風は
風は灰色の雲を吹き飛ばして
青空を作った
風は青空に浮かぶ
白い雲を流した
庭の木の葉が揺れているのも
何処かで風鈴がなっているのも‥‥
僕は知らなかった
風は
すべての時を流していると
(1972)
羽化
前回、今年はクマゼミの数が少ないようだと書きましたが、なんのなんの。
その数日後には、テレビの音をかき消すような圧倒的な声に。ちょっと遅れていたんですね。
毎日毎日、毎日毎日。遊ぶことばかり考えていた少年の日々。夏は、四季の中で一番多忙だった。遊び相手の虫や魚が多かったのだ。麦わら帽子に虫取り網、そして虫かごをかけて、田んぼや裏山を駆け回った。そうして暗くなってしまうか、お腹がすいて我慢できなくなるか、「ごはんよー」という父の声を聞いて帰宅する。ああ、なんて幸せな日々。チョウにトンボ、セミ。メダカにフナ。
我が家の青桐の木には、常にたくさんのクマゼミが集まっていた。セミは狩りとしてのドキドキ感に乏しい。木の幹に点々ととまって樹液を吸っているセミは、素手で、そしていとも簡単に捕まえることが出来た。
やはり我が少年の日々は、セミの数も多かったのか、ある日ジャングルのように緑の濃い裏山を、茂った下草をかき分け乍ら進んでいると、突然土が濡れた場所に出た。不思議に思って、顔をあげ、その場に立っていた一本の木の幹を見て、さすがの私も鳥肌がたった。今でもセミのことを思うと、その映像が浮かぶ。それほど太くなかった木の幹には、その木肌か見えないほどにクマゼミが隙間なくとまっていたのだ。何百という数のセミが声も無く、樹液を吸い乍ら、水鉄砲のように、ピー、ピーとオシッコをしている。地面は大量のセミのオシッコで濡れていたのだ。
何年間も地中にいて、羽化したら数週間しか生きられないということを知っていたせいか、捕まえたセミは、すぐに逃がしていた。それに捕まえたセミがオスのクマゼミならば、断末魔のような声があまりに大きくて閉口するのでした。メスならば、祖母のお針箱から糸を失敬し、胴体に結び、2メートルくらいの糸の端を持って、飛ばして遊んだりもした。もちろん、ちょっと遊んだ後、糸を切って放した。しかし、地上でのわずかな日々を過ごしたセミは、力つきて死んでしまう。照り返しの中で、蟻がその大きな獲物を分解していく。中には、まだ生きながら、蟻にとらわれ、力なく声を出しているセミもいた。
セミで一番興奮するのは、羽化する直前の幼虫を手に入れたときだ。ずっしりと身の詰まった幼虫をカゴに入れて、夜中に羽化する様子を観察する。何がいけないのか、カゴの中でそのまま羽化せずに死んでしまう幼虫もいた。羽化の途中で何かに引っかかってしまったのか、いびつな羽のまま、飛べない成虫になることもある。羽化の途中でつい手を出してしまい、そこで羽化が止まり死ぬ幼虫もいた。
しかし、無事に羽化したすぐのクマゼミの美しさは、子どもながらに感動した。羽化したすぐの白い身体に、透明感のあるエメラルドグリーンが透けて見え、やがて粉を吹くように黄金色が身体のあちこちに輝き出す。その刻々と色の変化する一瞬の美しさ。死と隣り合わせの儚さ。
少年の私は、セミの羽化で何冊の本にも勝ることを学んだのかもしれない。
もし、セミの羽化を見たいなら、公園などで、セミが集まる、その根元にセミが地中から抜け出した穴がいっぱいある木を見つける。
一旦、セミの抜け穴をすべて塞ぐ。
そして夕方、新たな抜け穴を見つけたときに、その側に地中からはい出した幼虫が見つかります。これも少年の知恵です。
暗くならないと羽化しないので、暗くして観察してください。無事羽化した成虫は、もちろん外に放してくださいね。たのまなくても、羽化を見たら、そうしたくなるとは思いますが。
(2011.8.1)
