小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

ミュージカル『エビータ』(7/6)

2018-07-07 02:26:30 | ミュージカル
7/4に初日を迎えたミュージカル『エビータ』。7/6のマチネ公演を渋谷の東急シアターオーブで観た。アンドリュー・ロイド=ウェバーとティム・ライスの黄金コンビが放ったこのミュージカルは、1979年の初演の翌年にはトニー賞7部門に輝いている。ハロルド・プリンスによるオリジナル演出版はこれが日本初上陸となる。極貧の出ながらモデルや女優を経て、アルゼンチンのファースト・レディにまで上り詰めるも、33歳で夭折した国民的ヒロイン、エヴァ・ペロンの生涯が描かれたストーリーだ。

このツアーメンバーによるシンガポールでの舞台を3月に観ていた。メインキャストはチェ(・ゲバラ)以外全く同じ。エビータ役のエマ・キングストンが目の覚めるような歌唱力を披露したが、上演を重ねるごとに役が深まっていったのだろう。日本での公演ではさらに演技が研ぎ澄まされ、本物のエビータが舞台にいるようだった。まだ20代中頃の英国人の歌手で、クラシックのトレーニングを徹底的に受けてきたという。南アフリカで行われたオーディションでは30代後半から40代前半までのベテラン歌手たちがオーディションのため集められたが、この難役を歌える実力の持ち主はおらず、急遽ロンドンでもキャスティングが行われ、まだ若いキングストンが抜擢された。ロイド=ウェバー、ティム・ライス、ハロルド・プリンス全員のお墨付きで決まったという。
彼女が歌う主役のパートは最も難しく、音程を取るのもフレージングも発声もすべて高度な技術を要し、その上ミュージカルなので激しいダンスも加わる。11歳でプロになると決意し、学生時代は一日14時間もレッスンをしていたという。舞台では圧倒的な存在感があり、この道にかけてきた覚悟を感じさせた。生まれながら桁外れの才能を持っている人が、覚悟を決めて道を究めたときに現れる境地のようなものを見た。途中から理由などなくなるのだろう。成就しなければ「ならない」。それが、貧困から抜け出そうとして男を渡り歩き、髪型やファッションをどんどん派手にし、親子ほど年の離れたペロン大佐と結婚するエビータの姿と重なった。ぎりぎりまで張り詰めた弓のような剛さがある。

マドンナが主演した映画版『エビータ』でアントニオ・バンデラスが演じたチェ・ゲバラはラミン・カリムルーが演じた。シンガポールでは南アフリカの大スターという歌手が歌い彼もなかなかよかったのだが、ラミンも好演していた。狂言回しのように舞台に登場し、エビータのシャドウのような言葉を語る。大筋のストーリーに対する異化効果としてほとんど舞台に出づっぱりなのだが、このパートもとても難しい。初役だというが、ミュージカル歌手にとっては喉から手が出るほど歌いたい役だろう。エビータとの不思議な「絡み」も魅力的だった。
エヴァに翻弄され、野心に火をつけられるホアン・ペロンは南アフリカ出身のロバート・フィンレイソンが歌い、おっとりとした外貌がリアルなペロン大佐を想像させた。当惑したような表情が自然で、歌にも清潔感があってよかった。

音楽の巧みさ、魅力的なライトモティーフ、次から次へとトランプを展開するように現れる豊かな旋律やハーモニーはすさまじかった。アンドリュー・ロイド=ウェバーの巨大な創造性を証明していて、先日見たばかりのブッチーニの『トスカ』を思い出した。強烈な心理効果のある音楽で、これはエンターテイメントというにはあまりにシリアスな凄みに溢れていると感じた。ティム・ライスの歌詞も凄い。シンガポールでは字幕なしだったので、今回の公演で字幕を見て追いつけなかったところを補完したが、言葉にも力があるのだ。実際のエビータの映像や、1940年代のプロパガンダ・アートをふんだんに使ったハロルド・プリンスの演出も冴え冴えとしている。才能が集まるというのは、こういうことなのか。一流の知性が作り出す世界観には、一種異様なほどの高揚があり、そこにエマのような天才的な歌手がトッピングされることで奇跡的な時間が生まれる。すべては才能なのだ…。

