久々の海外のピアニストのリサイタル。金曜日のオペラシティは予想以上に埋まっていて、熱心なファンも多いのだろうか、最近のリサイタルでは珍しいほどの熱気が漂っていた、
オピッツは穏やかな笑顔で登場。ベートーヴェン『ピアノ・ソナタ第30番』のはじまりは、いつも秋の枯れ葉が舞い散る景色を思い出す。デスクで書き物をする人のような背中で、オピッツは淡々と弾き進めた。内省的で虚飾のないタッチ。2楽章のプレスティッシモも激昂しすぎず、抑制感がある。よくコントロールされているが、物凄い強靭な左手の持ち主だ。数々の招聘公演が中止となった2020年、「生粋のドイツ精神」とはどのようなものかを考えた。
オピッツはドイツ音楽の伝統の正統的な継承者だと言われる。この夜のベートーヴェンは、ドイツの伝統のど真ん中にいるとも思えるし、同時に国籍関係なくユニヴァーサルなピアニズムにも思えた。オピッツはベートーヴェンの「個」としての性質や、時折理念の裏をかくような作曲家の衝動性も浮き彫りにしていたと思う。演奏にはメソッドが息づいているが、ベートーヴェンは「規律」のみに閉じ込められるような表現者ではない。天にも届く創造性をもつ人間の、「地に根付きたい」「安らかに生きたい」と思う心も伝わってきた。
30番のソナタの静かな終わり方は、ベートーヴェンのシンフォニーやコンチェルトとは対蹠的で、階段をゆっくり登り切った先にたどり着いた地のような、不思議な静けさに満ちている。そこが具体的にどんな場所であったかは、聴き手に想像させるのだ。オピッツの終わり方はどこか宗教的な余韻があった。
31番は30番の続きのような世界だ。幻想的な色彩が燈篭流しのようにちかちかと点滅し、ひとつの命のような息の長い旋律が何かの終わりに向かって一途に流れていく。「ピアニストはその日の聴衆が何を考えているかを感じて音を出す」とポゴレリッチは語っていたが、すべてのピアニストがそうなのかも知れない。客席の意識は水のようにひとつになり、オピッツはその水面に向かって美しい波紋を与えていた。コンサートという空間の貴重さを改めて思った。
「アレグロ・モルト」は師匠のルドルフ・ケンプとはだいぶ違っていて、スタッカートを強調して不器用なダンスのような弾き方をしていたケンプのようには弾かない。何かが現代風だ。「ドイツピアニズムの伝統」を守るということと、「ベートーヴェンを探求する」ということは、イコールであると同時に個別の作業であるに違いない。ベートーヴェンは強烈な個人であり、同時に世界精神でもあり、未来のための作曲家なのだ。
2000年代に入って、世界はグローバル化が進んだが、2008年頃から「グローバル化は害だ」という風潮が出始め、近年の英国のEU離脱につながるような流れが出始めた。クラシックでも「オーケストラの音がグローバル化するのは由々しい」と言われ、個別のルーツを持つローカルな音を求める趨勢があった。甚だもっともなことだが「世界はひとつ」であってはいけないという意図にも感じられ、複雑な思いだった。歴史に裏付けられたアイデンティティは必要だが、「その国らしさ」を永遠に求めるというのは、女性がいつまでも「外側から観察される性」であるのと少し似ている。
ベートーヴェンはドイツ的であり、グローバルである。オピッツはそんなダブルスタンダードを、とうの昔に認識していたのだろう。後半の「6つのバガテル」は妖艶なほどの高貴さに溢れ、2曲目のアレグロからは鋭く強い香気が感じられた。この曲には、どんなピアニストも魅了されるという。アンデルシェフスキがドキュメンタリー映画で夢見るような表情で曲の魅力を語っていたのを思い出した。オピッツは気品を保ちながら、バガテルのもつあどけなさ、包み隠さぬ情熱や秘められた官能性も聴かせてくれた。余韻には手品のように呆気にとられる不思議さもあった。
素晴らしい演奏会とは光のようなもので、その瞬間の光について正確に言葉で再現することは難しい。何故だか2020年という年は、極端なほど基本に戻って保守的なことを言わなくてはならないような無言の圧力を感じさせる年だった。光を再現することは出来ない。光を浴びていたとき、自分がどんなふうにびっくりした顔をしていたかを再現することは出来る。最後の32番のソナタでは、ベートーヴェンの知性と野生、理念と衝動性が表裏一体となり、オピッツは長年の経験で築いた不動の芸術性を発揮し、同時に「今このとき」に生まれる予測不可能な何かも歓迎してリサイタルに奇跡をもたらした。穏健なピアニスト…という印象だったが、音楽を通じて遥か未来まで見通しているラディカルな哲学者なのだ。ベートーヴェンはどんどん若返る。演歌的な情念とは反対の、爽やかな「軽さ」も感じられたリサイタルだった。
