教育改革とは何か 何のための 誰のための
戦後、「教育基本法」を制定、新しい教育制度を作り、戦前の「天皇陛下ばんざい」といって死ぬ皇民教育を二度と行わないと誓って出発した。
そも教育とは何か、を考える教育のスタートでもあった。その実践と理論は貴重な財産として残すべきものであった。それを彼ら自民党、あるいは自民党的政治はずたずたに破壊し、敝履の如く捨て去ろうとそしている。
教育を真に国民のものとして構築していく実践と理論はそれとの闘いそのものであった。
彼らが言う教育再生とは紛れもなく教育再破壊である。
以下は、『毎日新聞』経済欄コラム「経済観測」に書かれたものである。(7月5日付)私にとっては少し難解なところもある。しかし、「教育再生会議」なるものがおおかたの国民の理解を超えたところにあることは想像に難くない。
《 教育再生会議をフロントとして安倍晋三首相は教育改革に意識的に取り組んでいるが、産業界が望む資質と学校教育が重点をおいてきた目標とのギャップについてはまだ十分な詰めがなされていないように思われる。
経済のグローバル化による競争激化の中で、企業の社内教育にかけるコストや時間が少なくなり、基礎的な資質について一定の水準の充足が期待されるとともに、事業環境の激しい変化に対応できるような柔軟性や想像力、開拓力、親和力などの資質のはぐくみを求める声も急速に高まっている。
このような期待の拡大に対して、困難を増しつつある教育現場の実態との距離はむしろ開きつつある。
産業界や社会の要請が「知育」であることを前提にしてきた教育から脱皮するには、まず教育現場をあずかっている教師の人たちがその必然を理解し、主体的に取り組む意思が生まれる必要がある。
元々からそうした創造性や開拓力、親和力などを引き出すことは、教育を人生に仕事として選んだ人たちにとって、より本来の願いへの回帰になるとも考えられる。
しかし現実にそこにハードルがあるとすれば行政と教育現場の間に長年にわたってつくられた「依存させ、依存する」という風土ではないか。
こうした相互依は摩擦を減らすプラスはあるが、本心でかかわる意思を萎えさせるマイナスもある。同時に子どたちに本心でかかわり、本心を引き出すことはまさに教育に携わる人たちの本来の喜びであろう。
その願いがもっと引き出され、教える側にも主体的な想像力や知識欲が生まれ、結果として学力も上がることこそが望まれる。そのためには、教育行政の方から「依存」させる体質を転換することがまず大切な道順であるように思われる。(猷)》