城郭 長谷川博美 基本記録

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剣熊考№18 万葉 足利の海

2019-10-08 06:57:00 | 剣熊考
剣熊考№18 万葉 足利の海
私のブログでも連続投稿している剣熊考
は隠然とした人気が続いている!

さて日本の古歌『万葉集』の足利とは?
何であろうか?

高市謌一首
標訓 高市(たけち)の歌一首より
集歌1718 
足利思伐 榜行舟薄 高嶋之 足速之水門尓 極尓濫鴨 
訓読 
率(あとも)ひて榜(こ)ぎ行く舟は高島(たかしま)し
阿渡(あと)し水門(みなと)に泊(は)てるらむかも

解釈
船人を率いて帆を操り行く舟は、
高島の阿渡の湊に停泊するのでしょうか。

さて日本の古歌『万葉集』の足利は?
何であろうか?皆目見当がつかない!
足利と書き、あと、と読むべきか?
あしり と言う意味なのか?微笑?

ここであきらめるのが普通の人である。
私はここから更に深化するから研究家
と言えようか?とにかく深化する為に
角川『地名辞典』25 滋賀を引用する。



足利海「あしりのうみ」について記載
されている、もここから先は解らない!

解らなければ諦めるのが世の中の常だ!
しかしだ研究家とは何十年も、あきらめ
ない人の事を言う。パクリの人とは人の
研究を巧妙に搾取し、さも自分が調べた
如く講演で平気で言う人の事だ。何十年
かけて調査しても瞬時にパクられコピー
され、講演も仕事も来ずに、路頭に迷う
厳しく非常な現実が待っている!

泣き事を言っても始まらない。
それが令和と言う冷酷な暗黒時代だ!

寛保2年(1742 年)に作成された
近江国細見図の原図を見る事にする。

見事に足利海が掲載されている!
是を読んで、ああそうかスゴイと
簡単に、思うのが、一般社会だ。
この記事を私と、別の人が講演で
述べてすごい偉大であると思うの
も一般社会の持つ軽薄さでもある。

ある人から聞いた事だが講演の前
に共演者の講師と本日の目玉とな
る議題や着目点をつまり大衆を心
酔させる話題の壺や深淵や研究の
真髄を絶対に軽率に話しはならな
いと言われた。何故ならば一般の
大衆が驚き納得するべき研究内容
を講演の共演者は開口一番にさも
自分が、長年研究してきた如くに
大衆の前で披露して、大衆を瞬時
に納得させ心酔させる、驚くべき
狡猾な話術と処世術を発揮する人
が世の中には現実に実在すると言
う事だ。

これは音楽家に例えるならば
苦労に、次ぐ苦労の末に、作曲
したメロデイーを瞬時に聞き取り
大衆の面前で作曲者の如く披露
する人や、手品のネタを買いに
行く有名手品師がいる事と同じだ。
世の中には産みだした人よりも、
売り出した人の商品に飛付く大衆性
「ポピュリズム」が常に存在する事だ。

何十年も費やして歴史や城郭を調査
研究を継続する事は、民間研究家に
とり。過酷で困難な現実と言えよう。

この近江国細見図には私が剣熊考で
再三言う「小荒路」そして剣熊は
は「天隅」と表現されている。
また再三私の剣熊考で登場する、
「黒山」も明細図には登場している。
足利海名所とは再三私のブログで
登場する。この景色と景観である。
剣熊=天曲=儉熊=である。

2019年前半には下記の石柱が存在
したが2019年後半には石柱は消え
ていた?見当たらなかったのだが?

剣熊考№14 嶮熊の関「劔熊の関」
劔は(俗字)とされる。
 
私は友達も仲間も相談相手も全くなく講師の仕事も全くありません。仕方なく一人淋しく滋賀県高島市
マキノ町野口集落近くを歩いていました。嶮熊の関の文字のある石柱を通過いたしました。今や父も母も
なく、この道を歩いていれば何故か父に会える様な気がしたからです。『近江輿地誌略』や江戸時代の
記録には「剣熊御関所」や「野口御番所」とし て登場しています。また『近江輿 地志略』によると、

「専ラ女人ノ出入ヲ改ムル公儀ヨリノ御関所」とありますから口留番所(くちどめばんしょ)は、江戸
時代に各藩が自藩の境界や交通の要所などに設置した番所のこと。江戸幕府の関所に相当する。また
、江戸幕府が設置した施設でも裏街道に設置されたものなど、関所の要件を満たさない小規模なものが
口留番所と称した事を思いだしました。 私の人生は裏街道ばかり 長谷川 涙

