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旧唐津街道・芦屋宿を歩く


先日の「筑前芦屋だごびーなとわら馬まつり」に行った時、
旧唐津街道・芦屋宿を、ちょっぴり歩いてきました。

芦屋小学校前の交差点(信号)から、
遠賀川の方向に歩き、突き当たった所から川上の方へ、
この道が多分、旧街道だと思う。



 旧唐津街道は、
若松宿~肥前唐津城間(30里、約118km)に13宿あり、
「若松宿」の次が「芦屋宿」です。

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「筑前蘆屋宿場構口の跡」です。
(芦屋の【芦】は、昔は【蘆】を使っていました。)
構口(かまえぐち)とは、
いわゆる宿場の出入口のことです。

この石碑が無ければ、
ここが昔栄えた宿場だったとは、全く分かりません。


劇場大國座跡です。(構口のすぐ近くです。)
大国座は1900(明治33)年に建てられた建物で、
定員820人の大劇場と言うから凄いです。
昭和19年に焼失し、戦後の昭和23年に再建されましたが、
経営不振のため、昭和41年に閉鎖・解体。 

えっ、こんな所に!って感じです。 
跡地の一部に建てたのだろうか?
横の建物は幸町公民館とありました。


蘆屋警察署跡です。
明治八年(1875年)福岡県第五大区芦屋警察掛巡視所として、
この地に設置さる。 
仝十年芦屋警察署と改称し、のちに分署を若松・黒崎・赤間に置く
(當時県下では、福岡 久留米 柳川 甘木 八屋 飯塚 小倉と芦屋の八署)
時代の変還に伴い明治二十二年若松に移り、芦屋はその分署となる。

(石碑の裏の説明文より)


更に進むと、遠賀川に突き当たりました。
これより、右側(川上)へ向かいます。


川下を眺めると、なみかけ大橋が、


川上の方は、芦屋橋(現在建替え中)
その後ろに皿倉山と権現山がはっきりと、


川沿いの街道筋です。


福岡藩焚石會所跡です。 (焚石、即ち石炭のことです。)

1837(天保8)年、
福岡藩は新たに制度強化した焚石会所を芦屋・若松に設け、
松本平内の献策した仕組法により、筑豊の石炭の採掘から、
売りさばきまで、藩直営としました。 


筑前蘆屋釜鋳造跡です。
芦屋釜は遠賀川の砂鉄を使い、鎌倉時代より独特の技法で鋳造され、梵鐘・鰐口・香爐等と共に天下に珍重されました。
茶道をやられている方は、ご存知と思いますが、
国の重要文化財に指定されている茶の湯釜9個のうち8個までを芦屋釜が占めています。




芦屋は昔、
福岡藩の米蔵が建ち遠賀川流域の年貢や生産物が集まる町として栄え、「芦屋千軒」と称されるほどの賑わっていました。
宝暦13年(1763年)、堀川運河(芦屋と若松をつなぐ運河)の完成により藩の米蔵が若松に移転し、その後、藩内唯一の石炭の積出港でしたが、これも後に若松に移され、衰退していきました。

それでも、明治の時代まで郡役所があり、遠賀郡の政治・経済の中心であったことは、間違いありません。

現在は、基地(航空自衛隊)の町、競艇の町、農業と漁業の町、
北九州のベッドタウン、そしてリゾートの町でしょうか。
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