映像で過去の上演を見ると色々なエヴァ・ペロンがいて、中にはあまり好ましくない歌手もいた。ヘアメイクや照明や演出が悪いのか…ただ野心的で下品なエビータも見つかった。エマ・キングストンは本気でこの役に取り組み、実在した人物の矛盾した生き方をなぞり、最終的に魂の本質に到達していた。エビータの本質とは、誇り高く聖なる女である。それを見つけるために、汚い生き方もしたが、最後は聖女として死んだのだ。観客には最後まで「悪人か、善人か」という疑惑を投げかける役だが、歌手の中では答えが出ているのだと思った。それゆえに、最も気品があり美しいエビータが舞台に現れた。

マドンナの映画で有名になった「ドント・クライ・フォー・ミー・アルゼンチーナ」は名曲中の名曲で、不協和音の続くシークエンスで歌われるのでなお一層美しさが際立つ。トスカの「愛に生き歌に生き」と登場の仕方が似ている。この曲をはじめ、さまざまなところにタンゴのリズムが息づいている。聖歌の中にもタンゴがあるのだ。それが民衆のパワーとつながっていたエビータの個性を浮き彫りにする。シンガポールで二回ほど見て、4か月ぶりにこの音楽と「再会」したのだが、知らぬ間にエビータのミュージカルに恋していた自分を発見した。狂おしいほど、すべての音楽が快く、嬉しかった。麻薬的な魅力があり、また聴きたくなる。

ミュージカルではカーテンコールでもオケピから指揮者が出てくることはないが、このプロダクションにはとても優秀なコンダクターがいて、彼=ルイ・ザーナーマーは複雑なリズムを正確に操り、音楽から素晴らしいニュアンスを引き出す。シンガポールでのインタビューでは「私の青春はシューベルト、シューマン、ブラームスだったんですよ」と笑顔で語ってくれた。ピアニストとして活動しながらオペラ指揮者の修行を積み、ロンドンで身体をこわしてケープタウンに帰ったとき、ミュージカルの仕事と出会った。ティム・ライスのテキストがいかに音楽にとって素晴らしいものかも説明してくれ、「和声にストラヴィンスキーのオイディプス王みたいなくだりがあるよね」というと「本当にアヴァンギャルドなんだ!」と目をキラキラさせていた。

女性の中を駆け抜けていく嵐の正体は何だろう。オペラではカルメンもトスカもマノン・レスコーも、自分の身体より大きなものにとりつかれて、自分でもわけが分からないまま息果てていく。エビータもまさにそうだった。
エマ・キングストンの奇跡の演技に会場は湧き、一階席ではスタンディングで喝采する観客も多くいた。『エビータ』は7/29まで上演が続く。
























新国立劇場『トスカ』(7/4)

2018-07-06 06:17:07 | オペラ
新国『トスカ』の3年ぶりの再演を7/4に観た。指揮はこのプロダクションの初演の指揮をした故マルチェッロ・ヴィオッティの子息ロレンツォ・ヴィオッティ。東響のゲストとして過去に二回ほど彼の指揮するコンサートを聴いたことがあるが、オペラは初めて。ここ数年で大出世を果たしている子ヴィオッティの音楽にも大いに興味があった。
スカルピアの恐怖和音から始まる冒頭部から、ドラマティックで圧のかかったいいい音だった。脱獄してきたアンジェロッティの獣のような声、堂守のユーモラスな歌、カヴァラドッシの「妙なる調和」とトスカの登場…と一幕冒頭だけでも空気がコロコロ変わるが、オーケストラはこの色彩感の変化をいとも自然に、かつ鮮やかに繋げていった。プッチーニは間違いなく映像世代の作曲家で、編集感覚がそれ以前のオペラ作曲家と全く違う。ヴィオッティはプッチーニのモダニティを最大限に浮き彫りにした、立体感のあるサウンドを東フィルから引き出し、オケも最高のリアクションで応えていた。