オピッツは穏やかな笑顔で登場。ベートーヴェン『ピアノ・ソナタ第30番』のはじまりは、いつも秋の枯れ葉が舞い散る景色を思い出す。デスクで書き物をする人のような背中で、オピッツは淡々と弾き進めた。内省的で虚飾のないタッチ。2楽章のプレスティッシモも激昂しすぎず、抑制感がある。よくコントロールされているが、物凄い強靭な左手の持ち主だ。数々の招聘公演が中止となった2020年、「生粋のドイツ精神」とはどのようなものかを考えた。
オピッツはドイツ音楽の伝統の正統的な継承者だと言われる。この夜のベートーヴェンは、ドイツの伝統のど真ん中にいるとも思えるし、同時に国籍関係なくユニヴァーサルなピアニズムにも思えた。オピッツはベートーヴェンの「個」としての性質や、時折理念の裏をかくような作曲家の衝動性も浮き彫りにしていたと思う。演奏にはメソッドが息づいているが、ベートーヴェンは「規律」のみに閉じ込められるような表現者ではない。天にも届く創造性をもつ人間の、「地に根付きたい」「安らかに生きたい」と思う心も伝わってきた。
30番のソナタの静かな終わり方は、ベートーヴェンのシンフォニーやコンチェルトとは対蹠的で、階段をゆっくり登り切った先にたどり着いた地のような、不思議な静けさに満ちている。そこが具体的にどんな場所であったかは、聴き手に想像させるのだ。オピッツの終わり方はどこか宗教的な余韻があった。
31番は30番の続きのような世界だ。幻想的な色彩が燈篭流しのようにちかちかと点滅し、ひとつの命のような息の長い旋律が何かの終わりに向かって一途に流れていく。「ピアニストはその日の聴衆が何を考えているかを感じて音を出す」とポゴレリッチは語っていたが、すべてのピアニストがそうなのかも知れない。客席の意識は水のようにひとつになり、オピッツはその水面に向かって美しい波紋を与えていた。コンサートという空間の貴重さを改めて思った。
「アレグロ・モルト」は師匠のルドルフ・ケンプとはだいぶ違っていて、スタッカートを強調して不器用なダンスのような弾き方をしていたケンプのようには弾かない。何かが現代風だ。「ドイツピアニズムの伝統」を守るということと、「ベートーヴェンを探求する」ということは、イコールであると同時に個別の作業であるに違いない。ベートーヴェンは強烈な個人であり、同時に世界精神でもあり、未来のための作曲家なのだ。
2000年代に入って、世界はグローバル化が進んだが、2008年頃から「グローバル化は害だ」という風潮が出始め、近年の英国のEU離脱につながるような流れが出始めた。クラシックでも「オーケストラの音がグローバル化するのは由々しい」と言われ、個別のルーツを持つローカルな音を求める趨勢があった。甚だもっともなことだが「世界はひとつ」であってはいけないという意図にも感じられ、複雑な思いだった。歴史に裏付けられたアイデンティティは必要だが、「その国らしさ」を永遠に求めるというのは、女性がいつまでも「外側から観察される性」であるのと少し似ている。
ベートーヴェンはドイツ的であり、グローバルである。オピッツはそんなダブルスタンダードを、とうの昔に認識していたのだろう。後半の「6つのバガテル」は妖艶なほどの高貴さに溢れ、2曲目のアレグロからは鋭く強い香気が感じられた。この曲には、どんなピアニストも魅了されるという。アンデルシェフスキがドキュメンタリー映画で夢見るような表情で曲の魅力を語っていたのを思い出した。オピッツは気品を保ちながら、バガテルのもつあどけなさ、包み隠さぬ情熱や秘められた官能性も聴かせてくれた。余韻には手品のように呆気にとられる不思議さもあった。
素晴らしい演奏会とは光のようなもので、その瞬間の光について正確に言葉で再現することは難しい。何故だか2020年という年は、極端なほど基本に戻って保守的なことを言わなくてはならないような無言の圧力を感じさせる年だった。光を再現することは出来ない。光を浴びていたとき、自分がどんなふうにびっくりした顔をしていたかを再現することは出来る。最後の32番のソナタでは、ベートーヴェンの知性と野生、理念と衝動性が表裏一体となり、オピッツは長年の経験で築いた不動の芸術性を発揮し、同時に「今このとき」に生まれる予測不可能な何かも歓迎してリサイタルに奇跡をもたらした。穏健なピアニスト…という印象だったが、音楽を通じて遥か未来まで見通しているラディカルな哲学者なのだ。ベートーヴェンはどんどん若返る。演歌的な情念とは反対の、爽やかな「軽さ」も感じられたリサイタルだった。