三流読書人

毎日の新聞 書物 など主に活字メディアを読んだ感想意見など書いておきたい

ドングリ小屋住人 

白木蓮 ヘルマン・ヘッセの水彩画

2010年03月17日 14時15分31秒 | 芸術


ヘルマン・ヘッセの水彩画である。
Hermann・Hesse(1877-1963)ノーベル文学賞作家。『車輪の下』『デーミアン』『シッダルタ』など。若い頃読んだ。
ヘッセは晩年イタリアに住み、執筆以外の時間は庭仕事で過ごしたそうだ。
これは『庭仕事の愉しみ』(草思社刊 岡田朝雄訳)という本の中に挿入されている彼の描いた水彩画である
花を愛し、詩を愛し、言葉を愛した作家ヘルマン・ヘッセ。もう一度読んでみようかと思わないでもないが、難解だろうな。



黒沢作品を観るⅢ 「七人の侍」 宮口精二という俳優

2009年02月09日 09時17分42秒 | 芸術
NHK黒沢作品のシリーズは、2月7日には「七人の侍」を放映しました。
この映画については語りつくされています。
私にとっては宮口精二につきるのです。
夜一人で種子島をとりにいって朝もやの中を帰ってくる。あの剣豪です。
勝四郎の憧れの人です。
細い小柄でいながら圧倒的な存在感、たまりません。

「生きる」のなかで加東大介などを従えたやくざの親分か兄貴分を演じて、せりふは一言もなしという役柄でしたが、これもすごかったです。

もうひとつ、小林正樹監督の「人間の条件」で中国人だか、朝鮮人だったかの役も印象に残っています。

20年余り前、73歳で亡くなっています。



黒沢作品を観るⅡ 「赤ひげ」

2009年02月06日 16時43分39秒 | 芸術
NHK BS 昨夜は「赤ひげ」
赤ひげこと三船敏郎演じる新出去定、病気を治すことは貧困と無知との闘い、幕府の政策が貧困と無知を無くさねばということを掲げたことがあったか、ということを問いかける。
貧困に追いこまれ疲弊する庶民、メタボリックシンドロームの殿様、徳川幕府の小石川養生所への補助を3分の1に削減することなど全く今日の日本の抱える課題と同じである。 

加山雄三はこの一作があるから彼も映画俳優であったということができるだろう。
が、なにより、この映画が感動の深いものとなっているのは、香川京子、仁木てるみ、根岸明美、桑野みゆき、団令子ら、また、脇の女優陣の好演があったからではないかと思う。

身体を治し、心を治し、内科も外科もなくすべての、傷を負った人々の支えとなる医師の姿を今の医学に携わる人々に見てほしい。



黒沢作品 「天国と地獄」を観る

2009年02月05日 08時59分53秒 | 芸術
大きな薄型のテレビを買った。
DVDプレーヤーも買った。
NHKでは、黒沢監督作品をずっと放送している。
先日、NHKハイビジョンで「天国と地獄」を放映、録画してゆっくり観た。
37インチはやや雰囲気のつたわる観方であろうか。
なによりCMの入らないのが良い。
いまから四十数年前、発表された当時観た驚愕がよみがえった。

今また見て驚くのはそのリアリティの追求であろうか。
例えば、被疑者を刑事が尾行する。その尾行の臨場感、緊迫感が凄い。
見ているこちらにもどれが尾行者かどれが群集かわからない。
気取られない動き、服装、斯くあらねば実際には犯人を追うことなどできないと思われる。説得力がある。
それに比べ近頃のテレビのドラマなどはあまりにちゃちでお粗末、観るに耐えない。

そしてなにより、犯人役の山崎努、デビュー作である。
ミラーのサングラスをこのときはじめて見た。
鏡の内側から社会を見る。
犯人の心理を象徴しているようであった。
「もう一度殺人を再現させて犯人を死刑に追い込む」。という仲代達也演じる警部のセリフ。
犯罪と人間、犯罪の背景、犯罪との闘いとは、などあらためて考えさせられる。
最後のシーンも衝撃的である。

