世界最古の市民オーケストラ、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の3年ぶりの来日公演をサントリーホールで聴いた。指揮は今年90歳を迎えた桂冠指揮者ヘルベルト・ブロムシュテット。オケ創立275周年とも重なり、来日ツアーのプログラムはこのオーケストラが初演を果たした曲が並び、歴史の厚みを感じさせる内容だった。
前回の来日公演でのリッカルド・シャイーとのマーラー7番では、どんな奇々怪々な曲も明晰に、オケのモットーである「真摯たれ」を貫いて演奏するこのオケの「熱量」に驚き、感服したものだが、ブロムシュテットに導かれた音楽はそれとは異なる印象だった。真摯さ、真剣さはそのままに、内面的な静けさや控えめさといったものを強く受け止めた。シャイーは60代で、ブロムシュテットに比べればまだまだ若かったのだ。先月聴いたルツェルン祝祭管の演奏は、そうしたシャイーの冒険心とパッションを受け止めるものだったと思う。
前半のブラームスの『ヴァイオリン協奏曲ニ長調』では、レオニダス・カヴァコスが登場。彼を見ると私はなぜかキリストを思い出してしまうのだが…精妙で献身的で、決して大袈裟にならない最良の演奏を聴かせた。先日のボストン響のギル・シャハムのチャイコンは、超絶技巧部分を非常に「演劇的に」弾いていたが、カヴァコスは立派な体格で両足を床に吸い付け、あまり大きく動かない。オケの積極性は相変わらず素晴らしいが、シャイーのときに強く感じた「びっくりするような熱気」は控えめだった。全体的にいぶし銀のようなサウンドに感じられた。ゲヴァントハウス管の名物である五弦のコントラバスも、低音をデラックスに聴かせるというより、もっと「渋い」感じなのだ。
一楽章のカヴァコスのカデンツァが終わったあたりから、じわじわと心に押し寄せてくるものがあった。それは不思議な至福で、人の信条や、忍耐強い生き方が教えてくれる人生の秘訣のような閃きだった。世界にはさまざまなオーケストラがあり、魔法使いのような指揮者がいて、最初の一音から聴衆を魅了し、別世界へと誘うようなサウンドを奏でる集団もいる。この日のゲヴァントハウスは、それよりも秘められたオーケストラの本質を聴かせてくれた。ブロムシュテットは見るたびに少しずつ身体が小さくなり、動きも少なめになっていくが、サウンドは洞察的で、多くのメッセージを放っていた。アダージョ楽章は温かく寛大で、紅葉を映し出す湖面のようなオケとともに、カヴァコスも清冽な祈りのようなソロを重ねた。
ドラマティックに激昂していくことの多い3楽章も、ただの激しさとは異なる表現だった。旋律は美しく、洗練潔白で、幾重もの心の作業を経た先にある広大な次元を指さしているようだった。ブロムシュテットの生きた神様のような姿のせいもあるのだろうか…「人生は最後まで生きてみなければわからないのだ」という、思いもよらない明快な啓示を得た。
私にとってこの演奏はとても宗教的なものに感じられた。個人的に、そういう演奏を聴くことは今の自分にとってとても貴重なことであった。どうして人生に対して悲観的であることをやめられず、幾度も「この人生をもう終わりにしたい」と思ってしまうのか…ブロムシュテットは明快な答えを与えてくれた。「人生はいつ好転するかわからない。命あることに感謝して生き続けなさい」と音楽を通じて語り掛けてきた。命や時間をどうとらえ、人生に生かしていくか…という啓示は、とても宗教的なものだった。
芸術が宗教的である、ということ自体がヨーロッパでは語義反復であるのかも知れない。しかし、日本では音楽そのものを科学的に…切り離されたものとした語ることが是とされているような気がする。ゲヴァントハウス管とカヴァコスのブラームスが宗教的である、という私の解釈はこの国では孤立し続けるのだろう。
