小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京芸術劇場『トスカ』

2017-10-31 01:22:32 | オペラ
全国共同制作プロジェクト『トスカ』の東京芸術劇場での上演を観た(10/29)。
このプロジェクトについては、夏に演出の河瀨直美さんにスカイプ・インタビューをさせていただいており、大きな期待をもっていた。観る前から、絶賛の評を書くスタンバイをしていたのだが、嘘を書くわけにはいかない。実際、終演後にお会いした複雑な表情のジャーナリストや評論家の方たちはどう思っていたのか…。笑顔で受付をしてくれたホールの皆さんを思うと、よいことを書きたいという思いも山々なのだ。
世界的な評価を得ている映画監督の河瀨直美さんが、オペラの演出をされるのは画期的なことだった。ローマ歌劇場でもソフィア・コッポラ演出の『椿姫』が話題になり、来年はキアラ・ムーティ演出の『マノン・レスコー』とともに日本でその舞台を観ることができる。古くはリリアーナ・カヴァーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』などもあったが、ロイヤルオペラ『マクベス』のフィリダ・ロイドや、過激演出のカロリーネ・グルーヴァーを数え上げても、まだまだ女性のオペラ演出家は少数派だ。河瀨さんが「女の物語」である『トスカ』を古代日本に似た設定で演出されると聞いたときは、嬉しく思ったのだ。

一幕で、左右に神社の鳥居のようなセットを見た時は興奮した。奥のスクリーンに霊山が映し出され、堂守がうやうやしげに山に拝んでいる姿を見た時は「やった!」と思ったのだ。トスカの信仰の物語を古代日本の自然崇拝に置き換える…という新しい試みは、一幕冒頭では成功していたと思う。世界の河瀨さんが日本のトスカを作り上げた…ということを、多くの人々に知って欲しいと思った。
最初の失望は、演出とは関係がないが…カヴァラドッシ(カバラ導師・万里生)役のテノール、アレクサンドル・バディアが、ひどく生気のない声で「妙なる調和」を歌ったことだった。海外のゲスト歌手は、ゲネプロで日本人歌手が全力で歌っているときも本番のために声を温存していることがあるが(つられて途中から本気を出す人もいる)、このテノール歌手の声を聴いて、ゲネプロなのかと思った。不調で変化球の歌唱をしているのかとも思ったが、そうでもないようだ。いつからかは分からないが、多分とうの昔に情熱を失ってしまったのだろう。ディクションも発声も演技も満足できなかった。通常、歌手についてこのような感想を書くことはない。

そのような相手役なので、トスカ(トス香)のルイザ・アルブレヒトヴァも頑張ってはいたが、自分の情熱と相手の演技が調和しないもどかしさがあったと思う。アルブレヒトヴァは経歴を見るとドイツ系のレパートリーがメインで、そのことを記者会見で質問したところ、トスカは既に3つのプロダクションで歌っており、自分なりの挑戦をしているという答えだった。理想のトスカとまではいかないが、発声も演技も頑張っていたと思う。

カヴァラドッシが今一つだった代わりに…スカルピア(須賀ルピオ)の三戸大久さんが誠実ないい演技をし、声楽家として筋の通った生きざまを見せた。スカルピアにも人間的な面がある、という演出の効果もあったのだろうが、オペラでもバレエでも結局はその人の本質というものは隠せない。声のひとつひとつが、胸に響いた。毎日真剣に積み上げてきた人の声だと思った。スカルピアのテ・デウムで一幕が終わったとき、この上演で一番の収穫は三戸さんなのではないかと予感した。