★剣熊、天隅、は南北朝の動乱を記した『太平記』にも登場!
★部を見逃すべからず!
『太平記』北国下向勢凍死事
河野・土居・得能は三百騎にて後陣に打けるが、★見の曲にて前の勢に追殿れ、行べき道を失て、塩津の北にをり居たり。佐々木の一族と、熊谷と、取篭て討んとしける間、相がゝりに懸て、皆差違へんとしけれ共、馬は雪に凍へてはたらかず、兵は指を墜して弓を不控得、太刀のつかをも拳得ざりける間、腰の刀を土につかへ、うつぶしに貫かれてこそ死にけれ。千葉介貞胤は五百余騎にて打けるが、東西くれて降雪に道を蹈迷て、敵の陣へぞ迷出たりける。進退歩を失ひ、前後の御方に離れければ、一所に集て自害をせんとしけるを、尾張守高経の許より使を立て、「弓矢の道今は是までにてこそ候へ。枉て御方へ出られ候へ。此間の義をば身に替ても可申宥。」慇懃に宣ひ遣されければ、貞胤心ならず降参して高経の手にぞ属しける。↓河野通治一族の供養塔と考えられる石塔。
src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/bd/ae37630c3834a02cef59c0564e134c1b.jpg" border="0">
河野・土居・得能は三百騎で後陣に付いていましたが、★見の曲(嶮の曲?)で前の勢に遅れ、行くべき道を失って、塩津(現滋賀県長浜市)の北で足を止めました。佐々木一族と、熊谷が、取り籠めてこれを討とうとしたので、相懸かりに懸かって、皆刺し違えようとしましたが、馬は雪に凍えて動かず、兵は指を落として弓を引き得ず、太刀の柄も握ることができなかったので、腰の刀を地に突いたまま、うつ伏しに貫かれて死にました。千葉介貞胤(千葉貞胤)は五百余騎で馬を打っていましたが、東西暮れて降る雪に道を踏み迷い、敵陣に迷い出ました。進退歩みを失い、前後の味方と離れて、一所に集まって自害をしようとするところに、尾張守高経(斯波高経)の許より使いを立てて、「弓矢の道今はこれまででございます。曲げて味方に出られよ。今までの義をこの身に替えても申し宥めまする」。と慇懃に申し遣わしたので、貞胤は心ならずも降参して高経の手に属しました

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近江二体仏を求めて、剣熊考特別版

2019-09-20 17:11:57 | 剣熊考
近江二体仏を求めて、剣熊考特別版
元滋賀民俗学会理事 長谷川博美
華厳秀麗の島 竹生島 琵琶湖の景観とは常に人の心を洗う
この記録は奥琵琶湖を中心に旅情も含めた文体で表現します。


精選版 日本国語大辞典の解説 どうそ‐じん【道祖神】によると

〘名〙 村境、峠などの路傍にあって外来の疫病や悪霊を防ぐ神。
また、「あの世」の入り口にある神。のちには縁結びの神、旅行
安全の神、子どもと親しい神とされる。男根形の自然石、石に文
字や像を刻んだものなどがある。岐神(くなどのかみ)。道陸神
(どうろくじん・どろくじん)。たむけの神。さえの神。道祖。

とある。私は民俗学者の側面も持っているが今回は【道祖神】
ではなくかって剣熊と呼ばれた長浜市と高島市の周辺にある。
一個の岩石に2体の仏像を彫刻した「二体仏」にスポットを当
て、報告したいと思う。決して民俗学的手法ではなくて気楽な
石造美術への個人的な憧憬として気軽な旅日記として記録する。

私の『剣熊考』の数例は当該ブログに投稿その前述を参照の事
『剣熊考』を逐次参照しながら当該記録を鑑賞願いたいと思う。
先ずは黒山や小荒路の地理的位置を概略地図で把握を願いたい。



◆長浜市西浅井町黒山には二体仏があるのか?
長浜市西浅井町黒山の東には写真の様な立派な磨崖仏が存在
する。一石に二体の仏像を刻んだ見事なもので、何故か牧歌
的な長野県の二体同祖神を連想させる柔和な表情でもある。
かって万字坂を西近江から湖北湖東に向かう旅人の心を安堵
させる心のよりどころであったと推測される。つまり交通の
要衝である。

