小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

パリ・オペラ座バレエ団『マノン』(2/17夜公演)

2024-02-18 11:25:14 | バレエ
来日中のパリ・オペラ座バレエ団の『マノン』の2/17ソワレを鑑賞。マクミラン振付の『マノン』はパトリック・デュポン監督時代にオペラ座で初めて上演され、その公演にはマクミランも招聘されたが、振付家の死の二年前(1990年)のことだった。2022年には『マイヤーリング』もオペラ座のレパートリーになっており、オペラ座でのマクミラン再評価が高まっていると感じた。

幕が開くと、マノンの兄のレスコーがスポットライトを浴びて、いわくありげな表情でこちらを見つめている。最初に観客の目に入るのはマノンでもデ・グリューでもなくレスコーである。この人物の邪悪さと軽率さが物語のさまざまな悲劇を生むのだが、舞台を行き交う娼婦や物乞い、好色な金持ちたちも潜在的な不運を加速させる。ニコラス・ジョージアディスの装置は奥に幾重もの闇を感じさせる重層的な作りで、衣装は全員を見るのが大変なほど豪華で華麗。着飾った女性たちのドレスは18世紀後半の最も華やかなスタイルで、照明が当たっていないダンサーも見事な衣裳をまとっていた。娼婦たちにも階級があり、貧しい娼婦はそれに似合った格好をして快活に踊る。男たちもさまざまで、怪しい紳士、物乞い、スリ、ネズミ捕りが往来する。
その中で、一人だけ純粋で高貴な人間としてたたずんでいるのがデ・グリューで、えも言われぬ上品な姿勢で本を読んでいるエトワールのユーゴ・マルシャンが、「掃き溜めの鶴」ならぬ白鳥に見えた。主役のマノンは今やベテランの域に達したドロテ・ジルベール。可愛い脇役の小娘を演じていた頃から彼女が大好きだったが、16歳のマノン役も登場のシーンは初々しい。デ・グリューとマノンの視線はなかなか合わない。群衆の中で二人がお互いを意識するまで、マクミランはじりじりと観客をじらす。

プッチーニのオペラ『マノン・レスコー』なら、有名な「見たこともない美女」が流れてくるところだが、バレエ版ではマスネの曲が使われ、それもマスネのオペラ『マノン』ではなく、「あまり知られていないマスネの曲」で構成されている。物語はプッチーニ・オペラが参照されているが(ニコラス・ジョージアディスの提案だった)、著作権が切れていなかったのでプッチーニは使えない。クランコが『オネーギン』でチャイコフスキー・オペラを使いたいのに使えなかった苦労を、マクミランも経験したのだ。しかし、マスネの小曲群はバレエで素晴らしい効果を発揮し、特にハープ二台をピットに入れたこの公演でのオーケストラは素晴らしかった。東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団を指揮したピエール・デュムソーは天才的で、すべて暗譜で振っていたという。

ドロテ・ジルベールのマノンとユーゴ・マルシャンのデ・グリューは究極のカップルで、過去のガラ公演で『寝室のパ・ド・ドゥ』を観たときも感動したが、全幕で観るとハイライトのときよりも淡々としている。演技が大げさではなく、もっとハイセンスで秘めたものを感じさせるのだ。マノンに愛を告白する長いデ・グリューの最初のソロは、ダンサーにとって大変緊張するシーンだと思う。クラシック・バレエの技術の正確さが厳密に認められ、男性ダンサーに視線が一気に集中して、他に気を散らしてくれるものがない。ユーゴの白鳥のような優雅さと美しさに目を奪われた。自由で躍動的で、何物にもとらわれない。今活躍している男性ダンサーの中で一番美しいのではないかとさえ思った。

ドロテは踊りに潔さがあり、マノンのような若い役が似合うのも、彼女の中にやんちゃな少年性があるからだろう。一方ユーゴには、恥じらう乙女のような可憐さがある。と言っても本人には何のことか分からないだろうが、客席からステージを見ていると、物理的世界とは違うもうひとつの次元が見えてくることがある。マクミランはそこにこだわった。マノンとデ・グリューの引き合う心には神秘的な魔法が働いている。『寝室のパ・ド・ドゥ』はやはり名場面で、殊更大きな喝采が湧き起こった。

マノンが簡単に心変わりし、厚化粧の老ムッシューに身を売る場面も自然だった。ドロテは『オネーギン』のタチヤーナを演じたときも独特の解釈だったが、マノンもユニークで、自分自身は過剰な心理表現をせず、妹を売ろうとする兄の邪悪さや、毛皮や宝石の輝かしさにものを言わせる。マノンは社会的な犠牲者であり、「空っぽ」であればそれで完璧なのだ。ほとんど表情を変えずに、デ・グリューとの愛を放棄する成り行きは見事で、兄レスコーと老ムッシューと三人で踊るパ・ド・トロワは、マクミランのグロテスクな一面が溢れ出していた。

