新国立劇場で上演中の『エウゲニ・オネーギン』の初日を鑑賞。最近の新国の客層は若い女性や学生のカップルが多く、この日もいつものオペラファンとは違う雰囲気の人々で客席が埋まっていた。ドミトリー・べルトマンの演出はコロナ前の2019年が初演だから、5年ぶりの再演となり、時の経つ速さに驚く。明快な演出で、つねに舞台の中央に設置される円柱風(実際は円柱ではない)の4本(三幕では8本)の柱が印象的。冒頭の女性たちの重唱は、田舎の安穏とした暮らしが、もはや倦怠を超えて憂鬱の域に達していることを、ノスタルジックな旋律で表していく。タチヤーナをロシアのベテランソプラノ、エカテリーナ・シウリーナが演じ、妹オリガを同じくロシア出身のアンナ・ゴリャチョーワが演じ、姉妹の母ラーリナを郷家暁子さん、乳母のフィリッピエヴナを橋爪ゆかさんが演じた。
まだかなり若く見える指揮者、ヴァレンティン・ウリューピンが東響から神妙で重層的なサウンドを引き出していて、チャイコフスキーの書く旋律はなぜここまで憂いに満ちて美しいのか感傷に浸った。機微を感じさせる合奏で、デリケートな色彩感があり、確かにロシアの情景が見えてくるようだった。
オネーギンは長身でハンサムなバリトン、ユーリ・ユルチュクが登場の場面から素敵で、この役に理想的な雰囲気をまとっていた。厭世的でプライドが高くすべてに退屈している若者で、タチヤーナとはお互いに似たもの同士の気配を感じる。タチヤーナはすぐにふられてしまうのだが、出会いの場面では相思相愛に見えるし、オネーギンも積極的にタチヤーナと二人の時間を作ろうとする。これではタチヤーナも「脈アリ」と思っても仕方がない。
新国初登場のゲスト歌手たちは粒ぞろいで、レンスキー役のテノール、ヴィクトル・アンティペンコが存在感のある美声で聴衆をあっと言わせた。フランスオペラの重い役…ウェルテルやファウストやホフマンを歌っても素晴らしいはず。オリガ役はこの演出では衣装とヘアメイクが気の毒(!)だが、アンナ・ゴリャチョーワが深いメゾの声で(思いのほか深い声質)姉との性格の違いを表現した。
タチヤーナがオネーギンに手紙を書く場面は、心臓が破けそうだった。何度見ても崩れ落ちそうになるシーンで、原作では恋文というより「同志宣言」のような勇ましい内容だったと思うが、オペラでは恋する女性の告白そのもので、初恋でありながら、同時に性的にも激しい衝動が生まれていることを吐露している。精神的な愛が官能的な愛に直結していることを、内気な文学少女のタチヤーナはオネーギンとの出会いで一気に理解してしまう。
オネーギンの理路整然とした拒絶は残酷で、ユルチュクはこの場面が一番魅力的だった。
チャイコフスキーのオペラは見事に鏡像的で、3幕でオネーギンの手紙を破棄する人妻タチヤーナもそうだが、その間にレンスキーの死があり、そこが折り目になって最初と最後が鏡合わせになる。オネーギンとの決闘で儚く散るレンスキーは、タチヤーナの身代わりであるように思えて仕方なかった。同じ挑発と裏切りに対して、女は泣くだけだが男は殺し合いを申し出る。死を意識したレンスキーの絶唱は真のハイライトで、テノールのアンティペンコが魂を尽くした熱唱を聴かせた。
オネーギンの話は有閑階級の戯言、という解釈もある。プーシキンの原作は読みづらく、いつも途中で挫折するが、確かに差し迫った貧困や戦争といったものからは隔絶された上流社会のあれこれが描かれている。
タチヤーナの傷つきやすさに、年をとってますます同情する自分が可笑しかった。断崖絶壁に立たされて、「この想いは妄想だろうか、現実となるだろうか」と祈る。生と死の境目を彷徨って書いた手紙を馬鹿にされ、玉突き事故のように事態は極端に悪い方へ転がっていく。