◆黒山の石仏群に至る。
なんとも魅力的な案内版であろうか?路傍に整列された石造
美術の数々には真に圧倒される。摩訶不可思議な旅情を誘う。

◆夏の余韻の残光を浴びた令和元年9月のシイの木のようす。

◆その樹齢は1000年をはかりこの黒山の地が1000年来続く
剣熊に関連する交通の要衝だった事を如実に物語っている。

◆黒山石仏群を見る。
宝塔のなかに二体仏を認める事が出来る。

◆ここにも二体仏が顔をのぞかしている。

◆あるある、ここにも二体仏がある。お顔は丸く真に柔和だ。

◆あるある、またある!赤い前掛けのペアルックが可愛い!

◆おっととと!あれもこれも二体仏かいな!?ここは長野か?

◆あれまあ~ここにもシックな二体仏!

◆我はうみの子白波の 伊香4育ちの生粋の伊香郡人だ!
伊香郡黒山の二体仏 はやりはやって黒山のひとだかり!

◆今度は高島市小荒路そして浦の集落に向かう剣熊の地だ!
高島郡の山間部なのに浦の集落名が卜部氏などを想像する。
そう言えば長浜市西浅井町も元と言えば古く浅井郡なのだ。
菅浦や大浦と言う地名にも浦を強く連想させる地名ではある。

◆高島市マキノ町
浦に到着した。
西北に遠く明王の禿「みようおうのはげ」と呼ばれる岩肌
荒々しく荘厳に雄々しく山脈が聳え、まるで同祖神の本場
長野に行っているような錯覚を覚える。これがマキノ旅情
の真髄と言うものか?

◆明王の禿「みようおうのはげ」にはかって過去に明王の
小祠が存在したとも言われるが?

◆高島市マキノ町浦を訪問する。
山裾の道を行けば明王の石造と思われる
なんと小祠には不思議な石造物が祀られていた。

◆よく見ると脇侍や怒髪も観察され驚く!

◆更に道を行くと不思議の石造物がある!
これは凄い!二体仏の3連発ではないか?
一番右の宝珠を思わせる石柱が気になる!

◆いっか来た道、思い出の道。
メタセコイアの道 大きく成長し
冬のソナタに登場する道にも似て
ヨン様ロート゛とも、人は言う!
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剣熊考番外編 越前近江国境 固関 関塞の現実

2019-07-16 07:26:13 | 剣熊考
剣熊考番外編 越前近江国境 固関 関塞の現実
対話者
 私も長谷川先生の遺跡解説や歴史知識は深いと思います。私はある峠に行きましたが。
ある先生はここが〇〇峠ですと解説され文字に書かれた事を皆さんに説明されるだけで
私は満足しませんでした。ころろがもう何十年も前の事ですが、先生と某峠に行ったら
別の峠道が約100m向うにあると現地を解説され私は長谷川先生に驚嘆した事があります。
長谷川
 おそらく越前と近江の境にある。深坂峠の深坂古道のもう一つ別の古道を言われている
とのかと、思いますが?敦賀市と長浜市の境目にある峠の遺跡の事ですね?
対話者
 私は遠足に峠には行きたくないんですよ。城址に行っても砦に行っても現実の遺構を解説
して頂ける先生を探しています。お話なら言葉でいくらでも人は出来ます私は現実を見たい。
長谷川
 歴史紀行と遺構見学は分野の異なる世界なので紀行愛好家様の心を尊重して頂きたいです。
対談者
 道が塞がれている。固関されている現実を文字ずらだけではなく現実現場を見たいのです。
長谷川
 多分、それは滋賀県中世城郭分布調査西浅井で私が計測した深坂峠の関塞図かと思います。
 
長谷川
 拡大すると、この様な平面形状です。越前と近江の峠にバリケード状の検問所を設置してます。
 現代で言う非常線のような仕切りです。なお現代の福井県疋田には国道8号線と161号線の合流
 点に疋田検問所の文字がみ取れます。福井滋賀の交通の時代を超えた要衝の普遍性を感じます。