後半のシューベルト『交響曲第8番 ハ長調 ザ・グレイト』では、前半に感じられたものがさらに強調されて心に迫ってきた。長らく、この曲の魅力が分からなかったのだ。シューベルトは歌曲やピアノ曲のほうが魅力的で、ザ・グレイトの愚直さや同じことの繰り返し、生真面目さは全く好きになれなかった。先日同じサントリーで聴いたゲルネの『冬の旅』では、音楽的霊感という意味でもシューベルトは崖っぷちまで行く。ある痛点に釘を打ち付け、トンカチを叩いたらヒビ割れから予想もしない深淵が顔を出した…という世界が歌曲にはある。アンプロンプチュのようなピアノ曲にもある。それを思えば、シューベルトは和声的にも構造的にも、もっと過剰な音楽を書けたはずなのではないかと思っていたのだ。
ブロムシュテットとゲヴァントハウス管の精神性は、シューベルトがハ長調のこの曲で行おうとしていたこの本質を教えてくれた。霊感の女神に愛された放蕩者としての幸運を捨て、一人の人間として、人間の理想を音楽で表そうとする崇高さを感じた。深読みするならば、ロマン派という潮流がこの「人間的理性」を捨てて感覚の放恣にひたったなら、音楽は死に絶える…トリスタンとイゾルデとともに腐り果てて死ぬ…という予感があったのかも知れない。爛熟した和声の快楽はロマン派の寿命を縮め、音楽は調性を捨てるまでにならなければならなかったのだ。
それにしても、最終楽章でのあの同音の執拗な繰り返しは本当にユニークである。音楽に性別はないとはいえ、とても男性的なのだ。ゲヴァントハウス管は今回ブルックナーの7番も演奏するが、ザ・グレイトもブルックナーの7番も女人禁制の修行僧のストイックな世界を彷彿させる。それと比べると、モーツァルトの交響曲はどれも女性的だ。翻ることと騙すこと、一瞬で魅了することは女の領分だからだ。
ゲヴァントハウス管は聴くだけでなく見ることによっても多くを教えてくれる。ぴったりそろった呼吸感、顔つきや所作の神妙さ…木管は特にオーボエ奏者の表情が素晴らしかった。どんな物事も、「やらされている」感じほど美しさから遠いものはない。オケの積極性からは、生き方の美学のようなものも教わった。12日と13日にもコンサートが行われる。
前回の来日公演でのリッカルド・シャイーとのマーラー7番では、どんな奇々怪々な曲も明晰に、オケのモットーである「真摯たれ」を貫いて演奏するこのオケの「熱量」に驚き、感服したものだが、ブロムシュテットに導かれた音楽はそれとは異なる印象だった。真摯さ、真剣さはそのままに、内面的な静けさや控えめさといったものを強く受け止めた。シャイーは60代で、ブロムシュテットに比べればまだまだ若かったのだ。先月聴いたルツェルン祝祭管の演奏は、そうしたシャイーの冒険心とパッションを受け止めるものだったと思う。
前半のブラームスの『ヴァイオリン協奏曲ニ長調』では、レオニダス・カヴァコスが登場。彼を見ると私はなぜかキリストを思い出してしまうのだが…精妙で献身的で、決して大袈裟にならない最良の演奏を聴かせた。先日のボストン響のギル・シャハムのチャイコンは、超絶技巧部分を非常に「演劇的に」弾いていたが、カヴァコスは立派な体格で両足を床に吸い付け、あまり大きく動かない。オケの積極性は相変わらず素晴らしいが、シャイーのときに強く感じた「びっくりするような熱気」は控えめだった。全体的にいぶし銀のようなサウンドに感じられた。ゲヴァントハウス管の名物である五弦のコントラバスも、低音をデラックスに聴かせるというより、もっと「渋い」感じなのだ。
