私は「ほぼ日手帳」を利用しています。
その手帳には毎日の記入欄の下に小さなコラム的な場所があって、いつも感心させられる良い言葉の数々が載っています。
今日の所にこんなことが書いてあって、考えさせられました。
「ことばの枝や葉ではなく、幹が沈黙である」
とても印象的で端的に脳裏に刻み込まれています。私もグループへのファシリテーターとして指導をしてきた人間として、沈黙がいかに大切な指導法であるかを実感してきたものであります。
しかし植物の幹にあたる部分、つまり本質が「沈黙」であるとまで達していなかったのです。しかしその言葉が染み込んできたのは、「沈黙」の持つ意味がとても重要であることの証でしょう。
沈黙という指導を意識している指導者は少ないと思います。そしてそれは経験値がそれを意識させていくとは思えません。それが証拠に毎日指導しているベテラン教師がケンケン口うるさく小言を言っているのをよく見るからです。
恐らく「沈黙という指導」は意識して行なう高度な指導手段なのだと思います。しかもそれが対象者のプレッシャーになってはいけない。
本当に深い信頼関係がそこにはあるのです。
その手帳には毎日の記入欄の下に小さなコラム的な場所があって、いつも感心させられる良い言葉の数々が載っています。
今日の所にこんなことが書いてあって、考えさせられました。
「ことばの枝や葉ではなく、幹が沈黙である」
とても印象的で端的に脳裏に刻み込まれています。私もグループへのファシリテーターとして指導をしてきた人間として、沈黙がいかに大切な指導法であるかを実感してきたものであります。
しかし植物の幹にあたる部分、つまり本質が「沈黙」であるとまで達していなかったのです。しかしその言葉が染み込んできたのは、「沈黙」の持つ意味がとても重要であることの証でしょう。
沈黙という指導を意識している指導者は少ないと思います。そしてそれは経験値がそれを意識させていくとは思えません。それが証拠に毎日指導しているベテラン教師がケンケン口うるさく小言を言っているのをよく見るからです。
恐らく「沈黙という指導」は意識して行なう高度な指導手段なのだと思います。しかもそれが対象者のプレッシャーになってはいけない。
本当に深い信頼関係がそこにはあるのです。