長谷川
 越前朝倉の重鎮、朝倉金吾教景が亡くなると天文元年には越前引壇城を塩津、今西、南浜、の軍勢を
集めて熊谷平次郎が三千騎で疋田の城を攻めた事は越前福井の敦賀側ではよく知られています。また
疋田は親小谷派とみえて小谷と同じ地名の小丸や日吉神社「山王社」や桜の馬場の地名が残っています。
城址愛好家
 そんな馬鹿な事はない。江北の浅井に、ことわりもなく熊谷が越前に攻め入る事など考えられない!
対話者
塩津谷に対して認識不足です。塩津谷には9箇所もの熊谷氏関係の中世城郭形式の城址がある。
1534年(天文3 年)8月20日の『浅井備前守宿所饗応記』を読むと、熊谷氏の方が浅井よりも
上席に着座しており、その当時は浅井より熊谷の方が江北では席次が高い、つまり熊谷の行動は
浅井には規制されていないと思います。京極氏に次ぐ席次に熊谷氏が格上として着席しています。
長谷川
 まあまあ双方仲良くして下さい。
 陸路を拠点とする疋田と小谷の北国道の馬借連合。いわいる陸送の「山道グループ」と
 琵琶湖岸の湖の道を拠点とする。「湖岸グルーブ」の戦いは永正の頃も続いています。
 小谷には市場や城下つまり町屋が形成されましが陸路専門の短所を補うために船着きも
 設けられていました。再び琵琶湖の湖岸湖上ルートに着眼して今浜を長浜城と改めて
 城と城下町づくりに着手したのが織田方の羽柴秀吉、つまり後の豊臣秀吉でしょうか?

対話者
 「それ」なんです!私が長谷川先生に求めている深さの意味は「それ」なんですよ。
  言葉による表面上の解説や観光ガイドとは別の世界の深さは「それ」なんですよ!
城址愛好家
  峠なんて城郭と関係ないでしょ?
対話者
  関塞は城郭研究の一分野ですよ!
長谷川
  まあまあ双方様仲良くして下さい。
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剣熊考№17 羽田矢国の「斧鉞」

2019-07-10 19:57:50 | 剣熊考
  ◆私の剣熊考は17回を迎えてしまった。まだ続くと私は思う。興味ある人は№1から是非お読み願いたい。さて672年の壬申の乱において羽田矢国は大海人皇子(天武天皇)側に寝返り、琵琶湖北回りの軍を率いて三尾城を攻略した。彼は近江の将軍とも呼ばれた。

◆壬申の乱における羽田矢国の活躍
壬申の乱が勃発した際に矢国は近江朝廷側の軍の将であった。山部王、蘇我果安、巨勢比等(巨勢人)が率いた数万の軍の中にあった。この軍は琵琶湖東岸を進んで美濃国の不破にある大海人皇子の本拠を攻撃する予定であったのだが、ドオ年の7月2日頃に果安と比等が山部王を殺したため、混乱して止まった。このとき、近江の将軍・羽田公矢国とその子、大人らは己の族を率いて大海人皇子側に寝返った。大海人皇子(天武天皇)から斧鉞「斧鉞」を授かり、将軍となって、ただちに北越に行くよう命じられた。北陸時節道将軍と言う事になる。時節将軍とは乱に臨んで王から任命される臨時将軍である。

◆北陸道将軍
 つまり羽田矢国は北陸道将軍として大海人皇子「天武」から斧鉞を授かった事に相当する。斧鉞を国王から下賜される意味は重要でこの慣習の起源は中国にある。。『淮南子』(えなんじ)の兵略訓によると中国の地方で戦争や反乱が起こると,国王は将軍を召して君命を与え、出陣の儀式をとり行い、旗鼓と斧鉞(ふえつ)を授ける。将軍は戦車に旌旗と斧鉞をたてそろえて出陣する。唐の軍防令にも将軍への「斧鉞」下賜の件が見える。

◆羽田矢国ら北陸道を制圧した軍兵は必然的に西近江路から高島の三尾城方面に向かう陸路
は否応なく剣熊の地、万字峠を通過しなけばならない。彼ら東近江勢力が北陸道に向かう過程または乱の一か月後の8月25日に、近江国浅井郡田根(現在の滋賀県東浅井郡北部)で中臣金が斬り殺された。事を考えると余呉の足海峠、西浅井の岩熊峠、そして万字峠こと剣熊
を羽田矢国らが通過したと私は考えている。この琵琶湖東部から琵琶湖西部へと向かう
ルートには無数の延喜式式内もあり古くから湖東と湖西を結ぶ間道が存在したと考えられる。



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剣熊考№15 私は伊香郡人 黒山 1

2019-06-23 05:58:54 | 剣熊考
剣熊考№15 私は伊香郡人 黒山 1
 私は伊香郡人である。
今は米原に仮住しているが
根っからの伊香郡人である

私は友達も城見学の支持者も
相談相手も講師の仕事も
全くない孤独な伊香郡人だ

永原村に行ってくる!
黒山に行って来るわ!
とそんな事を言っても
誰も関心を示さない。
もう今は令和と言う全く別の時代なのだ!

