雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

2011年05月31日 | ポエム



 蚊

 僕の足は、図書室に向かう。
 高校の土曜日の放課後は、自由で開放的だ。
すぐに家に帰る者。街へ出る者。昼食をとり、いつもより長いクラブ活動を楽しむ者。そして図書室で読書や勉強をする者。
 僕は、ある希望とためらいを同時に持って、今、その図書室の扉を開ける。
 図書室は、木に囲まれた大きな一戸建てで、入り口近くにカウンターとロッカーがあり、片方の壁にずっと奥まで本が並んでいて、その反対側は、一面窓になっている。
 その窓から見えるグランドでは、野球部員が強い日差しの中で、走り回っている姿が小さく見え、さかんに出し合っている声がのんびりと聞こえてくる。
 図書室には十数人が使用できる素朴だが、大きく重厚な木の机が二十ほどあり、それぞれに背もたれ付きの椅子がついている。
 五月のはじめにしては、蒸し暑く、試験前でもないせいか、十数人の生徒が、まばらに席をとっているだけで、広い図書室はがらんとしている。
 室内の照明は消してあったが、大きな窓から差し込む、白いグランドの照り返しが、部屋の中を十分に明るくしている。
 その窓側と反対側の、やや薄暗い机に、僕は期待していたお前の後ろ姿を見つけた。
 ドキンと一つ、胸が高鳴った。
 近づくとお前は、教科書とノートを開き、一人黙々と勉強をしている様子だった。
 僕は、お前の座っている机の向き合った席の椅子を、音がしないように持ち上げると、お前と向き合い、黙って腰掛けた。二人の間隔は、手を伸ばし合って、届くか届かない位あった。想像していた通り、お前の方も顔も動かない位、徹底して僕を無視した。
 僕は、古典の教科書とノートを開き、古語辞典も鞄から出して、布の筆箱のチャックを開き、鉛筆を一本にぎって、勉強する体制をとったものの、そのまましばらくぼんやりしていた。
 もともと勉強する気は、あまりなかったのだ。
 お前の走らせる鉛筆の音を、音楽のように、快く聞いていた。
 僕は、手持ち無沙汰と暑さをごまかすために、学生服を脱ぎ、背もたれにかけると、白いワイシャツを肘のところまで、まくった。
 と、足の甲の部分が痒くなりだした。靴下を履いていたが、蚊に刺されたらしかった。だとしたら、今年初めて蚊に刺されたと思った。
靴下の上から足の甲を掻きながら
「蚊がいるね」
僕は突然、お前に声をかけた。
「いませんよ」
お前はやはり僕がいるのを知っていたらしく、驚いた様子も無く、目だけで一瞬僕を見て応えた。
「いるよ」
「いませんよ」
と、二三度繰り返し、二人はそのまま再び黙ってしまった。
 僕は、別に腹が立った訳でもなく、お前とやり取りが出来たことがうれしかった。
コツコツという、お前のたてる快い鉛筆の響きに誘われるように、教科書を読み出し、いつの間にか、古典の予習に熱中してしまった。
 お前が目の前にいること。話そうと思えば、すぐ話が出来ること。そしてお前の側で、お前と同じことをやっていることが、とても安心で、平和で、幸福な心持ちがした。
 そうして、さらにお前がそこにいることも意識しないほど、集中していたとき
「いますね」
とだけ、お前は言った。

(1975.6.10)
コメント
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