三流読書人

毎日の新聞 書物 など主に活字メディアを読んだ感想意見など書いておきたい

ドングリ小屋住人 

不如帰・時鳥・ホトトギス

2007年10月28日 11時31分45秒 | Nature Photo


ユリ科の多年草。山地に自生する高さ70~80センチ、葉は長楕円形で互生して茎を抱く。仲秋、白色で紫斑のある花、百合に似た漏斗状で、丁度時鳥の胸毛の斑に似ている。
と、『新撰俳句歳時記』(明治書院)にある。
 ホトトギスという鳥、鳴き声は春から初夏にかけてうるさいほど聞くが姿は見たことがない。
 地味な色合いの花である。



妊婦受け入れお断り

2007年10月27日 20時19分33秒 | 堪忍袋
 「妊婦搬送調査」というものを消防庁と厚労省がまとめた。
 これにより日本の産科救急の現場の実態がきわめて危機的な状況にあることがわかった。
 救急車などが妊婦を搬送中、医療機関に一回以上受け入れを拒否された件数が、二〇〇四年から二〇〇六年までの三年間で5千八百四十九件あったそうである。
 産婦人科医は年々減少し、2004年には1万5百九十四人で、十年前より八百人近く減っている。
 産婦人科のある病院は1996年から2005年の間に28.7%減った。
 そのため残った産科に患者が集中、医師は激務のため産科をやめ、また産科を閉じる病院が続出するという悪循環が続く。
 また産科は、母体を守ることと新生児が無事であることという二重の責任を負う。医師の負担は重い。

 その背景は、社会保障切り捨て、医療費抑制のため大学医学部定員を減らし、医師養成を抑制したこと、などがある。
 今日の政府・与党の姿勢がもたらしたものだ。
 少子化対策などといい担当の大臣までつくりながら、安心して子どもを産める体制が整わないばかりか、悪化させてきた。
 何のために税金を払ってきたのか。
 
 緊急にしなければならないこと。
 ◇公的病院の産科切り捨てをやめ、なくした病院はすぐ復活すること
 ◇民間病院の産科休廃止をやめるため診療報酬を見直すこと
 ◇周産期医療の拠点作りをくにの負担と責任で早期にすいしんすること
 ◇産科の医師の養成のために医学部定員の見直しをすること

 一刻の猶予も許されない。








 
 

大根

2007年10月25日 21時34分43秒 | くらし
 薄目の出し汁を、たっぷりと張った鉄鍋の中へ、太兵衛が持ってきた大根を切り入れ、これがふつふつと煮えたぎっていた。
 「さ、おあがんなさい」
 「これは、これは……」
 「その小皿にとって、この粉山椒をふったがよい」
 「こうしたらよいので?」
 「さよう。さ、おあがり」
 ふうふういいながら、大根をほおばった太兵衛が、
 「こりゃあ、うまい」
 嘆声を発したのへ、小兵衛が、
 「そりゃあ平内さん、大根がよいのだ。だから、そのまま、こうして食べるのが、いちばん、うまいのじゃ」

 これで酒。
 出し汁、大根、粉山椒だけである。
 こういうふうに書かれるとのどがなる。という年になったか。

 池波正太郎『剣客商売』「天魔」の中、「約束金二十両」にでてくる。
 大根がうまい季節となった。
 昔の大根がよかったなどと言うのはやめよう。





胡桃 実る

2007年10月23日 20時11分49秒 | Photo
胡桃の実です



胡桃が実っています。
面白い花が咲くので植えました。
知り合いの陶芸家の山に自生していたものです。
あっという間に大木になりました。
毎年実をつけます。
落ちた実をしばらくおいとくと皮がとれて堅い実が出てきます。
大変堅くて割るのに苦労します。
輸入のものより美味しいと思うのですが。


ポプラ 紅葉

2007年10月22日 14時30分13秒 | Nature Photo


ポプラが紅葉しはじめました。
北大の構内のポプラがよく知られていますが、
大変な大木です。
数年前の台風で被害があったようですが、成長の早い木のようですから、回復するでしょう。

これは近所の土地にあります。若木です。
近畿でも、ポプラに限らず今年は紅葉が早くてきれいなような気がするのですがどうでしょうか。
やはり青空のもとでなければ。


歴史 心に刻みつづけること

2007年10月21日 20時34分12秒 | 平和


 昨夜、NHK衛星第2放送で映画「ヒトラー最後の12日間~」が放映された。以前から話題になっていたようだが、映画を見なくなって久しいので初めて見た。すごい映画だと思った。 是非、再放送されればよいがと思う。 この映画は、ユンゲ・トラウデルという女性が書いた記録『私はヒトラーの秘書だった』という書物の映画化である。 検索してみると(まえがき・楽天ブックスの紹介など)

