小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京二期会『タンホイザー』(2/17) 

2021-02-18 18:07:09 | オペラ

二期会『タンホイザー』初日を東京文化会館で鑑賞。5時開演の15分前に到着したが、日が長くなったせいか周囲の景色は明るく、青空と澄んだ空気が嬉しい。春が近づくにつれ賑やかになるはずの上野はひっそりとしていて、どこかSF的なムードに包まれていた。

2021年春に日本で続々上演される「ワーグナー祭り」(?)のスターターとなった二期会の『タンホイザー』は1999年以来の上演。フランス国立ラン歌劇場との提携公演で、キース・ウォーナー演出はドレスデン版とパリ版を適材適所に組み合わせた構成。装置・照明・衣裳ともスタイリッシュで美しく、各々の人物の造形も納得のいくものだった。

指揮はアクセル・コーバーに代わって、読響の音楽監督セバスチャン・ヴァイグレがピットに入った。2020年12月に来日して以来、定期演奏会が終わってからも本公演のために東京に滞在していた。序曲から薫り立つ響きで、力で押すタイプではなく音楽の中にある繊細な構造を浮き彫りにしていた。透ける黒い幕を張った右側の段に金管楽器、左側にハープと打楽器。読響はシェフの元で物語の息遣いが感じられるような自在なサウンドを奏でた。

冒頭から闇に浮かび上がる、細長い鉄製のパイプのような構造物が気になった。これはタンホイザーが囚われている「籠」の象徴なのか。別次元へトリップするときの入り口なのか。

ヴェーヌス板波利加さんは、赤毛のロングの巻き毛にパープルのドレスで妖艶な女神を演じた。2017年のバイエルン国立歌劇場の来日公演(ペトレンコ指揮)で岩石と一体化したような巨大な裸体のヴェーヌスを演じたエレーナ・パンクラトヴァの姿を連想し、キース・ウォーナーはロメオ・カステルッチとは違う、異形性のシンボルではないヴェーヌスを構想したのだと理解した。

タンホイザー片寄純也さんとヴェーヌスとのやり取りは、子離れを悲しむ母と子の対話にも聴こえた。黙役の子役が出てきてヴェーヌスは可愛がるのだが(彼が書いた紙を破り捨てる芝居は何を表すのか)、タンホイザーもまたヴェーヌスの「可愛い子」という暗示なのかも知れない。ここには何でもあるのに、なぜつまらない地上に戻るのか…セクシーな衣装の女性ダンサー、遠目には裸体に見えるボディスーツを着た美しい男女のダンサーの動きが、「官能と快楽」でタンホイザーをヴェーヌスのもとに引き付けようとする魔術のようだった。

タンホイザーによるハイライト的な「ヴェーヌス賛歌」はこの役のテノールに多くの負荷を与えるのか、この日の片寄さんもゲネで拝聴した芹澤佳通さんも苦心しているようだった。有名な旋律で、名録音も多いので歌手の負担は大きいと思う。繰り返されるたびに半音上がっていくが、フォークトも三回目の繰り返しは、結構きつそうに歌っていた記憶がある。

この演出のヴェーヌスは怪物でも悪役でもなく、素直な愛の女神として描かれているふしがあり、「あなたはまた戻ってくる。そのとき歓迎するか分からないけれど」と歌うヴェーヌスは恋の達人のようでもあり、反抗期の息子に手を焼く母のようでもある。どこか天然なので、彼女が用意した快適な天のシェルターが、それほど毒にまみれたものではないような気がしてしまうのだ。板波さんは先日の「サムソンとデリラ」でも策略的な悪女デリラを演じたが、ヴェーヌスはまったく無意識の悪女で、すべてを与えたい女神は目の前の愛人を失いたくないだけなのだ。

地上に出奔するタンホイザーが求めていたのは「死」ではないか…終わりもなく始まりもない、母胎のような場所から出て、女神の愛玩物ではない一人の男として死にたかった。「どらえもん」ではのび太の机の中が母胎のメタファーだという。本来、男性はほの暗い安息の場に帰りたいという本能がありながらも、実際に叶ってしまうと地獄でしかないのかも知れない。

