去年今年貫く棒の如きもの 高浜虚子
一本のレールの上や去年今年 大森扶起子
針に糸通してゐるや去年今年 細見綾子
めでたさもちう位なりおらが春 一茶
這へ笑へ二つになるぞ今朝からは 一茶
生くることやうやく楽し老いの春 富安風生
などと脳天気なものであります。
えらい俳人の句を借りたりして。
2008年もよろしく。
「世の中はまともになりつつあるか」
『毎日新聞』新聞のコラム「発信箱」で中村記者はいう。「世の中はまともになりつつあるとは考えられないだろうか」。最後に引用しているヘレンケラーの言葉「悲観主義者が、星々の神秘を探求したり未知の土地に航海したり、人の魂にふれる新しい扉を開いたことはこれまで一度もない」。 しばらくはこの言葉をかみしめてみよう。
毎日新聞 2007年12月28日
コラム『発信箱』 「嘆いても始まらない」 中村秀明(経済部)
「ひどい世の中になった」「日本人は壊れてしまった」。暗い顔をして、そう語る人が増えた。
確かに今年、倫理観と責任感が抜け落ちたような事件がいくつか起きた。しかし、その出発点の多くは過去にある。「昔は良かった」と言いたがる人が口にする、その昔に。赤福の偽装は30年前からで、栗本鉄工所は40年も高速道路の型枠の強度を偽ってきた。前防衛事務次官と業者の癒着も、薬害C型肝炎問題にフタをしてきたのも、今に始まったわけではない。
倫理観や責任感の欠如に気づかず、問題にしてこなかった昔と、それが厳しく問われ、次々に表面化する今。どちらがひどいのだろう。浄化作用がそれなりに働き、世の中はまともになりつつあるとは考えられないだろうか。
今年生まれた赤ん坊をはじめ、次の世代に思いをはせてみよう。「ひどい世の中になった」という嘆きは彼らの心にどう響くのか。「金はなかったが、心は豊かだった」と昔を懐かしむ風潮に何を思うだろう。「誰のせい」と言いたくなるのではないか。
実際、世の中はそれほどひどくはないし、日本人は壊れてもいない。問題はあるが、解決できないわけではない。「喪失」「崩壊」と嘆く人は、その気をなくし、未来への責任感がうせた言い訳をしているだけかもしれない。
来年はヘレン・ケラーが亡くなって40年になる。
彼女は、こんな言葉を残した。
「悲観主義者が、星々の神秘を探求したり未知の土地に航海したり、人の魂にふれる新しい扉を開いたことはこれまで一度もない」
(経済部)
戦争を美化したい人たちがいる 沖縄戦「集団自決」教科書検定問題
アジア太平洋戦争末期、沖縄戦での「集団自決」をめぐり、文部科学省が高校用教科書の検定で「軍の強制」という 記述を削除させた問題で、同省は二十六日、検定意見の撤回は行わず、「自決せざるを得ない状況においこまれた」 とは書いても「強制」という記述は認めないとする検定結果を発表した。
九月末の県民大会には十一万人を超す人々が集まり、党派を超えて運動を展開してきた。
中でも高校生が「私たちがおばあやおじいに聞いてきたことがウソだったというのか」と訴え、この検定が若者の 心に大きな傷跡を残したことにあらためて怒りを感じたものである。
強制と次第に追い込まれていったということでは大きく違う。軍は「死ね」と言って青酸カリを渡し、手榴弾を渡 した。「死を強制した」のである。このことを次代に伝えなくて真実の歴史を教えたことになるのか。 どうしても「軍はそんなに悪いことをしたわけではない」と言いたい人たちがいる。「南京虐殺」「従軍慰安婦」 などの問題を否定したい人たちとも重なる。
侵略戦争を美化する「新しい歴史教科書つくる会」(会長、藤岡信勝氏)というのがある。このメンバーが200 5年頃から沖縄戦について「軍の強制」を削除する運動を開始する。
政府、文部科学省は教科用図書検定調査審議会が「専門的・学術的観点」で調査・審議して「軍の強制」を削除し たものだと主張してきた。「検定意見」の原案は「調査意見書」というもので文部科学省の役人が作る。初等中等教 育局長らが決済し、審議会では意見も出ないまま検定意見となる。そして、日本史担当の教科調査官、審議会委員の 中には「新しい歴史教科書つくる会」の中心メンバーやその門下生が多数いる。 検定意見は侵略戦争を美化する勢力が、沖縄戦研究の到達点に反して、持ち込んできた政治介入だったことが明白 になったということである。
日本史教科書執筆者の一人石山久男氏は語る。
今回の訂正申請承認は、検定意見を撤回せず、その枠の中で「軍の強制」をあいまいにした記述しか認めないとい うものです。しかも文科省は、実際には教科書調査官と出版社との密室でのやりとりの中で、訂正申請した既述を書 き直させているのです。
審議会の日本史小委員会が出した報告は検定意見を出した理由として「隊長の命令の存在が明らかでない」という 説が出ている、だから「だから軍の命令が有無が明かでないという見解が定着しつつあると判断された」と述べてい ます。隊長命令の有無と軍の命令・強制の有無とはまったく別の問題で、この説明には飛躍があります。にもかかわ らず、その検定意見を前提として訂正申請を再修正させています。