思うのは、タチヤーナの恋はただの恋ではなく、生まれて初めて出会った分身への愛であり、生きていることの証を相手から得たいという渇望だったということで、甚だこの世的ではない。オネーギンとタチヤーナは磁石のマイナス同士で、似すぎているのだ。
三幕で少ししか歌わないグレーミン公爵は「歌い得」としか言いようがないいい役で、バスのアレクサンドル・ツィムバリュクがロシアの地熱を思わせる低音で若妻タチヤーナへの愛を歌って大喝采を得た。
今更なぜオネーギンが人妻になったタチヤーナを追いかけるのか、特に女性はこの心理を由々しく不可解に思うことが多い。他人のものになって悔しいから。過ぎ去った青春の象徴だから。クランコ振付のバレエ『オネーギン』を見たときも、毎回色々なことを考える。
チャイコフスキーは男の心も女の心も持っていたと思うが、オネーギンの男の心がここで露になる。「同じ女が見違える姿になった」ことが、性的な好奇心を刺激したのだ。タチヤーナの拒絶の理由についても、いくつもの解釈がある。オネーギンの残酷さ、移り気に対する報復である以上に、この一連の出来事の中に一人の人間の死があったことが重要だと思った。
レンスキーの愚直さはタチヤーナの愚直さであり、レンスキーはタチヤーナの身代わりとなって死んだ。
それでもラストシーンで心が裂けそうになるのは、この男女の愛が同類の魂との因縁で、タイミングの悪さによって成就せず、何かが来世に持ち越されているからだ。
タチヤーナ役のシウリーナの声はどこまでも透明で純粋で、声楽的に体裁をまうまく保とうなんてしなくても、ドラマに身を委ねれば素晴らしい歌になることを証明していた。道化的なトリケを歌った升島唯博さんは美声で演技も素晴らしく、本来ヒロイン役が似合う郷家暁子さんは若い男に目がない母親役をコミカルに演じ、橋爪ゆかさんも老け役のフィリッピエヴナを温かく演じた。稽古場はどのような雰囲気だったのだろう。この難しい時代に、ロシア出身の歌手(シウリーナ、アンティペンコ、ゴリャチョーワ)とウクライナ出身の歌手(ユルチュク、ツィムバリュク)が同じ舞台に立っていた。日本の劇場でそれが実現することが、何より平和の証だった。
Ⓒterashi masahiko
まだかなり若く見える指揮者、ヴァレンティン・ウリューピンが東響から神妙で重層的なサウンドを引き出していて、チャイコフスキーの書く旋律はなぜここまで憂いに満ちて美しいのか感傷に浸った。機微を感じさせる合奏で、デリケートな色彩感があり、確かにロシアの情景が見えてくるようだった。
オネーギンは長身でハンサムなバリトン、ユーリ・ユルチュクが登場の場面から素敵で、この役に理想的な雰囲気をまとっていた。厭世的でプライドが高くすべてに退屈している若者で、タチヤーナとはお互いに似たもの同士の気配を感じる。タチヤーナはすぐにふられてしまうのだが、出会いの場面では相思相愛に見えるし、オネーギンも積極的にタチヤーナと二人の時間を作ろうとする。これではタチヤーナも「脈アリ」と思っても仕方がない。
新国初登場のゲスト歌手たちは粒ぞろいで、レンスキー役のテノール、ヴィクトル・アンティペンコが存在感のある美声で聴衆をあっと言わせた。フランスオペラの重い役…ウェルテルやファウストやホフマンを歌っても素晴らしいはず。オリガ役はこの演出では衣装とヘアメイクが気の毒(!)だが、アンナ・ゴリャチョーワが深いメゾの声で(思いのほか深い声質)姉との性格の違いを表現した。