風は灰色の雲を吹き飛ばして
青空を作った
風は青空に浮かぶ
白い雲を流した
庭の木の葉が揺れているのも
何処かで風鈴がなっているのも‥‥
僕は知らなかった
風は
すべての時を流していると
(1972)
羽化
前回、今年はクマゼミの数が少ないようだと書きましたが、なんのなんの。
その数日後には、テレビの音をかき消すような圧倒的な声に。ちょっと遅れていたんですね。
毎日毎日、毎日毎日。遊ぶことばかり考えていた少年の日々。夏は、四季の中で一番多忙だった。遊び相手の虫や魚が多かったのだ。麦わら帽子に虫取り網、そして虫かごをかけて、田んぼや裏山を駆け回った。そうして暗くなってしまうか、お腹がすいて我慢できなくなるか、「ごはんよー」という父の声を聞いて帰宅する。ああ、なんて幸せな日々。チョウにトンボ、セミ。メダカにフナ。
我が家の青桐の木には、常にたくさんのクマゼミが集まっていた。セミは狩りとしてのドキドキ感に乏しい。木の幹に点々ととまって樹液を吸っているセミは、素手で、そしていとも簡単に捕まえることが出来た。
やはり我が少年の日々は、セミの数も多かったのか、ある日ジャングルのように緑の濃い裏山を、茂った下草をかき分け乍ら進んでいると、突然土が濡れた場所に出た。不思議に思って、顔をあげ、その場に立っていた一本の木の幹を見て、さすがの私も鳥肌がたった。今でもセミのことを思うと、その映像が浮かぶ。それほど太くなかった木の幹には、その木肌か見えないほどにクマゼミが隙間なくとまっていたのだ。何百という数のセミが声も無く、樹液を吸い乍ら、水鉄砲のように、ピー、ピーとオシッコをしている。地面は大量のセミのオシッコで濡れていたのだ。
何年間も地中にいて、羽化したら数週間しか生きられないということを知っていたせいか、捕まえたセミは、すぐに逃がしていた。それに捕まえたセミがオスのクマゼミならば、断末魔のような声があまりに大きくて閉口するのでした。メスならば、祖母のお針箱から糸を失敬し、胴体に結び、2メートルくらいの糸の端を持って、飛ばして遊んだりもした。もちろん、ちょっと遊んだ後、糸を切って放した。しかし、地上でのわずかな日々を過ごしたセミは、力つきて死んでしまう。照り返しの中で、蟻がその大きな獲物を分解していく。中には、まだ生きながら、蟻にとらわれ、力なく声を出しているセミもいた。
セミで一番興奮するのは、羽化する直前の幼虫を手に入れたときだ。ずっしりと身の詰まった幼虫をカゴに入れて、夜中に羽化する様子を観察する。何がいけないのか、カゴの中でそのまま羽化せずに死んでしまう幼虫もいた。羽化の途中で何かに引っかかってしまったのか、いびつな羽のまま、飛べない成虫になることもある。羽化の途中でつい手を出してしまい、そこで羽化が止まり死ぬ幼虫もいた。
しかし、無事に羽化したすぐのクマゼミの美しさは、子どもながらに感動した。羽化したすぐの白い身体に、透明感のあるエメラルドグリーンが透けて見え、やがて粉を吹くように黄金色が身体のあちこちに輝き出す。その刻々と色の変化する一瞬の美しさ。死と隣り合わせの儚さ。
少年の私は、セミの羽化で何冊の本にも勝ることを学んだのかもしれない。
もし、セミの羽化を見たいなら、公園などで、セミが集まる、その根元にセミが地中から抜け出した穴がいっぱいある木を見つける。
一旦、セミの抜け穴をすべて塞ぐ。
そして夕方、新たな抜け穴を見つけたときに、その側に地中からはい出した幼虫が見つかります。これも少年の知恵です。
暗くならないと羽化しないので、暗くして観察してください。無事羽化した成虫は、もちろん外に放してくださいね。たのまなくても、羽化を見たら、そうしたくなるとは思いますが。
(2011.8.1)