10月6日撮影
秋の日、残り少ない時間を使っての蜂の営み。
風の中を飛び上がり、せわしなく動くので、苦労する被写体だ。
昨日のブログで、コスモスを撮ってきた勢いに浮かされて、柄にもなく、山口百恵さんの「秋桜」に触れた。好きな歌だが、唄いたくとも私の手には負えない。
この歌の魅力とも言うべき「語り」がなんとも微妙で、唄おうと思うこと自体、もともと不遜。
ところが、「時々はカラオケで唄っていますよ」とのコメントを、ある男性の方から頂いた。
私も諦めずに、こっそり唄ってみようか。
また先日、「ジュリー賛歌」のブログを拝見した。年代的な面は別としても、果たして私に、「賛歌」と言えるものがあろうかとの思いのまま、今日のブログに取り組んだ。「ジュリー賛歌」に触発されたわけだが、今のところ、私には「賛歌」が見当たらない。
ヒョッとすると私は、青春時代に大きな忘れ物をしていたのかも知れない。もちろん私とて、夢をかけたものがなかったわけではないが……。
私にとって歌の初めは、「君が代」や「校歌」を別とすれば、軍歌だった。無理に唄わされた記憶はないが、日々おのずとラジオで聞いていたし、なにげなく唄っていた。
軍歌は沢山あったろうが、国民学校生徒時代のことなので、多くは覚えていない。
軍歌と言っても、厭戦的なものもあった。
「戦友」などは、「厭戦歌」と言ってもいいような内容だが、かなり唄われていたのではなかろうか。明治13年に作られた軍歌だそうだ。
戦闘のさなか、傷ついた「戦友」に思いを残しながら、「突貫!」の命令に従って敵陣へ突撃した「私」の心情を唄っている。敵を制圧して戻ってきたら、「戦友」はすでに息絶えていた。
故郷を離れ、満州を目指して船出した折、「私」と「戦友」は玄界灘で初名乗りをした。
それからは、「一本の煙草も二人で分けてのむ」間柄となっていった。
その「戦友」が戦死し、「戦友」の「親御へ送る」手紙を書くまでの心情を、一番から十四番にわたって書かれた詩なのだから、陰々滅々としている。とても戦意発揚にはならない。むしろ「厭戦歌」と言えよう。
しかし私の記憶では、唄うことを禁止されてはいなかった。軍国主義時代とは言え、そのような面の管理は、十分ではなかったように思う。田舎町だったからだろうか。私が東条英機の立場だったら、唄わせたくない唄だったろうになあ……?
ほかに「戦意発揚」の歌は沢山あったが、私の好きな歌は少なかった。
それでも、「月月火水木金金」、「同期の桜」、「ラバウル航空隊」などは、元気いっぱい唄っていた。
昭和20年8月15日の終戦以降は、軍歌禁止。
(GHQがどのように指示したかは知らない。日本の自粛かもしれない。あるいはノータッチだったこともありうる)。
全国津々浦々にまでGHQの眼が届くわけもないので、いい歌(例えば、「戦友」、「同期の桜」)などは唄われていたに違いない。その辺の私の記憶は、かなり曖昧だ。
突然、「リンゴの唄」が唄われ始めた。爆発的な流行であった。
私にとっての歌歴史は、並木路子さんの「リンゴの唄」から戦後期に入った。昭和20年に作られた松竹映画「そよかぜ」に、「リンゴの唄」が挿入歌として登場したとのこと。
やがて美空ひばりさんが出現し、歌謡曲大流行時代に入った。私の住む田舎町ですら、お祭りの夜には、「のど自慢大会」が開かれた。
一方、童謡の分野では、川田正子さんをはじめとする可憐な童謡歌手が、新しい童謡をどんどん発表して、童謡ブームをつくった。
「里の秋」はそのころ発表された。
まだ戦後復興も緒についたばかり。しかし庶民のエネルギーは、歌謡曲を先頭にして爆発しはじめた。
他人さまのブログに触発されて、忘れもの探しをしてみた。探し当てたわけではないが、そのような気分になることも、ブログの効用かもしれない。
秋桜日和が続きアウトドァが気持ちいいですね
どこのブログ回ってもコスモスの花ざかりです
ひよどりさんところも、綺麗な色のコスモスです。
天気がいいと色が映えますね、すごく綺麗です
「青春時代の忘れもの」ですか
こんなタイトルを昭和を回想するブログも面白そうですよ
1年分はネタがありそうです・・・
他人様のコメントやブログに触発されて書くのは、少し気後れしますが、今日この時の心境なので、お許しを乞いたいと思います。