ヴェーヌス=月であり、エリーザベト=太陽なのだ。田崎尚美さんが太陽のような大きなオーラで無邪気な乙女を演じた。カタリーナ・ワーグナー演出の子供のためのオペラ「さまよえるオランダ人」でゼンタを演じられていた田崎さんだが、ワーグナーが描きたかった夢想的で無垢な若い女性を理想的に演じられる歌手だと思う。大きな羽を伸ばした天使のようなエリーザベトに目が釘付けになり、歓喜に溢れたソプラノの美声に心が洗われる。色々なオペラで田崎さんを見てきたが、エリーザベトは最高の当たり役で、全身が白い真珠のように発光しているように見えた。

「愛の本質」をお題にして、ヴォルフラム、ヴァルター、ビーテロルフが歌合戦を繰り広げるくだりは、ハープ伴奏付きの哲学論のディベートのようでもあり、デカルト、カント、ヘーゲル、ショーペンハウアーの隆々たる思想が次々と古くなっていく「哲学者の無常」のようだと感じられた。道徳によって限定的となった愛を嗤いたいタンホイザーの境地もまた、哲学的だ。彼らの時代精神にとっては逸脱的であると同時に超人的なのだ。

「聖母マリア」の一言でヴェーヌスがへたり込んだように、神殿でも「ヴェーヌスベルク」のタンホイザーの一言が世界を暗転させる。バルコニーでは、ヴェーヌスもその様子をこっそりと見ている演出で、エリーザベトが絶望の淵に追い込まれた場面でヴェーヌスも影をひそめる。二幕の緊迫感は凄味があり、二期会の名歌手が次々と独唱を披露する火花散る様子も心湧きたった。ヴォルフラム大沼徹さんの深みのある歌唱とドイツ語が特に心に残る。

タンホイザーの堕落を知った男たちが彼を弾劾する中、最も傷ついたエリーザベトだけが「キリストの贖罪は彼のためにあった」と、罪人を庇う。この劇は贖罪がテーマなのだろうか…罪悪感に苛まれたタンホイザーはローマへ向かうが、教皇はタンホイザーの罪を永遠に許さない。現世に救いはなく、ただ一人エリーザベトの犠牲の死のみがタンホイザーを救う…これは結局宗教的ということなのか、その逆を言っているのか。

ワーグナーは「現世的な」宗教を信じず…これはヴェルディやプッチーニも見事に同じことをオペラでやっているが…女性の中にのみ救済があると信じている。宗教権力によって断罪されても、聖母のような女性がすべてを贖う。

異次元へのパイプのような細長い鉄の筒に吸い込まれていくタンホイザーが、天上から吊るされたエリーザベトと近づいていくエンディングは美しかった。吊るされているのは恐らく田崎さんではないと思うが…あの筒の象意が、なんとなく分かった。永遠なるものへの細い入口で、世俗の騎士たちの徳とは別の世界に通じている。道徳、理性、高潔さといった、人間を人間たらしめているものの中に潜む矛盾が、官能の本質なのだ…とワーグナーは語りたかったのではないか。

社会から罪を問われ、ローマ教皇にも許されなかったタンホイザーは、永遠に女性的なるものに救われた。極と極を結んでいるのはエリーザベトとヴェーヌスであり、この正反対の役は本当はひとつのものであったのではないか…。水平軸には大勢の男と言説があり、垂直軸には聖母と魔性の女神の愛がある。天地を結ぶ二つだけが大事で、他は要らない。「永遠に普遍的なものとは、死である」というどこかの哲学者の言葉をまた、思い出した。

二回休憩で4時間。ワーグナーは長い、という先入観は吹き飛んだ。二期会合唱団の霊性を感じる合唱の力に震撼。ソリストはさらに良くなりそう。読響の尊敬と献身を集め、心理面でも情景描写の面でも卓越した指揮をしたセバスチャン・ヴァイグレは、カーテンコールでは神にしか見えなかった。1階11列目から見える神は、少しうるうるした目でピットと客席を見つめていた。ワーグナーの魔力にとらわれ、楽劇の「筆圧」の強さに酔った一夜だった。

タンホイザーとヴェーヌス Otto Knille作



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