カヴァラドッシのホルヘ・デ・レオンはやや一本調子な歌手で、この日の調子はどうだったのか分からないが、ナルシスティックにルパートをかけすぎない過ぎない歌唱は好感が持てた。トスカのキャサリン・ネーグルスタッドは美声で歌唱力も高く、外見も美しいソプラノ歌手で、何よりプライドと知性を感じさせた。馬鹿っぽいトスカというのは耐え難い。あの執拗なジェラシーも知的な歌手によって歌われると女の可愛さが浮き彫りになる。絵のモデルとなった女を罵るときの「アッタヴァンティ!」の声も、鋭く怨念がブレンドされていてよかった。
それにしても、一幕でありがたいのは堂守の存在で、志村文彦さんが惚れ惚れするようなエキスパートの演技を見せた。足を引きずって歩く演技は毎回やっていただろうか…記憶が定かではないが、カヴァラドッシが絵筆で堂守の頭をペタペタするのは初めてのような気がする。教会のシーンで、堂守がしっかりしているとオペラにもいい空気が醸し出される。コミカルなだけではなく仄かな悲哀もあり、玄人の演技だった。

スカルピアのクラウディオ・スグーラは長身で見栄えのするバリトンで、2007年にデビューした歌手。豪華なコスチュームをエレガントに着こなし、独特の気迫を振りまいていて魅力的だった。トスカとスカルピアの一幕での関係は微妙で、カヴァラドッシとアッタヴァンティ夫人との浮気を信じて嫉妬の鬼になったトスカは、泣き崩れた後スカルピアの差し出した手を素直にとるのだ。その後にスカルピアがトスカの手にキスをすると、さっと手を引く。スカルピアの動きひとつひとつが優雅で確信に満ちていて、このキャラクターについて色々考えてしまった。

新国トスカの美術は素晴らしく美しい。デラックスな教会の装置が、スカルピアのテ・デウムでさらに華美な背景に転換されるくだりは、目の放埓=オプュレンスの美学そのものだ。全幕転換ありで、あるゆる瞬間にこのプロダクションの豊かさを味わうこととなった。

史実をもとにした残酷なストーリーを嫌う人もいるが、トスカの物語は素晴らしい「型」によって出来ていて、拷問も殺人もレイプ未遂も、すべて美しいものを見せるために仕込まれている。2幕で、別室で拷問されるカヴァラドッシの叫びを聞かせながらトスカに迫るスカルピアの演技はとてもよかった。スカルピアから逃れようとするトスカの動きも、バレエの振付のように厳密な型がある。究極のシチュエーションでありながら、二人の芝居には優美な形があった。スカルピアは心理的にトスカを追い詰めるが、物理的な暴力は一切使わないのだ。

クラウディオ・スグーラのスカルピアは「美しい女も思いのままになればあとは捨てるだけだ」と歌うが、トスカへの執着は特別なものだと思わせた。肉欲ではない…もっとねじれた衝動にとりつかれている。好きな女に不安と恐怖を与え、自分をとことん憎ませて、その上で肉体的に一体化しようとする…拒絶状態にある女と一心同体になることで癒されようとするのは、心理学的に分析するなら幼年期に問題があるからだ。母親から憎まれたか、もっとひどいことがあったからか…オペラではスカルピアの表面的な悪しか描かれない。トスカでなければダメなのは、同じ匂いを感じるからなのだろう。貧しい羊飼いの孤児から華やかな歌姫にのし上がった。トスカと同じ孤独と栄華を知っているのは、カヴァラドッシではなくスカルピアなのだ。
釈明されなかったスカルピアのトラウマを思いながら、トスカに刺されるシーンでは大きな哀しみを感じた。現世ではどうにもならないほどもつれてしまっているのだ。ラストでトスカが叫ぶ「スカルピア、神の御前で!」という言葉がここでも聞こえたような気がした。

3幕のサンタンジェロ城の装置も美しいが、ホルヘ・デ・レオンの「星は光りぬ」はそれほど冴えず、素晴らしいトスカとやや不釣り合いに感じられた。やはり調子があまりよくない日だったのかも知れない。プッチーニの音楽は最後の最後まで美しく、あのカヴァラドッシ処刑の空々しいワルツも個人的には大好きなのだが、天才の閃きというのは尽きることがなく、あの処刑の音楽は、尻尾まで餡の詰まった鯛焼きのようだなと思う。最後の最後まで美味しいのだ。

