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母校が消えた。


 昨日も雨だったが、母校の消え行く姿を見に行った。
かっての北九州市立(八幡市立)平野小学校、我が母校です。

昭和30年頃の学校と、その周辺の風景です。学校の左側と下が平屋社宅、アパート群はもうチョット下の方。
右が祇園町、上が台良町。(卒業記念アルバムより)



この1枚だけが、当時の貴重なカラーでした。
  (卒業記念アルバムより)


 
 学校横の平野川。
昔(S.28年)川が氾濫した大水害があったのに。
上げ底のモダンな川に、その仕掛けは、
本流が下に流れています。(大丈夫なのかなぁ?)




 数年前に前田小学校と統合して、
新しく花尾小学校となり、旧前田小の敷地内に、
校舎は新しく建替えられ、既に移転しています。
故に、建物が取り壊されるのは時間の問題でした。

東側に廻ってみました。



時すでに遅し、もう校舎の姿は無かった。
跡地は何になるのか分からない。



 私の在学中は50人学級(実際は55人はいた)で、
全生徒数は1500人位、それが近年は40人学級で1学年で、
やっと2クラス出来るか出来ないか、の状態だったそうです。

この階段の上に校舎があった。



このネットは横のゴルフ練習場(打ち放し)です。
以前は、平屋の社宅がぎっしり。
そしてその向こうに、湯池(ゆいけ)があった。



卒業して、もう半世紀以上、
当時の状況を悪い頭では、思い出せと云っても無理だが、
校長先生が、女性だったことは覚えています。
今では当り前かもしれないが、当時は珍しく、全国(公立小学校)で2人か3人だった。
と聞いています。

卒業式の時、その校長先生の挨拶で、最後に保護者に向かって、
「6年間、お預かりしていた大事なお子さんをお返しします。」
と言われたのには、子供心にも吃驚しました。
「えっ、おれ達、学校に預けられていたのか?」

それでかどうか、分からないが、先生達は厳しかった。
チョット悪さをしたら、女の先生でも平気でビンタを張っていた。(今なら、大問題になるだろうな?)

昭和20年代~30年代前半、戦前からの先生もおれば戦後採用の先生も、男女同権・民主教育、今、思えば先生方も迷っていたのでは? でも、ビシビシやられたのも懐かしい想い出です。

余談、
高校に入って、1年の時の担任が、その校長先生の息子さんでした。



【校門を出た所】 この道の両側に、
ぎっしりと社宅(平屋とアパート)が建ち並んでいた。
左の建物は平野寮です。


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