『マノン』のバレエの根底に流れているのは、ジョージアディスの美術に表れているような「貧困」であり、大多数の人間たちが抱いている貧困(やがて死に行きつく)への恐れである。マクミラン自身が、貧しい階層の出目であり、その上酷い舞台恐怖症だった。マノンは生存するために愛を捨て、その時代の大多数の人々が選ぶように金を選ぶ。そこに「仕方ない」という力学が働き、逃げたマノンを追いかけようとするデ・グリューの首根っこをつかまえたレスコーは、一幕の最後に「金がすべてだって、わかんないのか!」と純情な友人を恐喝する。
2幕の高級娼家でのシーンで、マノンが大勢の男性たちと戯れるようにアクロバティックな動きを見せる件は圧巻である。マノンは男たちの欲望に突き動かされ、欲望は金で満たそうとし、若くて美しい女は自分に無際限な富が流れ込んでくることがギャンブルのように愉快なのだ。少年が残酷な遊びに耽るように、マノンは玩具になった自分を楽しむ。

この高級娼家での乱痴気騒ぎ(?)はことのほか長く感じられた。マノンを目で追い、接近を試みようとするデ・グリューに完全に感情移入してしまったからだ。心で通じ合ったはずのマノンが「私はあなたが見えないのです」「私もここにいません」という態度で、男たちと悪ふざけをしている。自分自身が透明人間になってしまったかのようで、ちょっかいを出してくる娼婦たちもそのうち諦めて、側を離れていく。同じ空間にいながら、違う意識を生きていると相手はこちらを「見えていません」と言う。生きた心地がしないデ・グリューからずっと目が離せなかった。

高級娼婦たちを演じたオペラ座の女性ダンサーと、マダム役のアデライド・ブコーが艶やか。一人「ズボン役」の女性ダンサーがいたが、男装の娼婦という設定らしい。愛を思い出したマノンはデ・グリューの下宿に戻るが、束の間の逢瀬のあと、乱入してくる近衛兵たちと、老ムッシューに銃殺されるレスコーの描写が恐ろしかった。オペラではレスコーのこの場面はなかったように記憶している。

3幕は約25分と短いが、ここにマクミランのすべてが集約されている。生前は毀誉褒貶が激しかったマクミランだが、こういう世界を描いてしまったら、建前主義の良識派は当然激昂しただろう。マノンとデ・グリューの流刑地となったニューオーリンズで、娼婦たち(?)は髪を短く刈られ、僻地勤務の看守は好き放題な暴力を働く。ざんぎり頭の女たちの顔を一人一人確かめて、遊び相手を選ぶ兵士たちの様子は、毎回胸をかき乱される。昨今のデリカシーでは難しいのではないか、と思っていたマノンへの暴力シーンも、これを抜いたらマクミランではない、と言わんばかりにしっかりと演じられていた。
最下層の存在となり、文字通り男の玩具となったマノンが「モノ」のように看守と踊る振付は「これがバレエだなんて」と思うほど特異で、ここまで人間を深堀りしてしまったマクミランは、自分の才能で自分の首を絞めていた。極北の芸術家であり、異能の人であった、と再認識した。
奇異な植物(スパニッシュ・モスと呼ぶらしい)が縄のようにぶら下がるラスト近くでは、これまでの登場人物が幻影のように現れる。マクミランはバレエで、オペラを超えようとしていたのか。これほどの場面は、どんなオペラにもなかなか巻き起こらない。沼地のパ・ド・ドゥはリフトも高く、ダンサーの危険度も最高潮に達するが、オペラ座のペアは最後までパーフェクトで、ピットの音楽も神懸かり的に高まった。マクミランのミューズの一人であったアレッサンドラ・フェリが一度引退を決めたとき(2007年)フェアウェル公演のラストでこの沼地のパ・ド・ドゥを踊ったのを思い出した。ざんぎりヘアで紙吹雪を浴びる姿が再び脳裏に蘇った。

今回の来日公演はジョゼ・マルティネスの監督のもとで行われた「新体制」の公演だったが、ダンサーのキャスティングは適格で、前半の『白鳥の湖』では確実に何かが新しくなっているのだろうと思わせた(こちらの公演は観ていないが新鮮な人選)。前回のパリオペ来日公演はコロナ禍の規制と規制の間を縫って奇蹟的に実現したものだったが、オペラ座はつねに奇蹟を見せてくれる。ドロテとユーゴの黄金コンビの頂点をこの作品で観られた観客は、後々「奇蹟だった」と思い返すことになるかも知れない。






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