かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発をめぐるいくぶん私的なこと(3)

2024年07月11日 | 脱原発

2013年2月5日

大惨事(高木注:チェルノブイリ原発事故のこと)から三、四年して私たちは、ようやく自分の国で事故の本当の規模、事故についての絶望的な真実の全貌を知りはじめる。それを知ると、私たちはますます自分のこと、私たちの大きな社会のことを知るようになる。私たちは自分たちの過去についてだけでなく、未来について知るようになる。
  アラ・ヤロシンスカヤ『チェルノブイリ極秘』より

 上の一文は、もう亡くなられた高木仁三郎さんがその著書『市民科学者として生きる』の中で引用されたものである[1]
 3・11の福島第一原発事故から2年経過しようとしている現在、私たちもまた「絶望的な真実の全貌」を知りはじめている。そして、それを知れば知るほど、反原発から引き返せない私たちの未来を知るようになっている。それが「脱原発みやぎ金曜デモ」に集まる人々の大きな「社会知」であり、「未来知」であるのだと思う。
 反原発といえば、高木仁三郎の名前をはずすことができない。『市民科学者』を標榜して日本の反原発運動のひときわ抜きん出たリーダーであった。反原発キャンペーンのために物理学会にお出でになった高木さんを見かけたことがあるという程度しか私は知らないのだが、ずいぶん昔に仙台で高木さんとニアミスをしたらしいということが最近分かった。
 絓秀実さんが「一九六九年に全国原子力科学者連合(全原連)が結成され、同年一一月、東北大学で行われていた原子力学会で、(高木さんらは)学会・原子力開発のありようを批判するビラを撒いた」と記している[2]。
 当時の大学は全共闘運動が吹き荒れていて、主要国立大学にようやく新設された原子核(原子力)工学科に学ぶ学生たちも「全国原子核共闘」という組織を作っていた。その原子核共闘が原子力学会に乗り込んで抗議をする、ついては仙台での集会場所や道案内などの世話をしてくれという連絡が私に届いたのである。当時の東北大学原子核工学科の学生はおとなしくて、全共闘の学科組織もなかったし、ましてや全国原子核共闘には誰も参加していなかったのだが。
 修士1年だった私は、確かに全共闘シンパとして原子核工学科で発言していたが、けっして過激な活動家ではない。ただ、カリキュラムについて学科教授会を強く批判していたのは事実である。「原子力工学という学問がないではないか。原子核工学といってもただの寄せ集めに過ぎないではないか」というのが私の不満で、それを教授たちにぶつけていた[3]。
 そのような私の言動が洩れ伝わって、全国原子核共闘からの指名になったのだと思う。私としては断る理由はまったくなかったので、たった一人の地元の学生として、集会場の教室を準備したり、原子力学会の会場へのアクセスなどを手伝うことになった。ただし、教室でメンバーと話しているシーンや広い学会場に入ったシーン、それにリーダーシップを発揮している京都大学の学生さんのことなどは覚えているが、その内実の記憶がほとんどない。
 乗り込んだ原子力学会の同じ会場に高木さんがいたかも知れないのに覚えていないのである。ニアミスした可能性があっただろう、というだけのことである。
 そんなこんなは、みんなただの思い出だけである。理系といえども初歩的な物理しか教えない原子核工学科で学んだ人間が物理学者として生きるというのは思っているほど簡単ではなくて、しばらくは物理に没頭するしかなかった。ときに反核デモに参加することはあっても、原子力の分野からは遠く離れた気分で過ごしてきたのだ。
 そんな私に福島原発事故は時間感覚を一挙に40年も遡らせ、その間いったい私は何をしていたのかと苛まれる思いを抱かせたのである。ショックで1年ほどは行動不調になってしまったのだが、脱原発みやぎ金曜デモが始まり、それに参加するようになって少し気持ちが落ち着いてきた。デモは、長い間原発問題から意識を遠ざけてきた私の人生のちょっとしたエクスキューズになっているようなのだ。

1.高木仁三郎『市民科学者として生きる』(岩波新書、1999年) p. 203。
2.絓秀実『反原発の思想史』(筑摩書房、2012年) p. 79。
3.そのような私の反抗的な言動が理由だと思うが、修士課程を修了するころ、原子核  工学科を追い出されることになる。その追い出し方が不当だったということで学科教授会を越えた工学部教授会と大学評議会のメンバーが動いて、数ヶ月のブランクはあったものの大学の附置研である金属材料研究所の物理系研究室に助手として採用されることになった。落胆していた原子力工学から物理学へ移ることができて、何かほっとするところがあったし、時間が経つほど物理が性に合っていることが分かってきて、結局、定年退職は大学院理学研究科物理学専攻で迎えることになった。原子核工学科を追い出されたのは、私の人生にはラッキーだったのである。



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