部分的には実態を詳しく既述したり、沖縄の県民大会についての注記を認めるなど、この間の運動と世論を反映した 面もあります。しかし、「軍の強制」をはっきり書いてほしいという沖縄県民の願いや研究者の意見にはまったくこ たえておらず、執筆者としても納得がいきません。
問題の根本には日本軍の犯罪行為を隠し、軍と国家に協力する国民を育てようという右翼、「靖国」派の政治的な 圧力があります。 引き続き、検定意見撤回の世論を広げることが必要です。同時に、既述の回復のために訂正申請を毎年やるなど粘 り強い取り組みもしていきたいと思います。
今回不十分ながら審議の経過が公表されました。これを機会に審議会を公開させ、密室検定を改めるなど、制度の 改善を要求していくことも重要です。
ほっとけない。ことは次世代の日本人の意識や人格の形成にかかわるのである。
日頃は経済欄などはあまり読まない。がこの小さなコラムだけは読む。株式市場などもあまり興味がない(ではすまされないんだけど)。おすすめコラムだと思う。時にはへんなのもある。
12月18日付『毎日新聞』
「誰かが眠っている」
八百屋の店頭で「産地直送」の札をみると、何となく心引かれる。当節あまりに商品が成型されている。昔の曲がったキュウリ、日なたくさいトマトの味を回想したりする。 それよりも「もし直送ならマージンの分だけ安いのかもしれない」と考える。朝市で皆が興奮気味に購買欲をそそられるのはそのためだろう。ただし商品をコンビニ、スーパーの物と比べるとそんなに安くはない。交通費を引くとトントンというところか。 パーキンソンの「脱税の法則」と同じではあるまいか。つまり、脱税に要する費用は脱税額と等しくなるというあの皮肉な法則だ。中間業者のマージンはなくなったが、その分は農家の手取りが増えているし、問屋が負っていた情報、リスクはどうなったのかわからない。ソンナニイイモノデハナイという教訓。 防衛省の兵器購入商社の介在を排除すべしという意見があった。メーカーから直接買えばいいじゃないか。産地直送である。 正論である。国民の税金で買い物をするのだから1円でも節約してもらいたい。ただし兵器のこととなると「安いけれど働かない」では元も子もない。 その商社不要論の大勢を孤軍奮闘(と言うね)ひっくり返した守屋武昌前次官、どんなレトリックを使ったか知らないが、事件が起こってみると、ああそうだったのかと納得がゆく。 資本主義・市場主義の時代、「商社不要論」は通るまい。だが山田洋行だけがクロなのか。大手商社は全くクリーンハンドなのか。悪いやつほどよく眠るという。(三連星)
『毎日新聞』のコラム「発信箱」。このコラムが好きです。毎日読みます。『毎日新聞』の第一線の記者、編集者などが書いているようです。
昨日(2007年12月14日)の「発信箱」です。
「機械の至らなさ」中村秀明(経済部)
JRのある駅。つえをついたおばあさんを伴った女性が駅員に尋ねた。「あそこは怖くて行けない。遠回りでいい、他の道はありませんか」
あそことは「動く歩道」。歩いている速さからの加速と、再び歩き出す速さへの減速を、自分の足腰でコントロールしなければならない。つえ頼みの老人には無理だ。誰かが体を支えても、こけそうで足が踏み出せない。約100メートルの通路は動く歩道だけ。遠回りは、階段も多く10分以上余計にかかるが……。
高齢者や弱者にも配慮した便利で快適な設備のはずが、危険や不安の種として自由な通行を妨げる。機械には、どこか人の心理や行動となじまないものがある。
「夢の技術」のロボットにも、そんな面がないか。
トヨタやホンダの研究に水を差す気はないが、「お茶くみの連係作業ができた」が大きな進歩とは。技術開発が進み、人に近づいたと言われれば言われるほど、むしろ「ロボットの至らなさ」と、「人の能力の高さ、柔軟さ」を痛感してしまう。介護や接客での実用化も近いと意気込まれても、正直言えば、ロボットのお世話になるのは危なっかしくて遠慮したい。
さて、窮状を理解した駅員は、備え付けの車いすに乗せ、動く歩道を押してホームへ案内した。そして目的地の駅。動く歩道はないけど、こっちは階段が多い。
「よいしょ」とつえをつき、歩き始めたおばあさん。ふと前を見やると、車いすを用意した男女の駅員2人の笑顔があった。「連絡を受けてお待ちしていました」。人の力はすごいなあ、と思った。
所詮機械である。あんまり頼りすぎないことだ。
窮状を理解した駅員、車いすを用意した男女の駅員2人の笑顔、これが人の住む世の中の最も大事な不可欠の要素だろう。
しかし、パソコンも器械なんだよな、こんなものにどっぷり浸かってしまっている自分の生活を思いつつ。