雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

死のうと思った65分間

2011年12月19日 | ポエム


 死のうと思った65分間


 父が亡くなり、実家にある仏壇に手を合わせ、ほぼ毎日線香をあげるようになった。
 誰も見ていないし、頼まれた訳ではない。ほんの数分の時間だが、一日の中ではいい時間だと感じている。
 ご先祖さまに父方・母方、両方の祖父、祖母、父、義父、おじおば、近しい親戚、そして友人(今日の詩「天国への階段」と去年発表した「蝸牛』を捧げた友人も含めて)。小さい頃、仏壇の内側にいる人は会ったことのない人ばかりだったけど、だんだん知り合いが増えてきた。最初は毎日お茶とご飯をあげていたけれど、今はお米を炊いたときだけ、炊きたてのご飯をお供えする。僕の常食は、白いご飯ではなく、半分は麦の雑穀ご飯なので、ご先祖様は「白いご飯が食べたい」と思っているかもしれない。タケノコ、そら豆、グリーンピース、トウモロコシ、おもち、ぜんざい。他のご先祖様の好みは知らないので、父が旬や初物や歳時の食べ物の中で、喜んで食べていた好物を、その季節や期日がくると、買い物をする店先で思い出して、料理して(あるいは家人に頼んで料理してもらい)お供えしている。別の病気で入院中の病院で、脳梗塞になる数時間前に飲みたいと言ったというビールは、瓶ビールを開けたときにコップに1杯お供えする。それらのお供えはもちろん、その後ほとんどは現実には僕のお腹の中に入っている。
 人間誰しも3日後には、白い骨になってしまうかもしれない、と言われることが現実味を帯びるようになった。だからと言って、もう自分の人生の終末が近いとは思っていない。そりゃあ二十歳の頃に較べたら、死は間違いなく近づいていることを感じるけど、まだまだやりたいことがいっぱいあるし、人生元気で楽しみたい。
 今までで一番、死に近かったのは、高校生の時代だろう。一学年下のガールフレンドの影響で、死の世界にあこがれてしまった。純粋、純潔、無垢、白、無。それらが僕らの中で、死の世界とイコールになった。生きて行くことは、自分の中の白い世界がどんどん汚れて行くことだと。
 現実には、僕は精神も肉体もめちゃくちゃ健康だった。
 朝昼晩の3食では足りず、昼休みが待てず早弁を食べ、放課後にはパンやラーメンを部室で食べていた。大好きなカレーの夕食は、大盛り3杯でやっと満足した。可愛い女の子がいればドキドキしたし、雑誌のヌード写真も当然興味深かった。
 そんなふうに、どうしようもなく汚れて行く自分を自覚する一方で、僕とガールフレンドの白い死の世界へのあこがれは益々強くなって行く。
 高校2年のある日の休み時間に、トイレに行くと、自殺した女生徒に関する男子生徒の会話が僕の耳に入った来た。瞬間、僕はそのガールフレンドの話に違いないと思った。彼女の死の世界へのあこがれが、自殺願望へとあきらかに変わってきたことを、数日前に僕は感じたばかりだった。
 次の授業は、世界史だった。生徒と教師のやりとりはほとんどなく、教師が一方的に教科書にそった講義をするだけのつまらない授業。教科書を楯に、文庫本を読んだり、居眠りをする生徒も多かった。その日の世界史の65分間の授業で、僕は自分も後追い自殺をすることを決心し、段取りを考えた。彼女が死んでしまった悲しさと祖母や両親の顔が浮かんできて、涙がぽろぽろと流れ落ちて来ることを止めることが出来なかった。生徒に干渉しない先生の授業で幸いだった。自死の方法と場所も決まった。まずは、次の休み時間に図書室に走り、トイレの会話で記事が出ていたという新聞を見ることにした。
 震える手で新聞を開くと、数行の小さな記事は、大学1年の女学生の自殺のことだった。
 もしそれが、ガールフレンドの死を示す記事だったら、それから僕はどうしたんだろう。本当に、実行したんだろうか。
 それが今までで一番、死に近づいた65分間のお話。
(2012.1.27)
 
 
 













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年賀状と私

2011年12月19日 | ポエム



 年賀状と私

 今年の年賀状は、父の喪中だったので出していない。
 2年ぶりの年賀状を今、書いている。
 年賀はがきが売り出されたニュースを見て、「今年こそは、早めに書き始めて投函するもんね」と、毎年思う。
 「去年までのワタクシとは違うのよ」などと当初はうそぶいているが、結局、年賀状の受付が開始されました、というニュースを見て、そろそろ書かないとヤバいな書き始める今日この頃。
 いつになったら1枚1枚に心を込めて受付開始日には投函出来る様な、余裕のある人生になるんでしょうか?生涯無理の様な気もします。余裕のせいではなく、ワタクシ自身の性格の問題です。
 私の友人に、年賀状の投函が大晦日までに終わらず、年賀状を書き乍ら年を越し、元日の早朝に1件1件知り合いの家の郵便受けに、こっそり配達して回るという人がいた。家を知らない人や、県外の人宛の年賀状はどうしているのか、疑問に思ったが詳細は聞かなかった。私の場合、何とか元日配達の締め切り日には書き終えているので、そこまではヒドくない。
 私の年賀状は、シリーズになっていて、現在は干支と我が家の愛犬をからめた絵柄に干支にちなんだ言葉を添えている。未年から始まり、今年は欠番となったが10年目である。干支と犬をどう絡めるか、1年間、頭が空いた時間にアイデアをひねる。例えば、申年にはサルと肩を寄せ合った愛犬の図柄に「犬猿の仲良し」という言葉。亥年には、走る猪と愛犬の図柄に「ちょっと猛進」。寅年は食い意地の張った愛犬の顔に「寅の胃を借る」と、いう具合。作り上げたばかりの来年の辰年の年賀状は、秘密です。
 かなりアイデアに苦しんだ年もあれば、数年前からデザインまでほとんど決まっていたものもある。今年は、アイデアが浮かばずに困ってしまい、イマイチの出来だ。いろんな年賀状があるが、元日から「クス」っと、笑っていただけるような年賀状を目指している。
 10年前までの12年間(つまり十二支をひとまわり)した前シリーズは、私と二人の子どもの合作だった。
 絵を描くことが好きな長女が干支のイラストを描き、長男には西暦とA HAPPY NEW YEAR!の文字を書いてもらう。落書きのような、たくさんの絵と文字の中から私が選んで、絵と文字をレイアウトしたものだ。単にそれだけだが、これは今見ても楽しい年賀状になった。私のパリ時代に知り合った佐賀県の有田の磁器会社の作家で重役の方と毎年年賀状を交わしている。世界中の著名な方とお知り合いで、陶芸作家を含め、芸術家の方々からそれこそたくさんの年賀状をもらわれる方に届いた年賀状ベスト10に、我が家の年賀状は常連だったようだ。その方の年賀状も額に入れたい程素敵です。
 父からの最後の年賀状は、平成20年のものだ。いつも父が毛筆で手書きしたものを私が簡易印刷機で250枚程印刷していた。
 「まだまだ元気で頑張るつもりだ‥‥」と手書きで書き加えられている。その年の秋に脳梗塞で倒れた。年が明けたらすぐ、父の3回忌となる。(2011.12.21)
 
 


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