三流読書人

毎日の新聞 書物 など主に活字メディアを読んだ感想意見など書いておきたい

ドングリ小屋住人 

万緑

2009年05月24日 20時54分30秒 | 文芸
   万緑の中や吾子の歯はえそむる     中村草田男

今まさに万緑。
王安石の詩「万緑叢中紅一点」にヒントを得、草田男はこの句を発想したという。
緑 緑 緑 緑 緑 緑
の中、吾子のつややかな顔に真白な歯。
これ以上の感動はない。

吾が子のこの時代を思い出すと涙が出てくる。
「万緑叢中紅一点」の紅一点は柘榴の花だそうだ。
この万緑という季語が認知され歳時記に載るようになったのは、
1939年だそうである。
実は私は1939年生まれである。
つまりこの句の歯はおれの歯だ。
今、歯のトラブルは一切ない。






葛  秋の歌

2007年09月07日 17時58分57秒 | 文芸
秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる                                 藤原敏行
                         古今集 巻第四(秋歌上)

葛の花踏みしだかれて 色あたらし この山道を行きし人あり   
                            釈 迢空





水仙

2006年12月23日 17時12分48秒 | 文芸


日当たりの良い斜面には水仙が咲き初めています。
配偶者が球根をあちこちに植えています。ずいぶん増えました。

   水仙や白き障子のともうつり    芭蕉
 
   水仙に狐遊ぶや宵月夜       蕪村
 
   日についでめぐれる月や水仙花   虚子
 
   水仙花睡りの末の息くるし     石田波郷

   ひゅんひゅんと雀の空や水仙花   村田脩

 など。 (明治書院「新撰俳句歳時記」冬)
 
  

人間は哀れである 東海林さだお

2006年12月15日 11時03分48秒 | 文芸

 「人間は哀れである」
 (東海林さだお著「ヘンな事ばかり考える男 変な事は考えない女」より)
 
 人間は哀れである
 何がどう哀れって、人間に関するすべてが哀れである。
 姿、形が哀れである。
 体のてっぺんにのっかっている大きな頭があわれである。
 二本の足で立っているところが哀れである。
 ヒョロッと立って、本人はこれで安定しているつもりだが、後ろからちょっと小突かれればつんのめってしまうところが哀れだ。
 せわしなく、息なんか吸ったり吐いたりしているところも哀れだ。
 その吸ったり吐いたりを、やめられないところも哀れだ。
 たまには呼吸を休みたいと思っても、休むと死んじゃうところも哀れだ。
 そうしないと乾いちゃうからといって、ときどきまばたきをしているのも哀れだ。
 全身に血液を送らなくてはならないからといって、心臓がポンプで加圧しているところも哀れだ。
 加圧も過ぎると、高血圧ということになるから、適当に加減して送らなくちゃ、なんていってるところも哀れだ。
 やっていることが一つ一つせこい。
 人間の生理とは、せこいことをせこせこやることなのだ。その、せこい生理で人間は生きているのだ。
 両足を少しづつ互いちがいにくり出すことによって、移動を行わなけばならないというのも哀れだ。
 それを”人間は一歩一歩”なんていってるのも哀れだ。
 その足に、靴とかいうのものをはめているのも哀れだ。
 体に布をまとっているのも哀れだ。
 その布にデザインというものを施しているのも哀れだ。
 ずいぶん人間の哀れを書きつらねてきたが、人間はそのことに気がついていない。
 自分は哀れじゃないと思っている。
 哀れむどころか、(人間、この偉大なるもの)なんて思っている人もいる。
         
              ……中略……

 わたくしが「ひょっとしら、人間は哀れなのではないか」
 と気づいたのは、いまを去ること四十数年前、すなわち思春期の頃であった。
 十五,六歳の少年であったわたくしは、ある出来事に遭遇したのである。

              ……以下略……

 
 大変な本です。人間の哀れ、人それぞれ、まだまだありそうです。もっと読みたいでしょうが、これ以上の引用はやめます。東海林さだおはマンガも書く思想家と言ってもよい。買って読んで下さい。
 東海林さだお著「ヘンな事ばかり考える男 ヘンな事は考えない女」文春文庫 476円+消費税