 《 ユンゲ,トラウデル(Junge,Traudl) 1920年、ミュンヘン生まれ。1942年末から45年までアドルフ・ヒトラーの秘書を務める。戦後、一時ソ連の収容所に送られたのちは、『クイック』誌の編集長付秘書などの仕事を経てフリー・ジャーナリストとなる。2002年2月11日、ガンのため死去。
  ヒトラーが自殺するまでの二年半のあいだ、独裁者のお気に入り秘書として働いていた女性が、ヒトラーの素顔や側近たちとの交流、そして独裁者が愛した平凡な日常をありのままに書き記した貴重な記録! 》
だそうである。
 映画の最後でユンゲ氏自身がインタビュウで言っている。 『あの当時私は若かったから、よくわからなかったという言い訳をすることはできません。よく目を開いて見ておかなければならなかった。後であのようなことがおこっていたということを知った』というような意味のことを話していた。  このシーンを見ていてすぐに思い出したのは元西ドイツ大統領ヴァイツデッカーの1985年5月8日の演説(『荒れ野の40年』岩波ブックレット)である。その一節、
 《 人間の罪には、露見したものもあれば、隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きて来た方がた、その人たちは今日、一人びとりが自分がどう関わり合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。
 今日の人口の大部分はあの当時子供だったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない犯罪に対して自らの罪を告白することはできません。 ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る質素な荒布の服を身にまとうのを期待することは、感情を持った人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。 
 罪の有無、老幼いずれを問わず、我々全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。 
 心に刻み続けることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのです。     問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり,起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。 》  

 
 過去を心に刻み続けること。このことである。 日本には今、「後になって過去を変えたり」「起こらなかったこと」にしたい人たちがいる。政治家や教育行政に携わる政府高官は何を意図しているのか。 
 かつて第1次世界大戦に敗れたドイツがその歴史に学ぼうとせず、誤った歴史を若者に教え、それがひいてはヒトラーの台頭をゆるしたという二重の過ち。 
 映画の中で、ドイツ軍の将軍たちが国民の悲惨な状況について語る時「自業自得だ。彼らが選んだのだ」という場面が二度ほどある。 
 我々もまた、正しい歴史を学び、それを心に刻もうとしなければ再び悲惨な状況が待っているのではないか。 沖縄の、南京の、従軍慰安婦その他の、歴史を歪めてはならない。
  「自業自得だ。彼らが選んだのだ」と後世の者に言われぬために。 
 高校日本史教科書からの、「沖縄『集団自決』日本軍強制の削除」は、許すことのできない大きな問題である。

 


からすうり

2007年10月17日 08時51分38秒 | Nature Photo

    
    からすうり手にさげ風の行くほうへ    きくちつねこ
   
    蔓引けば青きが出でぬ烏瓜        石井露月
                       (明治書院新撰俳句歳時記)

 花もきれいです。糸状にさけた細い花弁が真っ白で、夕方に咲きます。
 実は鳥たちが好んで食べるのだそうです。そしてこ名。
 かつては、黄色い花の咲く種類は天瓜といって根を天瓜粉(てんかふん)として利用したとあります。

喰うこと

2007年10月16日 10時03分26秒 | くらし
食べることについて昨日の続き
近ごろテレビの番組では食べ物のことや料理の番組がやたらに多いと思いませんか。
どのチャンネルを見ても食い物の話ばかり。これだけ刺激されれば国民総メタボリックシンドロームも当たり前。
一方世界中では飢えている人もたくさんいるのにね。
大食いを売り物にした若い女のタレントなんてのもいる。喰うことだけが芸というタレント、ばかばかしい限りです。 
これらを芸人、タレントといっていいのでしょうか。
食べタレは馬鹿タレと東海林さだおが何処かで書いていましたが、じつは食べタレ、馬鹿タレは・・・タレでもあった。
彼ら彼女らは大量に食べて大量に排泄する。ビートたけしにいわせると食べる姿を見せるんだったうんこする姿も見せろという。
全くだ。
かつてのアメリカの車みたいに大量にガソリンを食って空気を汚す。環境汚染の元凶だったわけだけど、人間も同じで環境汚染の元だから、少なく食べて少なく排出するということを考えないとね。
地球に優しいくらしなどということをいうけど、人間なんて存在自体が環境を汚染するんだから、人類が消滅することこそ、もっとも良い環境対策ということになる。だからもっと遠慮して地球に住まわせてもらわないとね。