「七人の侍」「天国と地獄」「生きる」、私はこの三作だと思う。
後年のおどろおどろしいものはごめんだ。
 

黒澤明監督作品「生きる」

2008年08月03日 11時06分00秒 | 芸術
映画黒澤明監督作品「生きる」を見ましたか。
昨夜、NHKBS2が放映しました。
凄かったですね。
たしか発表された当時見ているのですが。
この映画の重いテーマに2時間付き合うのはたいへんだと思ってあまり気乗りはしなかったのですが、最後まで見てしまいました。
映画はやはりエンターテインメントだと改めて思いました。
やっぱりおもしろいのです。
黒沢監督は凄い。
出演している人々も凄い。
志村喬はもちろん、小田切みき、藤原鎌足、千秋実、金子信雄、伊藤雄之助、浦辺粂子、左卜全、などなど、戦後の日本の映画、テレビなど映像文化の中心となった俳優ばかりです。
中でも印象に残ったのは、ほんのワンカットしか出ていないが宮口精二のヤクザ役、一言もセリフのない役ですが、凄かった。加東大介もヤクザ役としてはなかなか見ることのできない役所でした。
怪優、奇優、名優、なんと表現したらよいのか。
志村喬の「ゴンドラの歌」、ピアニストの市村敏幸(だったかなどんな字だったか)、伊藤雄之助のメフィストフェレス。
日本の役所の仕組み、下級、上級役人の発想は本質的には今も変わっていないようです。
黒沢作品の中でも特筆すべきものではないでしょうか。
37インチのプラズマテレビ買ってよかったと思いました。


「癒しの音楽」

2007年03月16日 15時57分07秒 | 芸術
 「癒し」「癒される」という言葉を最近よく聞き、何とはなしに違和感を感じていた。
 音楽の持つ「癒し」ということについて渡辺裕氏(東大大学院教授・美学芸術学)が3月15日付『毎日新聞』に書いている。タイトルは「『癒しの音楽』は危険な罠」。少し長いのですが、ご一読を。

 世の中がひどくヒステリックになっている。論理的思考や冷静なバランス感覚が、没論理的な激情的うねりにあっという間に押し流されて無効化され、チェック機能も働かなくなるようなことが相次いでいる。「小泉劇場」などと呼ばれる状況に象徴されるように、多面的な視点と冷静な判断が一番求められるはずの政治家までがそういう動きに翻弄されている。
 テレビも新聞も論理や思考の影はうすく、「感動」や「怒り」の大安売りである。無知ゆえに一方的に流れがちな素人に対し、物事を裏から見たり斜めから見たり、想像力を働かせて敢えて逆の立場に身を置いたりして、多面的な視点を提示し、ヒステリックな暴走をとめるのがマスコミの役割だと思うのだが、今はマスコミ自体がそれを作り出し、あおっているようにみえる。危機的状況だ。
 世の中の落ち着きがなくなってくると、せめて一時でも現実逃避できる安らぎの場所を確保したいという欲求が生まれる。その切り札として登場するのが音楽だ。「癒し」などのタイトルがついたCDが次々と出てくるのはそういう状況の反映だろう。だがこの音楽、なかなか一筋縄でいかない曲者なのである。
 音楽は古来、感情をかきたてることによって人を動かす強い力を持つと考えられてきた。プラトンは政治家たる者は音楽を熟知すべきであると述べた。音楽を効果的に使う術を身につけることが、いわば理屈抜きに人間を動かす武器になると考えたからである。中国にも、同様な考え方にもとづき、音楽の秩序の支配こそ国の支配の源だとする思想があった。こういう考え方はその後もいろいろな形で残り続けた。日本が開国直後の明治十二年という早い段階
で、音楽教育普及のために音楽取調掛(後の東京音楽学校)を作ったのも、音楽が国家統治のための不可欠な手段だと考えた結果であり、日本を文化的な国にしたいなどと考えてのことではない。音楽は「癒し」どころではなく、人々を政治的に支配するための強力な武器だったのである。
 芸術の自律性が認識された近代には、音楽のそのような性格は背景に退いて行く。

(・・中略・・。しかし、音楽はいろいろな方向に人を引っ張り込む力を持つ危険な存在である。例として)

 以下要約
 そういう例で思い出されるのはベートーヴェンの《第九》である。フランスの革命シャンソンにルーツを持つとも言われるこの作品は、二〇世紀初頭のドイツで労働者運動を盛り上げる切り札として使われる一方、一九三六年のベルリン・オリンピックの開会式では、ナチが人々を引き込むための道具となった。日本でも戦時下の一九四四年出陣学徒壮行大音楽会、戦後のうたごえ、労働運動と全く逆とも言ってよい様々な動きの中で絶大な効果を発揮した。論理を抜きにし、感情レベルで人を動かし、引き込む絶好のメディアなのである。没論理的・感情的にものが動くようになっている昨今、音楽はその動きに拍車をかけるもっとも危険な存在ではないかという気がしてくる。

 本文
 必要なのは、音楽の持つ巨大な政治的力を認識し、そのあり方を見きわめた上で、それをプラスに転化して「平和利用」する術を考えることの出来る知性である。  (・・以下略)




 




四天王像 初詣

2007年01月03日 17時12分21秒 | 芸術
四天王



近所にある名刹の中門。四天王像の一体です。
四方鎮護の神とされる。調べてみると、東方は持国天、南方は増長天、西方は広目天、北方は多聞天とあるから方角から言って増長天か。
詳しい方、コメント頂ければ有り難いのですが。