タチヤーナがオネーギンに手紙を書く場面は、心臓が破けそうだった。何度見ても崩れ落ちそうになるシーンで、原作では恋文というより「同志宣言」のような勇ましい内容だったと思うが、オペラでは恋する女性の告白そのもので、初恋でありながら、同時に性的にも激しい衝動が生まれていることを吐露している。精神的な愛が官能的な愛に直結していることを、内気な文学少女のタチヤーナはオネーギンとの出会いで一気に理解してしまう。
オネーギンの理路整然とした拒絶は残酷で、ユルチュクはこの場面が一番魅力的だった。
チャイコフスキーのオペラは見事に鏡像的で、3幕でオネーギンの手紙を破棄する人妻タチヤーナもそうだが、その間にレンスキーの死があり、そこが折り目になって最初と最後が鏡合わせになる。オネーギンとの決闘で儚く散るレンスキーは、タチヤーナの身代わりであるように思えて仕方なかった。同じ挑発と裏切りに対して、女は泣くだけだが男は殺し合いを申し出る。死を意識したレンスキーの絶唱は真のハイライトで、テノールのアンティペンコが魂を尽くした熱唱を聴かせた。
オネーギンの話は有閑階級の戯言、という解釈もある。プーシキンの原作は読みづらく、いつも途中で挫折するが、確かに差し迫った貧困や戦争といったものからは隔絶された上流社会のあれこれが描かれている。
タチヤーナの傷つきやすさに、年をとってますます同情する自分が可笑しかった。断崖絶壁に立たされて、「この想いは妄想だろうか、現実となるだろうか」と祈る。生と死の境目を彷徨って書いた手紙を馬鹿にされ、玉突き事故のように事態は極端に悪い方へ転がっていく。
思うのは、タチヤーナの恋はただの恋ではなく、生まれて初めて出会った分身への愛であり、生きていることの証を相手から得たいという渇望だったということで、甚だこの世的ではない。オネーギンとタチヤーナは磁石のマイナス同士で、似すぎているのだ。
三幕で少ししか歌わないグレーミン公爵は「歌い得」としか言いようがないいい役で、バスのアレクサンドル・ツィムバリュクがロシアの地熱を思わせる低音で若妻タチヤーナへの愛を歌って大喝采を得た。
今更なぜオネーギンが人妻になったタチヤーナを追いかけるのか、特に女性はこの心理を由々しく不可解に思うことが多い。他人のものになって悔しいから。過ぎ去った青春の象徴だから。クランコ振付のバレエ『オネーギン』を見たときも、毎回色々なことを考える。
チャイコフスキーは男の心も女の心も持っていたと思うが、オネーギンの男の心がここで露になる。「同じ女が見違える姿になった」ことが、性的な好奇心を刺激したのだ。タチヤーナの拒絶の理由についても、いくつもの解釈がある。オネーギンの残酷さ、移り気に対する報復である以上に、この一連の出来事の中に一人の人間の死があったことが重要だと思った。
レンスキーの愚直さはタチヤーナの愚直さであり、レンスキーはタチヤーナの身代わりとなって死んだ。
それでもラストシーンで心が裂けそうになるのは、この男女の愛が同類の魂との因縁で、タイミングの悪さによって成就せず、何かが来世に持ち越されているからだ。
タチヤーナ役のシウリーナの声はどこまでも透明で純粋で、声楽的に体裁をまうまく保とうなんてしなくても、ドラマに身を委ねれば素晴らしい歌になることを証明していた。道化的なトリケを歌った升島唯博さんは美声で演技も素晴らしく、本来ヒロイン役が似合う郷家暁子さんは若い男に目がない母親役をコミカルに演じ、橋爪ゆかさんも老け役のフィリッピエヴナを温かく演じた。稽古場はどのような雰囲気だったのだろう。この難しい時代に、ロシア出身の歌手(シウリーナ、アンティペンコ、ゴリャチョーワ)とウクライナ出身の歌手(ユルチュク、ツィムバリュク)が同じ舞台に立っていた。日本の劇場でそれが実現することが、何より平和の証だった。
Ⓒterashi masahiko