雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

だんだん捜し物が大きくなる

2014年10月07日 | エッセイ
 だんだん捜し物が大きくなる


 私の父は生前、よく捜し物をしていた。
 よくというより毎日のように何かをゴソゴソと捜していた。
 父はまたバッグというものを大きなものから小さなものまで数多く持っていて、自分なりにそれぞれのバッグの用途を決めていたらしい。
 銀行の通帳やクレジットカードなどを入れるセカンドバッグ。
 健康保険証や老人手帳、診察券などを入れるセカンドバッグ。
 火災保険や生命保険の保険証券などの入った薄いバッグ。
 多くはなかったが株関係の株券や書類の入ったバッグ。
 そしてそれらをひとまとめに入れた大きめのショルダーバッグを何処に行くにも持ち歩いていた。結構な重さがあったように記憶している。大事なものだから持ち歩いていたかもしれないが、晩年はその大事なバッグを何処かに忘れたりした。幸い大事には至らなかったが回りはけっこうハラハラしていた。
 そして何処に行っても、そのバッグの中を開けたり閉めたりと、ゴソゴソしている姿をよく見かけた。何しろ大きなバッグの中にはセカンドバッグが数個、そしてそのセカンドバッグの中にも札入れのようなものやガマ口のような小さな入れ物が入っていた。
 どのバックに何が入っているのかは、父が把握しているのだろうが、案の定、入っているはずのものが本来の入れ物に入っておらず、「おかしいなあ」と首を傾げながらゴソゴソと捜し続けているのだ。
 この頃、その父のくせを受け継いだのか歳のせいなのか、私もよく捜し物をするようになった。
 もともと後始末が出来ていない。例えば使った道具を元の場所に戻さないし、そもそもこれこれの道具はここに置くという整理整頓が小さい頃から苦手なのだ。結婚してからそのことを家人から注意され続けた。道具を使ったら元の位置に戻す。確かに少し面倒だが後片付けをしておけば、次の機会にその道具を捜す手間よりはるかに後片付けの手間の方が楽である。そのことだけは最近やっとできるようになったと本人は自らの成長を自負している。
 ある月曜日の朝、出勤しようとしたら、免許証やクレジットカードの入った財布がどんなに捜しても見つからない。最後にその財布を使った記憶があるのは、前日の日曜日に立ち寄ったコンビニだ。そこで落としたに違いないと住所とコンビニ名で電話番号を調べ連絡してみたが財布の落とし物はないとのこと。とうとうあきらめて近くの交番に行き、落とし物の届けを出した。それからクレジットカードの会社に使用停止の連絡をし、免許センターに出かけて自動車免許証の再交付をしてもらった。自分の不注意で全くの時間とお金の無駄遣いになってしまった。それからは、家を出る時と勤務先を出る時、どこかへ移動する時は財布を必ず確認するようになった。
 そのクセがついたことは良かったのだが、後日、タンスの裏の隙間から落としたと思った財布が出てきた。そしてまた物を捜す時の捜し方が悪いと散々家人の非難を受けたのであった。確かに私の欠点のひとつに、「捜し物が下手」ということがある。「あなたは物をどかさずさっと見るだけで捜していない」と指摘される。全く事実その通りだから反論できない。
 以前は車のカギを捜していた。が、それは家人の教えに従い、カギの置き場所を決めてからはほとんど無くなった。それでも先日は一人で使っている実家の玄関のカギが見つからなくなった。翌日になって玄関のカギ穴に差し込まれたままだったのには自分でも驚いた。
 さらに先日は、台所の流しの生ゴミを入れる三角コーナーが無くなってしまった。コーナーに被せて使っていた袋といっしょにゴミ出しの時にくっついてゴミ出ししたに違いない。
 「だんだん捜し物が大きくなっているね」と笑って家人に話したら、「注意しないと気がついたら私も無くなっているかもよ」と言われた。(2014.10.7)
コメント
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