このアントネッロ・マダウ=ディアツの演出は大時代的でオーソドックスな点が素晴らしく、幕が下りるごとに主役たちがカーテンの前に登場する。二幕のあとで、殺されたばかりのスカルピアが笑顔で登場したときは鳥肌が立った。「あれは全部嘘でした」と両手を広げ、バリトンはダンディな笑顔を振りまいていたが、本当にオペラは最高である。
ヴィオッティは最後まで順調で「トスカ」のリッチなスコアの美点を隈なく照らし、歌手の大げさな歌唱をセーブさせて、均整の取れた建築のような音響の宇宙を完成させていた。プッチーニの音楽の本質は、こうした凝縮された知性であり、甘さやセンチメンタリズムはあくまでアイロニーなのだ。東フィルとはコンサートでも共演するが、このトスカはちょっと奇跡的すぎた。あと3回公演があるので、また観に行きたいと思った。

ヤクブ・フルシャ&バンベルク交響楽団 (6/29)マーラー『交響曲第3番』

2018-07-02 05:57:55 | クラシック音楽
ツアー最終日となったバンベルク交響楽団のサントリーホールでのマーラー『交響曲第3番 ニ短調』を聴いた(6/29)。フルシャは指揮棒なしでこの曲を振り、後ろ姿からは暗譜にも見えたが、小さなスコアを指揮台に置いていたようだった。偶然にも、サントリーホールのほぼ同じ席で、前日に読響と首席客演指揮者のコルネリウス・マイスターによるマーラーの2番『復活』を聴いたばかりだったので、バンベルクのサウンドの特徴がよりはっきりと把握できたような気がする。金管がとても野太く、野趣に溢れているのだが、これはトロンボーン奏者が垢ぬけていないからではなく、指揮者の指示で意図的に鳴らしている音だと思った。
マーラーには、肉体的でどこか即物的な要素が必要…そう考えたのは、マイスターのマーラーがあまりに形而上学的で透明すぎて、サントリーの空間を埋めるほどの質量を持っていなかったからだ。彼はいい指揮者で何かのきっかけで大化けするタイプだと思うが、読響とのマーラーには力の要素が欠けていた。力と美が手を組まなければ、オーケストラは充分に鳴らないのかも知れない。
フルシャの3番は強靭だった。マーラーは長大な3番で天地創造を描こうとしたと言われているが、自然界を描いているようで自分の内面を描いているのだと思った。1楽章は激越なカオス感に溢れていて、今まであまりそう感じたことはなかったのだが、危険な狂気を醸し出していた。「夏の行進」「バッカスの饗宴」とマーラー自身に形容された楽章だが、フルシャの解釈は決して穏やかなものではなかった。生真面目なバンベルクのサウンドが、哲学的苦悩に悶え、反転したり捻じれたりするマーラー独特の時間感覚をハードに表現した。指揮者のテンポ設計は緻密で、「前に進めない」停滞感と、急にヒステリックに激昂する爆発感を交互に組み合わせ、一人の「人格」がその性格の牢獄の中で苦しんでいるかのような描写をした。作曲にとりかかった1895年の2月に、14歳年下の弟オット―がピストル自殺をしている。それより小さな弟たちは、マーラーが世話をして看取ったのだ。フルシャがスコアから読み取った不条理と狂気は間違いがなかったと思う。

この1楽章は非常に濃厚で時間も長いので、聴く側にも相応の体力が求められた。初っ端からスピードを出して長距離マラソンを走るようなものだ。2楽章のメヌエットが始まる前に合唱とソリストが入場したが、もうチェロ奏者がそわそわと笑顔になってこの楽章が始まるのを楽しみにしているのが伝わってきた。10分とかからない長さだが、私自身も大好きな楽章でいつも「終わらないでずっと聴いていたい」と思う。フルシャはだいぶ速いテンポを採用し、ほのぼのとした野の花を思い出すこの楽章が、ジゼルの狂乱の場を思わせるものになった。くるくると拍子が変わり、花々が風になぎ倒されて斜めになっているようなイメージのところも、フルシャは人間の狂気と結び付けていたようだった。1楽章が男性の狂気だとすると、2楽章は女性の狂気に思えてならなかった。「ルチア」の狂乱シーンも思い出された。それでいて官能的で魅力的な旋律が薫るように噴き出すので、件のチェロ奏者たちは恍惚の表情でこれを演奏していた。