演出に明確な疑問を感じ始めたのは、二幕に入ってからだった。捕えられたカヴァラドッシが扉の向こうで拷問を受け、トスカがスカルピアの欲望の餌食となり、スリリングな駆け引きが行われるこの幕は、プッチーニがたくさんのことを演出家に託している。ホールオペラなので転換が難しいのは承知しているが、この幕で、演出らしい演出が見えなかった。スクリーンにえんえんと映し出される水疱や海底からみた海面の様子は、何を暗示しているのかわからないし(溺れる者が海から脱出しようとする暗示なのか)、それはあまりに長く続いた。カットも気になった。ナポレオンの勝利を聞きカヴァラドッシが「ヴィットーリア!」と歌い出すところは、その前のやり取りがごっそり抜けているので何に対して勝利を歌っているのか理解に苦しむ。スカルピアが完全な悪人でないという設定では、窮地に追い込まれたトスカが「歌に生き…」を歌う場面での切迫感にも欠ける。
古代日本、という設定はスカルピアの衣装などからもう無効になっていることは分かったが、トスカがどの瞬間に、何を使ってスカルピアを殺そうと思い立つのかは、プッチーニが演出家に託しているハイライトで、カルメンがどんなものでホセに殺されるか…ナイフか、割れたビンの切っ先か…と同じくらい重要なものだ。

トスカは、皿の横に置いてあるテーブルナイフをなんとなく見つけてスカルピアを殺すのだが、オペラグラスで見てもそれはバターナイフにしか見えず、女のトスカが食事に使う小さなナイフで大の男を殺せるとは、演劇的にも現実的にも可能だとは思わなかった。小さなナイフを振り上げて、スカルピアを刺した瞬間、スクリーンに打ち上げ花火がパーンパーンと映った。プッチーニがこれを望んでいるとは思えなかった…トスカが殺人を行うこの場面は、こういうことではなかったはずだ。

色々な違和感が重なったが、それでもオペラは「トスカ」だった。なんと、プッチーニは簡単に壊されない。その強靭に張り巡らされた「プッチーニの結界」には驚くばかりだったが、それはスカルピアの三戸さんをはじめとする、スポレッタの与儀巧さん、アンジェロッティの森雅史さん、堂守の三浦克次さん、シャルローネの高橋洋介さん、看守の原田勇雅さんらの真摯な演技の賜物だった。日本人のオペラ歌手は…今回は若手が多かったが…今やこんなにも立派なのだ。
カヴァラドッシのバディアは残念ながらミスキャストで、この先の公演で少しでもいい演技をしてくれることを祈るが「星は光りぬ」で気持ちは三段落ちし、トスカも彼に恋をしていないようだった。あのラスト近くのユニゾンが、まったくバラバラでちぐはぐに聴こえた。

東京フィルは素晴らしいプッチーニを奏で、細部に渡るまで洗練されていた。多少ボリュームが大きく感じられた箇所もあったが、客席をつぶして平土間にオケピを作っているのだから仕方がない。舞台の後ろにオケを持ってくるわけにもいかないし…起伏に富んだシンフォニックなサウンドで良かった。広上淳一さんの指揮は明快で、合唱にもわかりやすい動きで指示を出していた。時折陶酔するような動きでメロディアスなプッチーニを滔々と聴かせてくれたのもよかった。ある種の通俗性がプッチーニには必要なので、この指揮には異論はない。

プッチーニのリッチなスコアは、トスカのサンタンジェロ城からの転落に向かってピラミッドの先端のように研ぎ澄まされていく。あそこでトスカは「スカルピア、神の御前で!」と叫んで落ちていくのだ。自殺する自分も、罪を犯したスカルピアも、地獄に落ちる運命なので、私たちはそこで再び会う、という言葉である。
そのラストが、別の部分のトスカの歌の挿入によって、全く別のものになっていた。最後のアルブレヒトヴァの歌声は、録音であった。なるほど、コンヴィチュニーも譜面を変えるし、録音を使う……。
河瀨さんの映画では、自然光がとても美しい。自然な光を浴びた「演技を超えた」人々のありのままの表情は、観る者の胸を打つ。他の監督の映画では、すべてが人工的だ。河瀨さんは、窮屈な劇場の暗闇から「トスカ」を自然光の当たる場所へ出してあげたかったのだ。あるいは、そうして欲しいと強く薦める人がいたのかも知れない。
私は自然にはほとんど関心がなく、劇場の埃臭い緞帳や奈落や暗闇が好きなのだ…トスカや蝶々さんやミミがいる暗闇に深い安息を感じ、オペラの幽霊たちに癒されたいと思った。













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