平成の時代が終り
令和の時代が始まっても

永原村から出て
滋賀県知事となられた
谷口久次郎先生の様な滋賀の行く末を切実に
思う真の滋賀男児の英傑が何処におろうやと!
嘆く真面目な老人も過去には居た記憶がある?

この発想は、昭和生まれの古い老人の
伊香郡人の発想であろう?
それは路頭に迷う悲しい運命の「失笑」私かもしれない?「微笑」

滋賀県長浜市西浅井町黒谷を
冷静に歴史記録を考察すると
歴然たる近江国浅井郡なのだ。

平安初期の延喜式(えんぎしき)にも「敦賀津より塩津に運ぶ、塩津より大浦に漕ぐ」
とあり、この文言は非常に重要である。何故なら延喜式は当時の日本国の公式文書で
現代で言うなら国土交通省の文書にも匹敵する公式記録なのである。さて私は東近江
の和田山の西麓で以下の石造美術を見て痛く感激したものだ。


またある時、私は長浜市西浅井町の集福寺に迷い込み延喜式内神社の石造美術にも
感激したものだ。。↓河野通治と一族の供養塔とも考えられる石塔。

さて今回の私の剣熊考は『太平記』にある「見の曲/けんのくま」のに着眼した
ものであり大浦庄の歴史や賎ケ岳合戦に関わる考証は今回は極力避けたい。前回
の投稿では地図上のマキノ町の野口にある剣熊関碑の写真を使ったが、当該地図
には野口から黒山に峠越えする山道が描かれている。これこそが私の探究している
「見の曲/けんのくま」天熊や万字峠に関するものかもしれない。しかし私は即断
しない。研究とは30年40年50年と継続すべき地味で慎重なものだ。

『太平記』北国下向勢凍死事 ★に注目
河野・土居・得能は三百騎にて後陣に打けるが、★見の曲にて前の勢に追殿れ、行べき道を失て、塩津の北にをり居たり。佐々木の一族と、熊谷と、取篭て討んとしける間、相がゝりに懸て、皆差違へんとしけれ共、馬は雪に凍へてはたらかず、兵は指を墜して弓を不控得、太刀のつかをも拳得ざりける間、腰の刀を土につかへ、うつぶしに貫かれてこそ死にけれ。千葉介貞胤は五百余騎にて打けるが、東西くれて降雪に道を蹈迷て、敵の陣へぞ迷出たりける。進退歩を失ひ、前後の御方に離れければ、一所に集て自害をせんとしけるを、尾張守高経の許より使を立て、「弓矢の道今は是までにてこそ候へ。枉て御方へ出られ候へ。此間の義をば身に替ても可申宥。」慇懃に宣ひ遣されければ、貞胤心ならず降参して高経の手にぞ属しける。

河野・土居・得能は三百騎で後陣に付いていましたが、★見の曲(嶮の曲?)で前の勢に遅れ、行くべき道を失って、塩津(現滋賀県長浜市)の北で足を止めました。佐々木一族と、熊谷が、取り籠めてこれを討とうとしたので、相懸かりに懸かって、皆刺し違えようとしましたが、馬は雪に凍えて動かず、兵は指を落として弓を引き得ず、太刀の柄も握ることができなかったので、腰の刀を地に突いたまま、うつ伏しに貫かれて死にました。千葉介貞胤(千葉貞胤)は五百余騎で馬を打っていましたが、東西暮れて降る雪に道を踏み迷い、敵陣に迷い出ました。進退歩みを失い、前後の味方と離れて、一所に集まって自害をしようとするところに、尾張守高経(斯波高経)の許より使いを立てて、「弓矢の道今はこれまででございます。曲げて味方に出られよ。今までの義をこの身に替えても申し宥めまする」。と慇懃に申し遣わしたので、貞胤は心ならずも降参して高経の手に属しました。

さて黒山の石造美術です。鎌倉や南北朝の特徴を備えていて驚くべきもの
私は黒山が昔から湖北の小さな一寒村の黒山とは昔から思っていません。
日本の交通史に燦然と輝く極めて重要な天嶮の地であると考えています。




















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