《2016年11月5日》
衆議院の特別委員会でTPP関連法案を強行採決したというニュースをネットで知って、それから家を出たのだが、自公政権ならやるだろうと思っていたので特に気分が昂ったりはしない。安倍政権になってからこの類の憤りは日常的なバックグラウンドになってしまっている。国会で極右政権に絶対多数を与えるということの意味を痛切に感じる日々なのだ。
集団的自衛権も原発も秘密保護法もTPPも国民アンケートでは政府方針への反対が多数を占めることが多い。しかし、強行採決があっても国民の多数派は沸騰しない。そればかりか、公共施設でそのような問題についての集まりを開こうとすると「中立性」が保てないという自治体の判断で施設の使用が拒否されるケースが多くなった。政治的中立性に名を借りた「政治的判断」が押し付けられるのだ。
安倍極右政権の意に添うように忖度する自治体役人の振舞い(判断)は、それ自体ですでに中立性を大胆に踏み破って、政治的にははっきりと右翼であることを自ら明かしているのだ。たぶん、彼らは無自覚のまま「中立幻想」に陥っているのである。
今、ジョルジョ・アガンベンの『スタシス――政治的パラダイムとしての内戦』という恐ろしげなタイトルの本を読み始めたのだが、そこに古代ギリシア民主制においては「中立」は存在しえないという意味のことが書かれていた。
ある都市国家において内戦(二派にわかれた政治闘争と考えればよいかもしれない)が起きたとき、どちらにも属さず「中立」を保った市民はギリシア法によってどう扱われるか。プルタルコスやキケロなどが論じ、さらにはアリストテレスが次のように述べたという〈処分〉は、(私には)驚くべきことだった。
「都市が内戦状態[stasiazousēs tēs poleōs]にあるときに、両派のいずれのためにも武器を取らない[thētai ta hopla、文字通りには「盾を置かない」]者は汚名を着せられ[atimonn einai〔アティミアを課され〕]、政治から排除される。」[1]
つまり、中立を保った者はポリス(都市国家)の民主制の根幹である市民から排除される(市民権を奪われる)というのである。政治的意思をはっきりと示さない者は「汚名」に値する恥ずべき者であって、政治に関与する資格がないと考えられていたのだ。ポリス政治から排除された者の運命については記されていなかったが、奴隷か追放のいずれかだろう。
現代の日本に置き換えたら、選挙で政治的意思表示をしなかった者は選挙権を永遠に失うということでもあろうか。そうなったら昨今の投票率では成人のマジョリティはあっという間に選挙権を失ってしまうだろう。
政治的判断や政治的意思表示をしないマジョリティの動向が今の日本の政治的状況を生み出しているとも考えられる現状に対して、ギリシア民主制における「中立」の政治的意味付けは恐ろしげでもあるが、きわめて示唆的でもある。
アガンベンの比較的短い論考だが、もう少し時間をかけて考えてみたい。
[1] ジョルジョ・アガンベン(高桑和巳訳)『スタシス――政治的パラダイムとしての内戦』(青土社、2016年)pp. 36-7。
街歩きや山登り……徘徊の記録のブログ
山行・水行・書筺(小野寺秀也)
日々のささやかなことのブログ
ヌードルランチ、ときどき花と犬、そして猫