俳句 山茶花

2006年12月01日 08時43分02秒 | 文芸

夕焼けのうすれ山茶花も散りゆくか      渡辺水巴

死期明らかなり山茶花の咲き誇る       中塚一碧楼

山茶花に筧ほそるる日和かな         室生犀星
 
咲きつぎて散りつぎて八重山茶花よ      下村ひろし
 
山茶花のどの花弁にも日の当たる       若月瑞峰
 
山茶花や耳のうしろに風すぎて        嶺 治雄
                         
 昨日の白色の花は野生種、「ふつう山茶花と書くが、これは誤用で『茶花』と書くが正しいとされている。『姫椿』ともいう」(『新撰俳句歳時記』冬 明治書院)。そうである。
 名残の紅葉、黄葉も散ってしまうと次第に色彩が乏しくなる。
 今日から師走。








里の秋

2006年09月28日 07時54分00秒 | 文芸

里の秋

しずかなしずかな 里の秋
  おせどに木の実の 落ちる夜は
   ああ かあさんと ただ二人
    栗の実にてます いろりばた

 あかるいあかるい 星の空
  なきなき夜がもの 渡る夜は
   ああ とうさんの あのえがお
    栗の実たべては おもいだす

 さよならさよなら 椰子の島
  お舟にゆられて かえられる
   ああ とうさんよ ご無事でと
    今夜も母さんと 祈ります


作詞: 斉藤信夫
作曲: 海沼実
唄: 川田正子

(昭和16年12月NHK「ラジオ歌謡」)

 昭和16年12月21日発表されたのだそうです。
 昭和16年12月8日に日本軍が真珠湾攻撃を行います。
 そしてあの絶望的な戦争が世界中に拡大していきます。
 3番の歌詞で想像すると出征兵士の留守家庭と思うのには無理はないでしょう。
 このうちのとうさんは、無事に帰られたのでしょうか。

秋刀魚の歌 佐藤春夫

2006年09月17日 20時13分16秒 | 文芸
  「秋刀魚の歌」   佐藤春夫

あはれ
秋風よ
情(こころ)あらば
伝へてよ
男ありて
今日の夕餉(ゆうげ)に
ひとりさんまを食(くら)ひて
思ひにふけると。

さんま、さんま、
そが上に青き蜜柑の酸(す)をしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみなつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎ来て夕げにむかひけむ。

あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児は
小さき箸をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸(はら)をくれむと言ふにあらずや。

あはれ
秋風よ
汝(なれ)こそは見つらめ
世のつねならぬ団欒(まどゐ)を。
いかに
秋風よ
いとせめて
証(あかし)せよ かの一ときの団欒(まどゐ)ゆめに非ずと。

あはれ
秋風よ
情(こころ)あらば伝へてよ、
夫を失はざりし妻と
父を失はざりし幼児(をさなご)とに伝へてよ
男ありて
今日の夕げにひとり
さんまを食ひて
涙をながすと。

さんま、さんま、
さんま苦いか 塩つぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせてさんまを食ふは
いづこの里のならひぞや。
あはれ
げに そは問はまほしくをかし。

    ◇      ◇      ◇

秋刀魚のシーズン。新しい見事な秋刀魚が1尾100円。
やはり七輪(かんてき)で焼きたい。
昔ながらの道具がホームセンターなどで何でも売ってます。
七輪に消し炭(あれば)を入れ、焼き肉の時に使った残りのガスボンベをバーナーにつけ、火をおこします。
次は30年ほど前に買ったニクロム線のきれたヘヤードライヤーで風を送ります。
あっという間に強烈におこります。網をよく焼いて、塩をあてた秋刀魚をのせます。強火の遠火です。
ここまで15~20分。
大根おろしに酢、酢は「青きみかんの酢」でもレモンでもスダチでもワインビネガーでもバルサミコでも何でもお好みで。
豊かな気持ちになります。残った火は消し炭に(これが大事)、火消し壺も売ってます。

※ 佐藤春夫(1892年~1964年)新宮市出身 作家



八月のうた 

2006年08月16日 11時05分06秒 | 文芸

終戦61年 忘れてはいけないことがある。

堀口大学
いくさ人おほまつりごとわたくしし国を亡ぼす憎むべきかな

土岐善麿
あなたは勝つものと思ってゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ
子らみたり召されて征きしたたかひを敗れよとしも祈るべかりしか
 
正田篠江
子と母か繋ぐ手の指離れざる二ツの死骸水槽より出ず
大き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり

横尾健三郎
五人の兵を出せる農家あり五人の兵いまだ帰らず(5人…いつたり)

近藤菊恵
征く人に切りて贈りし黒髪の肩すぎてはやも三とせになりぬ

講談社刊『昭和万葉集』より。