今まさに万緑。
王安石の詩「万緑叢中紅一点」にヒントを得、草田男はこの句を発想したという。
緑 緑 緑 緑 緑 緑
の中、吾子のつややかな顔に真白な歯。
これ以上の感動はない。
吾が子のこの時代を思い出すと涙が出てくる。
「万緑叢中紅一点」の紅一点は柘榴の花だそうだ。
この万緑という季語が認知され歳時記に載るようになったのは、
1939年だそうである。
実は私は1939年生まれである。
つまりこの句の歯はおれの歯だ。
今、歯のトラブルは一切ない。
「人間は哀れである」
(東海林さだお著「ヘンな事ばかり考える男 変な事は考えない女」より)
人間は哀れである
何がどう哀れって、人間に関するすべてが哀れである。
姿、形が哀れである。
体のてっぺんにのっかっている大きな頭があわれである。
二本の足で立っているところが哀れである。
ヒョロッと立って、本人はこれで安定しているつもりだが、後ろからちょっと小突かれればつんのめってしまうところが哀れだ。
せわしなく、息なんか吸ったり吐いたりしているところも哀れだ。
その吸ったり吐いたりを、やめられないところも哀れだ。
たまには呼吸を休みたいと思っても、休むと死んじゃうところも哀れだ。
そうしないと乾いちゃうからといって、ときどきまばたきをしているのも哀れだ。
全身に血液を送らなくてはならないからといって、心臓がポンプで加圧しているところも哀れだ。
加圧も過ぎると、高血圧ということになるから、適当に加減して送らなくちゃ、なんていってるところも哀れだ。
やっていることが一つ一つせこい。
人間の生理とは、せこいことをせこせこやることなのだ。その、せこい生理で人間は生きているのだ。
両足を少しづつ互いちがいにくり出すことによって、移動を行わなけばならないというのも哀れだ。
それを”人間は一歩一歩”なんていってるのも哀れだ。
その足に、靴とかいうのものをはめているのも哀れだ。
体に布をまとっているのも哀れだ。
その布にデザインというものを施しているのも哀れだ。
ずいぶん人間の哀れを書きつらねてきたが、人間はそのことに気がついていない。
自分は哀れじゃないと思っている。
哀れむどころか、(人間、この偉大なるもの)なんて思っている人もいる。
……中略……
わたくしが「ひょっとしら、人間は哀れなのではないか」
と気づいたのは、いまを去ること四十数年前、すなわち思春期の頃であった。
十五,六歳の少年であったわたくしは、ある出来事に遭遇したのである。
……以下略……
大変な本です。人間の哀れ、人それぞれ、まだまだありそうです。もっと読みたいでしょうが、これ以上の引用はやめます。東海林さだおはマンガも書く思想家と言ってもよい。買って読んで下さい。
東海林さだお著「ヘンな事ばかり考える男 ヘンな事は考えない女」文春文庫 476円+消費税