一楽章のカヴァコスのカデンツァが終わったあたりから、じわじわと心に押し寄せてくるものがあった。それは不思議な至福で、人の信条や、忍耐強い生き方が教えてくれる人生の秘訣のような閃きだった。世界にはさまざまなオーケストラがあり、魔法使いのような指揮者がいて、最初の一音から聴衆を魅了し、別世界へと誘うようなサウンドを奏でる集団もいる。この日のゲヴァントハウスは、それよりも秘められたオーケストラの本質を聴かせてくれた。ブロムシュテットは見るたびに少しずつ身体が小さくなり、動きも少なめになっていくが、サウンドは洞察的で、多くのメッセージを放っていた。アダージョ楽章は温かく寛大で、紅葉を映し出す湖面のようなオケとともに、カヴァコスも清冽な祈りのようなソロを重ねた。
ドラマティックに激昂していくことの多い3楽章も、ただの激しさとは異なる表現だった。旋律は美しく、洗練潔白で、幾重もの心の作業を経た先にある広大な次元を指さしているようだった。ブロムシュテットの生きた神様のような姿のせいもあるのだろうか…「人生は最後まで生きてみなければわからないのだ」という、思いもよらない明快な啓示を得た。
私にとってこの演奏はとても宗教的なものに感じられた。個人的に、そういう演奏を聴くことは今の自分にとってとても貴重なことであった。どうして人生に対して悲観的であることをやめられず、幾度も「この人生をもう終わりにしたい」と思ってしまうのか…ブロムシュテットは明快な答えを与えてくれた。「人生はいつ好転するかわからない。命あることに感謝して生き続けなさい」と音楽を通じて語り掛けてきた。命や時間をどうとらえ、人生に生かしていくか…という啓示は、とても宗教的なものだった。
芸術が宗教的である、ということ自体がヨーロッパでは語義反復であるのかも知れない。しかし、日本では音楽そのものを科学的に…切り離されたものとした語ることが是とされているような気がする。ゲヴァントハウス管とカヴァコスのブラームスが宗教的である、という私の解釈はこの国では孤立し続けるのだろう。
後半のシューベルト『交響曲第8番 ハ長調 ザ・グレイト』では、前半に感じられたものがさらに強調されて心に迫ってきた。長らく、この曲の魅力が分からなかったのだ。シューベルトは歌曲やピアノ曲のほうが魅力的で、ザ・グレイトの愚直さや同じことの繰り返し、生真面目さは全く好きになれなかった。先日同じサントリーで聴いたゲルネの『冬の旅』では、音楽的霊感という意味でもシューベルトは崖っぷちまで行く。ある痛点に釘を打ち付け、トンカチを叩いたらヒビ割れから予想もしない深淵が顔を出した…という世界が歌曲にはある。アンプロンプチュのようなピアノ曲にもある。それを思えば、シューベルトは和声的にも構造的にも、もっと過剰な音楽を書けたはずなのではないかと思っていたのだ。
ブロムシュテットとゲヴァントハウス管の精神性は、シューベルトがハ長調のこの曲で行おうとしていたこの本質を教えてくれた。霊感の女神に愛された放蕩者としての幸運を捨て、一人の人間として、人間の理想を音楽で表そうとする崇高さを感じた。深読みするならば、ロマン派という潮流がこの「人間的理性」を捨てて感覚の放恣にひたったなら、音楽は死に絶える…トリスタンとイゾルデとともに腐り果てて死ぬ…という予感があったのかも知れない。爛熟した和声の快楽はロマン派の寿命を縮め、音楽は調性を捨てるまでにならなければならなかったのだ。
それにしても、最終楽章でのあの同音の執拗な繰り返しは本当にユニークである。音楽に性別はないとはいえ、とても男性的なのだ。ゲヴァントハウス管は今回ブルックナーの7番も演奏するが、ザ・グレイトもブルックナーの7番も女人禁制の修行僧のストイックな世界を彷彿させる。それと比べると、モーツァルトの交響曲はどれも女性的だ。翻ることと騙すこと、一瞬で魅了することは女の領分だからだ。
ゲヴァントハウス管は聴くだけでなく見ることによっても多くを教えてくれる。ぴったりそろった呼吸感、顔つきや所作の神妙さ…木管は特にオーボエ奏者の表情が素晴らしかった。どんな物事も、「やらされている」感じほど美しさから遠いものはない。オケの積極性からは、生き方の美学のようなものも教わった。12日と13日にもコンサートが行われる。