と、糖尿病対策で食事のことばかりが気にかかるおじさんは思っているのです。


ビートたけしの食うことについて

2007年10月15日 16時52分03秒 | くらし
 「おいしいおはなし」(光文社刊)という本がある。文庫本、高峰秀子編、495円+税。
 高峰秀子とは女優の高峰秀子である。
 『おいしいおはなし』は、各界の著名人が、料理や食べ物のことについて気楽にあるいは気取って書いている。
 この中で北野武氏(ビートたけし)が「食べることは排泄と同じ」と題して書いている。一部紹介したい。
 
         ◇          ◇ 
  
 「… ロケの間は食べない時が多かった。一日一食とか。仕出し屋さんが来たり、お弁当を買ってきてくれたりするんだけれど、どうももたれそうでね。
 映画での食事のシーンというのも、おれは好きじゃなくてね。何年か前の『汚れた英雄』という日本映画で、草刈正雄が外人のモデルみたいな女に花をいっぱい贈って食事をする場面があるんだけど、こういうのを貧乏くさいというんだろうなと思った。そういう行為がすばらしいことだとおもっている、その貧相さがたまんないんだよね。
 おれ、排泄行為と、そのもとになる食べ物を口に入れる行為は、ほとんど同じだと思ってるんですよ。なんか下司(げす)なような気がしてね。…
中略…。 
 食べることもそうだけど、人間が生きなきゃいけないためにする行為というのが、どうも好きじゃないんですよ。せめてそうした部分だけでも、人間はほかの動物とは違うんだというところがないとね。食べたいものを食べないとか。セックスしたくてもしないとか、眠りたいのに眠らないとか、そういうふうに自分に課すことで、人間も動物的なところから少しは解放されるんじゃないかな。いろんな宗教に断食があるのも、要するに動物と同じにならないために、食事をやめるということなんだなと思うんですけどね。… 以下略 」

         ◇          ◇

 やはり並みの男ではないですね。
          

内藤選手よおめでとう!

2007年10月11日 21時20分08秒 | スポーツ
 WBC世界フライ級タイトルマッチ12回戦」(11日・有明コロシアム)、王者・内藤大助(33)対挑戦者・亀田大毅(18)は内藤の大差の判定勝ちで終わった。
 亀田兄弟が出てたとき、面白いなと思っていたけれど、次第に嫌になってきていた。ほとんど生理的な嫌悪感とでもいうか。
 やはり命がけで闘う格闘技である以上、スポーツであるというなら、もう少し人間的にまともな神経の持ち主であってほしい。
 親も親であるが。
 リングの外ではあれほど饒舌であっても本来のボクシングはどうなってるのか。
 ついでにいえば、関西弁をこれほど汚く使う人間も珍しいのではないか。
 関西語圏に生まれたことが恥ずかしくなってくる。特異な症例だということを全国の人には知ってもらいたい。
 
 内藤選手よおめでとう!


「力の限りか」

2007年10月10日 10時28分07秒 | 教育 
 10月10日の『毎日新聞』のコラム「発信箱」。
 全く同感なのです。 日本人が変わりつつあるのではないか。これは一体何だろう。と思っていた。

          ◇  

 「発信箱」論説室 玉木研二氏「力の限りか」
 落ちている子ども体力・運動能力。だが調査で皆力を出し切っているのか。私はかすかな疑問を感じてぢる。 
 がむしゃらに走り、力の限り投げる。 それを男恥ずかしがり、また人が頑張るのを笑う…。
 そんな情景を運動会などで見ると、調査にもつい疑問がわくのだ。
 それは昨今の大人社会を映す鏡かも知れない。公的調査にまともに答えない、真面目に応じない風潮が生じたのはいつからか。例えば、国勢調査は拒否や無回答が近年目立つようになった。
 1920年の第1回国勢調査は28万人の調査員を動員、「10月1日午前10時の実態」を記録すべく、夜中に懸命に駆け回った。永井荷風は「国勢調査と号して深更猥に人家の戸を敲き、人員を調査せしといふ」と「断腸亭日乗」に書き残している。
 当時、政府は国民の実態を初めて精密に調べ出すことで「文明国に仲間入り」とうたい、人々も進んで協力したという。
 匿名社会化の今、調査に積極的に協力することなど「信じられない」話かもしれない。しかし、さまざまな国民統計が次第にあやふやになり用をなさなくなる社会、それでいいのか。
 九州山地の小学校の分校で放課後、先生が翌日の50メートル走のコースを引いていた。校庭が狭く対角線だが、」それでもはみ出し校舎の間がゴールになる。先の壁にマット。子どもたちは懸命に走るから、それが必要なのだ。
 20年以上も前のことだ。クマよけの鈴を鳴らし登下校していたあの子らを、走れせてやれていたら、今そう思い返す。  

       ◇

 一斉の体力・運動能力テストには一定の批判があり、問題点が多くあることも事実であるが、一生懸命さを嘲笑するという今日の風潮は、それでいいのかと思う。