中高年のパソコン愛好の仲間と三社参りです。


科学と芸術の再会

2006年12月06日 13時28分05秒 | 芸術

12月6日付 『毎日新聞』コラム「発信箱」 元村有希子氏

 「科学と芸術の再開」
  モーツアルトは1791年12月5日、35才で死んだ。その作品は今も多くの人を引きつける。
 小柴昌俊・東京大特別栄誉教授が「モーツアルトとアインシュタインはどちらが天才か」について語っていた。
 アインシュタインの相対性理論は世界観を変えたが、もし彼がいなかったとしても誰かが同じことを考えついただろう。しかしモーツアルトの旋律は他の誰にも生み出せない。だから「モーツアルトの方が天才だ」という。
 芸術作品は絶対不可侵の価値を持つ。一方、科学は成果が試され、否定されたり修正されながら進歩していくから、単純な比較は難しい。当のアインシュタインは「死ぬことはモーツアルトが聴けなくなることさ」という言葉を残している。
 近年、科学と芸術の出会いを目指す取り組みが増えてきた。 9回目の「ロレアル色の科学と芸術賞」金賞を受賞した北岡明佳・立命館大学教授は錯覚の研究者だ。「目の錯覚」がなぜ起きるのか、脳科学の視点から解明しながら、原理を応用した錯視デザイン画を描いている。
 とぐろを巻いた蛇の模様がぐるぐると回る「蛇の回転」は代表作の一つだ。 
 考えてみれば科学も芸術も、感動から入ってその背景にある真理を見つめる仕事である。対立的にとらえる必要はないのかもしれない。
 レオナルド・ダヴィンチは画家であり、科学者だった。学問が今日ほど細分化されていない時代の天才だ。「枠」にとらわれず科学と芸術の間を自在に行き来する人が増えれば、科学はもっと身近で魅力的になると思う。(環境科学部)

 科学が人間を絶望させる時代が続いてきたと思う。
 人間に夢をあたえる科学であって欲しい。
 そうすれば科学は芸術に近づく、あるいは歩みよる。

 


「無言館」

2006年11月09日 09時14分21秒 | 芸術
「無言館」に行ってきました。

「無言館」 戦没画学生慰霊美術館
一度は行かなければならなかった。
館長 窪島誠一郎氏の詩が添えられている。




あなたを知らない

遠い見知らぬ異国で死んだ 画学生よ
私はあなたを知らない
知っているのはあなたが残したたった一枚の絵だ

貴方の絵は 朱い血の色に染まっているが
それは人の身体を流れる血ではなく
あなたが別れた祖国の あのふるさとの夕灼け色
なたを胸を染めているの 父や母の愛の色だ

どうか恨まないでほしい
どうか咽かないでほしい
愚かな私たちが あなたがあれほど私たちに告げたかった言葉に
今ようやく 五十年も立ってたどりついたことを

どうか許してほしい
五十年を生きた私たちのだれもが
これまで一度として
貴方の絵のせつない叫びに耳を傾けなかったことを

遠い見知らぬ異国で死んだ 画学生よ
私はあなたを知らない
知っているのは あなたが残したたった一枚の絵だ
その絵に刻まれた かけがえのないあなたの命の時間だけだ

                          窪島誠一郎 

ヘルマン・ヘッセの詩をもう一編

2006年09月02日 08時15分44秒 | 芸術
               「庭仕事の愉しみ」より
   晩夏

晩夏は一日また一日とあふれるばかりの
心地よい暖かさを贈ってくれる 散形花の上では
ひとつの蝶がここかしこものうげに羽ばたきながら
漂い 金ビーロドにきらめている
  
夕べと朝は うっすりとかかった霧に
しっとりと息づき その湿り気がまだ生暖かい
桑の木から 突然光を浴びて
黄色い大きな葉が一枚 おだやかな青空に舞い上がる。

蜥蜴はは日のあたった石の上に憩い
葡萄の房は葉陰に隠れている。
世界は魔法にかけられて眠りの中に夢の中に
とじこめられているようだ そして目ざますなと君に警告する。
  
そのように 永遠に凝固していた音楽が
ときおり何小節にもわたって揺れ動き
やがて目覚めて呪縛から身を解き放ち
生成への意欲へ 現実へと立ち帰ってくる。
  
私立ち老人は果樹垣に沿ってとり入れし
日に焼けた褐色の手をあたためる。
昼がまだ笑っている まだ終わりにはならない
今日とここがまだ私たちを引きとめ よろこばす

彼が住んだドイツ、ガイエンホーフェン、モンタンニョーラ村などでは彼のスローガン「自然が望むことを自分も望むという方法を選ぶことに、自分の少しばかりに意思を適用する」というこことでできるだけ自然に干渉せず、巧みに原形を残し自然と共存する環境をつくったようだある。季節感は晩夏とか秋といってもわれわれとはずいぶん違うように思われる。幸せな人であったようである。