ホクトマンのアドブログ

アドベンチャープログラムを愛するすべての人と、そうでもないすべての人へ。ひとりごと、今思うこと、泣き言、楽しか

セルフチャレンジ1-7

2009-07-26 | 雑念
「ごちそうさま」でも同じような牽制は行われ、そそくさと片付けに入る。
片付けが終了したら「振り返りの時間」があることがインフォメーションされ、片付けとストレッチが終了したら居間に全員が集合し例の「振り返りの時間」が始まった。

A4の紙を渡され「時間軸」と「きもち」のグラフを書くことに。そして2回のフリーランのラインを記入するとのこと。つまり自分がフリーランの最中にどんな「気持ち」だったのかを聞き出そうというもの。

そのときの私の感情は「またいきなりですねー」という思いだった。改まって1日の振り返りをするにしてもなかなか参加者にとっては唐突な感情リサーチになっている。当然疲れや眠気もあるからね。

結局私は「右肩上がりの2本の線」を記入した。まあもっと起伏のあるグラフがあったのだろうが、その振り返り自体に心を開くことができずに「適当に」グラフを記入してしまった。そしてそれなりのグラフに対する説明も説明できたりして、本当の気持ちを話したという時間ではなかった。本当に大切な時間を私は無駄に過ごした。それをインストラクターの振り返り技術のせいにして自分のいい訳にしていた。それにしても「ひどかった」のはひどかったんですけどね。

まあこんなひねくれた参加者がいた場合、そういうグラフを描く人間もいるというサンプルとして勉強にもなったんですけど。

ひとりひとりグラフを見せながら説明を求められる。それを参加者はインストラクターに報告する。そしてインストラクターは問う。「なんか言い残したこととか言いたいことはありますか?」

ないでしょー。その参加者同士のアイスブレイクもファシリテーションや引き出す仕掛けもしていなかったら。ただの先生に夏休みの宿題を提出している気分でしたよ。そしてそれに気づいているのは私だけだと思います。他の参加者は健気(けなげ)にインストラクターに話をしていましたから。

それって意味有るんですかね?『セルフチャレンジ」って自分に気づくことを目指しているんでしょ?だからアイスブレイクもしなかったし、話をしやすい雰囲気も作ろうとせず、野放しなんでしょ?

「指導者の介入」は悪なんでしょ?

でもね。でもね。当たり障りのない表面だけの感想をいう振り返りの時間って自分のことを見つめる時間になりますかね?自分のことをはなしができない雰囲気で自分に気づくことってできるんですかね?アイスブレイクが偽物の人間関係だと言うなら、この振り返りの時間って偽物のセルフじゃないって言えるんですかね?

体験してみてやっぱりOBSのプログラムの活動自体はすばらしい。でも心の中の一番大切な部分に届くための「振り返りスキル」「カウンセリングスキル」といってもいいかもしれない。それはプロジェクトアドベンチャーの考え方の方がすばらしい。

しかし「ハイブリット」の時代。かの「ターミネーター4」でも「ハイブリット」。私もプロジェクトアドベンチャーとOBSのすばらしいところをイイトコ取りして冒険教育の「ハイブリット指導者」を目指したいと思った35の夏であった。


セルフチャレンジ1-6

2009-07-26 | 雑念
施設に到着してすぐ、施設の大きな風呂に入る。施設の風呂がこんなに気持ちがいいと思ったのはこのときが初めてだと思う。筋肉痛や疲労が熱いお湯を吸い込むようにググっと染み入ってくる。「あーこれなら疲れがだいぶ取れるかもー」と勝手な想像はあとで完全に覆されるのである。

そして施設の兄弟施設である古民家に移動。夕食を全員で作る。風呂でさっぱりとはいえ、少し休みたい。でも腹は空いている。「ん~腹減ったー」大家族の夕食時のばたばたのように仲間作りもままならないメンバーとインストラクター2名が牽制しながらカレーを作る。

いよいよ「いただきます」にこぎ着けた。そして牽制。手を合わせるも誰も「いただきます」を言わない。このニュアンスでわかってもらえるかなあ。全員が「誰がいただきますっていうの?」みたいな。そうここでも別に仲間ではない。でも家族のような情景。あー今考えても疲れるし、癒されないし、MTBより精神的にはしんどい食事が始まった。

当然そんな雰囲気だから参加者同士の話題ではなくとぼけたキャラのインストラクターに全員が注目し当たり障りのない話題を挟む。そんな時間が私はすごく嫌だった。しかし自分から話題を振ろうとは思わない。それをリードすることが義務感になるのが嫌だったからだ。自然に話題を振りたくなったら話をしようと決めていた。

はたして私はいつからみんなに話しかけていくのであろうか?2泊3日の1日目は夜の8時くらいにはなっていたと思う。

不思議とその時のキノコカレーはやけにおいしくて、ただの水はなぜかおいしく感じた。

セルフチャレンジ1-5

2009-07-26 | 雑念
峠を登りきった我々は一人のリタイヤ者を排出し一路我が職場である山の中腹(標高720M)の施設までMTBをこぎだす。
そうゴールではないのだ。ゴールの山の手前。プチゴールといったところ。やはり「セルフ」という性質上リタイヤ者が出ても何の悲観もできない。ただ「あ~あ悔しそうだなあ」という一瞬の同情。そして目の前にある上り坂に視点は移り、自らの苦痛に耐えるばかりである。

さすがにフリーラン2の区間は毎日通勤する(車で)坂。距離感と角度と疲労がMTBから降り、足をついて歩き始めた私。しかし心の動きとしては「まだまだ足をつきたくない」「前を行く人まで追いつく」など次々と思いは出てくる。しかし熱さと湿気と疲労でくじける。少しMTBに乗りこぎだして、すぐ歩く。その繰り返し。

何がそうさせるのだろう。確かにサバイバル本能と言えばそうであろう。少しずつあきらめない気持ちが芽生えていくのであろうか?非日常の過酷な活動が人間本来の強さを引き出すのであろうか?それとも新しい何かが生まれていくのであろうか?ただ感じるのは参加する前とは少しずつ自分自身が変化していくこと。

そしてゴール。見慣れた施設のあの場所で先陣でゴールしたメンバーが見てくれていた。「ラストー」「がんばれー」などと応援もしてくれている。少し手前から「ゴールまで100こぎペダルを踏む」と決めて自転車を「かたつむりスピード」で乗りこなしてきたラストの300Mである。当然一番角度のきつい場所(疲労から)。

確かに「爽快感」「達成感」「安心感」などを感じた。「今日はここまで」という安堵感かなあ。「やり遂げた」という気持ちもある。突っ張った筋肉でストレッチを始める。私の後ろに位置していた人たちもゴールに近づいてくる。「ラストー」など先陣たちが声かけてくれた言葉が自然と出てくる。共通体験からのナチュラルな言葉。しかし飾らない。本物の応援のような気がした。誰のためでもない自分が出したかったから声を出した。「がんばれー」少しメンバーに自分から近づいたような気がした。その足取りも「かたつむりスピード」であった。