模である。築城の時期については、文治3年(1187)平宗清の守る村上城が落ちたという「村上城落城記」の記述から平安時代末頃と思われる。
その後、永和4年(1378)、益子氏の一族村上新助藤良によって現在の遺構のような城が築かれた。これによって、村上城は宇都宮氏の勢力下に入り、那須氏に対する盾の役割を果たした。村上氏は、50年にわたって居住したと伝えられている。修理工事を行い、現在に至っている。
栃木県さくら市の勝山城航空
写真からも城館ビイスタ工法
を読み取る事は可能なのです。