死のうと思った65分間
父が亡くなり、実家にある仏壇に手を合わせ、ほぼ毎日線香をあげるようになった。
誰も見ていないし、頼まれた訳ではない。ほんの数分の時間だが、一日の中ではいい時間だと感じている。
ご先祖さまに父方・母方、両方の祖父、祖母、父、義父、おじおば、近しい親戚、そして友人(今日の詩「天国への階段」と去年発表した「蝸牛』を捧げた友人も含めて)。小さい頃、仏壇の内側にいる人は会ったことのない人ばかりだったけど、だんだん知り合いが増えてきた。最初は毎日お茶とご飯をあげていたけれど、今はお米を炊いたときだけ、炊きたてのご飯をお供えする。僕の常食は、白いご飯ではなく、半分は麦の雑穀ご飯なので、ご先祖様は「白いご飯が食べたい」と思っているかもしれない。タケノコ、そら豆、グリーンピース、トウモロコシ、おもち、ぜんざい。他のご先祖様の好みは知らないので、父が旬や初物や歳時の食べ物の中で、喜んで食べていた好物を、その季節や期日がくると、買い物をする店先で思い出して、料理して(あるいは家人に頼んで料理してもらい)お供えしている。別の病気で入院中の病院で、脳梗塞になる数時間前に飲みたいと言ったというビールは、瓶ビールを開けたときにコップに1杯お供えする。それらのお供えはもちろん、その後ほとんどは現実には僕のお腹の中に入っている。
人間誰しも3日後には、白い骨になってしまうかもしれない、と言われることが現実味を帯びるようになった。だからと言って、もう自分の人生の終末が近いとは思っていない。そりゃあ二十歳の頃に較べたら、死は間違いなく近づいていることを感じるけど、まだまだやりたいことがいっぱいあるし、人生元気で楽しみたい。
今までで一番、死に近かったのは、高校生の時代だろう。一学年下のガールフレンドの影響で、死の世界にあこがれてしまった。純粋、純潔、無垢、白、無。それらが僕らの中で、死の世界とイコールになった。生きて行くことは、自分の中の白い世界がどんどん汚れて行くことだと。
現実には、僕は精神も肉体もめちゃくちゃ健康だった。
朝昼晩の3食では足りず、昼休みが待てず早弁を食べ、放課後にはパンやラーメンを部室で食べていた。大好きなカレーの夕食は、大盛り3杯でやっと満足した。可愛い女の子がいればドキドキしたし、雑誌のヌード写真も当然興味深かった。
そんなふうに、どうしようもなく汚れて行く自分を自覚する一方で、僕とガールフレンドの白い死の世界へのあこがれは益々強くなって行く。
高校2年のある日の休み時間に、トイレに行くと、自殺した女生徒に関する男子生徒の会話が僕の耳に入った来た。瞬間、僕はそのガールフレンドの話に違いないと思った。彼女の死の世界へのあこがれが、自殺願望へとあきらかに変わってきたことを、数日前に僕は感じたばかりだった。
次の授業は、世界史だった。生徒と教師のやりとりはほとんどなく、教師が一方的に教科書にそった講義をするだけのつまらない授業。教科書を楯に、文庫本を読んだり、居眠りをする生徒も多かった。その日の世界史の65分間の授業で、僕は自分も後追い自殺をすることを決心し、段取りを考えた。彼女が死んでしまった悲しさと祖母や両親の顔が浮かんできて、涙がぽろぽろと流れ落ちて来ることを止めることが出来なかった。生徒に干渉しない先生の授業で幸いだった。自死の方法と場所も決まった。まずは、次の休み時間に図書室に走り、トイレの会話で記事が出ていたという新聞を見ることにした。
震える手で新聞を開くと、数行の小さな記事は、大学1年の女学生の自殺のことだった。
もしそれが、ガールフレンドの死を示す記事だったら、それから僕はどうしたんだろう。本当に、実行したんだろうか。
それが今までで一番、死に近づいた65分間のお話。
(2012.1.27)