7番『夜の歌』を思わせる3楽章の動物たちの音楽は、マーラーの奇想がパノラマのように展開し、各パートが擬態の職人芸を見せた。フルシャはとても丁寧に音楽を作っていて、全パートに細やかな「演出」を行っていたようだった。マーラー3番のような曲は、信頼関係と充分な準備の時間がなければ完成しないのかも知れない。4楽章でニーチェの詩編を歌ったメゾソプラノのステファニー・イラーニは見たところまだ若く、とても緊張していたようで、あの音数の少なさで表現しなければならない歌手の方も大変だろう。普段の自分の豊かさを、何とかここで出そうと真剣に取り組んでいたのが感じられた。この楽章ではもっと熟した重めの声が欲しいとも思ったが、5楽章での少年少女合唱との歌はよく声が通っていた。若いうちにマーラー3番に乗ることが出来るのは、幸運なことなのだ。フルシャもソリストに感謝しながら振っている様子で、好感の持てる演奏だった。

6楽章の眠るような天国のような壮大な音楽は、本当に愛の音楽だった。ジョン・ノイマイヤーがマーラー3番の全楽章に振り付けたバレエの中でも、この6楽章は本当に美しく生命の本質を訴えてくる。この日のフルシャが1楽章から聴かせてくれた世界観の中で、6楽章へとたどり着いたときの感動は凄まじかった。1楽章で「個」の牢獄に閉じ込められて苦悩する魂が、ここでようやく自分と言う呪縛から解き放たれ、他者の愛の中に精神を溶かし込む…すると静寂と安らぎが訪れ、生まれ変わったような時間を生きることが可能になるのだ。それでも、この楽章にも既に永遠の時間への疑惑が描かれていて、すべてが無になるような残酷な予兆がやってくる。マーラーは自分の人生においても預言者であった。
バンベルク響の献身は素晴らしく、1時間45分の中でフルシャが背負ったマーラーの苦悩と救済を克明に生きたサウンドにしてみせた。これこそがオーケストラの本質なのではないか…素晴らしいボディのある音楽で、心臓部にはしっかりと指揮者がいた。
普段はあまりバックステージを訪れない私だが、矢も楯もたまらずこの日はフルシャに挨拶に行った。大勢の人々が祝福に詰めかける中、フルシャの顔が神々しく見えた。巨大な愛の音楽を溢れたさせた青年の顔は、本当に美しかったのである。











東京バレエ団 ブルメイステル版『白鳥の湖』(6/30)

2018-07-01 22:56:18 | バレエ
2年4か月ぶりの再演となる東京バレエ団のブルメイステル版『白鳥の湖』を東京文化会館で見た。トリプル・キャストの中日で、オデット/オディールは川島麻実子さん、ジークフリート王子は秋元康臣さんが踊られた(6/30)。
ブルメイステルは1904年にサンクトペテルブルク近郊に生まれた振付家で、最初ダンサーを目指すがバレエに目覚めたのが遅かったため、バレエのドラマを創造する振付家に転向した人物。1953年にモスクワ音楽劇場で初演されたこの版は、演劇的に優れた要素がふんだんに詰まっていて、よく知っているつもりの『白鳥』が改めて新鮮な物語に思える。人間の姫であったオデットが白鳥に変えられるプロローグから、王子たちの宮殿のシーンに移り変わる転換では舞台のあまりの美しさに息を呑んだ。バルビゾン派の風景画のような美術は装置担当の野村真紀氏によるもので、秋の美しい一日を思わせる。そこで王子が友人たちと踊る踊りが、とても哀しげな色合いを帯びていた。王妃は美しく高貴だが、王子に対しては冷たく、王子は叶わない恋人を慕うように母親の背中を追いかける。秋元康臣さんのジークフリートは抒情的で気品に溢れ、勇壮なジュテ・アントルラセもこの「哀しみ」の和声感に素晴らしく収まっていた。よく見ると、この場面では全員が寂しそうな表情をしている。パ・ド・カトルの男性のひとり鳥海創さんの表情を見ているだけで涙が溢れてきそうになった。全員がひとつのハーモニーを作っているような一幕だった。

二幕で森に誘われて行く場面では、ジークフリートは侍従も家庭教師もともなわずに一人で闇の世界へ踏み込んでいく。ああ、そうなのか…とブルメイステルの意図を理解した。白鳥の湖とは王子の心象風景でもあり、彼は深い孤独の中でたった一人の分身と出会うために森に入る。侍従との子供っぽいやりとりはすべて省略され、一気にことの本質へと突き進んでいく。オデットを見てジークフリートはひとめで相手が何を象徴しているのかわかってしまうのだ。彼は孤独な自分自身を見つけた。
一週間前にマリインスキー歌劇でオクサナ・スクーリクに取材したとき「オデットは寂しくて何かを探している女性」という言葉を聞き、軽いショックを受けたのだが、それは本当のことで、王子も白鳥も「寂しい」のだ。白鳥のコールド・バレエの哀調は、一幕での王子の家臣たちの踊りとどこか共通するものがあった。高貴な人の満たされない思いに同情して「どうか彼(彼女)が癒されますように」という願いを込めて祈っているのである。
四羽の白鳥も普通なら少しばかりコミカルな雰囲気だが、ここでは身体つきも美しい四人がメランコリーを帯びた群舞を見せる。
東京バレエ団の白鳥群舞は世界遺産だと、決して誇張ではなく昔から思っていたが、ブルメイステル版では本当に一糸乱れず、奇跡のように対称的な配置によってバレリーナたちが舞台に咲き誇る。オデットの川島麻実子さんは5月のバランシン『セレナーデ』でも、エアリーで名付け難い女性性を表現したが、オデットの幽玄美も素晴らしい。未知数のバレリーナだが、秋元さんとの相性では川島さんの中の厳しさや節度といったものがよく現れると思った。

三幕は、悪魔ロットバルトがエキゾチックな客人たちすべてを操って王子を陥れるという設定で、悪魔役の森川茉央さんが登場の瞬間から素晴らしいカリスマ性を発揮した。ダークなキャラクターを演じることが多い森川さんだが、魅惑的で支配的なロットバルトを心から楽しんで演じられているのが分かった。あらゆる瞬間が見逃せなかった。ここでのコールド・バレエは、一幕二幕と全く目つきが違うのだ。虎視眈々と王子が陥落するのを待ち、策略にとり憑かれている。スペインの伝田陽美さんが妖艶で溌溂としたソロを踊られた。
オディールに変身した川島さんは全身から電気のようなオーラを発していて、核心を掴んでいる演技だった。テクニカルな要素も、すべて演劇的な内容と結びついているので「本当に彼女はオディールのような悪女なのかも知れない…」と一瞬思ってしまった。チャイコフスキーが初演で書いた珍しい旋律が使われるのだが、ミステリアスで不穏なムードの黒いヒロインにはぴったりの音楽だった。グランフェッテも安定感があり、前後の流れの中で全く浮いていない。あそこだけお祭り状態になるのは、チャイコフスキーには気の毒なのだ。
王子がオディールに陥落する場面では、「本当に白鳥と黒鳥を間違えたのか?」という永遠の議論が巻き起こるが、ブルメイステル版では「間違えたのではなく、誘惑された」という解釈に感じられた。オデットとの出会いで自分の虚無感の正体を知ってしまったジークフリートは、心乱れて一秒たりとも落ち着いていられない。刺激的で支配的なものに身を委ね、正気を失いたかったのではないか…ロットバルトとは、そういう人間の心の弱さに取り憑く魔の象徴なのではないか…。秋元さんの純粋な王子の演技からそんなことを考えていた。

四幕の前にも休憩があり、コンパクトな最終幕では王子の愛が報われオデットは人間の姫に戻る。白鳥コールドはここでも素晴らしい。悲劇的結末となるドラマトゥルグも存在するが、白鳥にはハッピーエンドが相応しいように思えた。主役二人をはじめ、アダージオの吉川留衣さん、ナポリ金子仁美さん、道化の池本祥真さんも生き生きと輝いていた。池本さんは先日のアシュトン『真夏の夜の夢』で秋元さんがオベロンを演じた日にパックを踊ったダンサーで、空気の精のような軽やかさと天性のエスプリを感じさせる。ワレリー・オブジャニコフと東京シティ・フィルは一幕二幕ではレース編みのような繊細な音楽を聴かせ、三幕ではロシアの大自然の荒々しさをダイナミックに表わした。舞台に漂っていた優美な「寂しさ」は、チャイコフスキーの魂そのものではなかったか…ちょうど一週間前に作曲家の墓参りをしたばかりだったので、音楽がいつも以上に心に染みる上演だった。

(画像は東京バレエ団のTwitterより。6/30のカーテンコール)