ゆきくれて雨もる宿や糸ざくら 蕪村
この句の意味について長谷川 櫂は以下のように説明しています。
誰でも次のような意味ではないかと思うのではないか、即ち「旅人が歩いているうちに日が暮れてしまった。やっとのことで宿を借りることができたのはいいが、何と雨漏りがする。外を眺めると、庭には糸桜(枝垂桜)があって、今を盛りと咲き誇っている。その糸桜に見とれて旅の疲れも雨漏りのこともしばし忘れるのだった。」
しかし彼の説明は続きます。
蕪村の句は、「行き暮れて木の下かげを宿とせば花やこよひのあるじならまし 平忠度(たいらのただのり)」を下敷きにしているとも考えられる、すると意味は「旅の一日が暮れてしまって、あの忠度の歌の旅人を気取って糸桜の下で旅寝をすることになった。ところが雨が降り出すと困ったことに、この花のお宿は雨が漏る。やれやれ・・」というわけで蕪村はここで忠度の歌の優雅な世界を笑いの世界に作り変えている。即ち俳諧に転じているとして第2の解釈を示し、この第2の解釈の方が第1の解釈よりも優れた解釈であると説いています。
さすがに第一人者の卓見ですが私は第3の解釈もあり得ると思います、つまり「行き暮れて古い宿に泊まったが何と雨漏りがするではないか、、、だがこの雨漏りもあの忠度の歌の糸桜に見立ててその風流を楽しんでいる自分であることよ」とも解釈出来ます。
このように俳句は読む人によっていろんな解釈が出来、どの解釈が正しいということはありません。
作者には明確な意図があって詠むのですが、解釈は読む人に委ねられ、その解釈が作者の意図したものと違っていた方が優れた俳句になることも往々にしてあります。
これも俳句の特徴でもあり、面白さの一つともいえると思います。
この句の意味について長谷川 櫂は以下のように説明しています。
誰でも次のような意味ではないかと思うのではないか、即ち「旅人が歩いているうちに日が暮れてしまった。やっとのことで宿を借りることができたのはいいが、何と雨漏りがする。外を眺めると、庭には糸桜(枝垂桜)があって、今を盛りと咲き誇っている。その糸桜に見とれて旅の疲れも雨漏りのこともしばし忘れるのだった。」
しかし彼の説明は続きます。
蕪村の句は、「行き暮れて木の下かげを宿とせば花やこよひのあるじならまし 平忠度(たいらのただのり)」を下敷きにしているとも考えられる、すると意味は「旅の一日が暮れてしまって、あの忠度の歌の旅人を気取って糸桜の下で旅寝をすることになった。ところが雨が降り出すと困ったことに、この花のお宿は雨が漏る。やれやれ・・」というわけで蕪村はここで忠度の歌の優雅な世界を笑いの世界に作り変えている。即ち俳諧に転じているとして第2の解釈を示し、この第2の解釈の方が第1の解釈よりも優れた解釈であると説いています。
さすがに第一人者の卓見ですが私は第3の解釈もあり得ると思います、つまり「行き暮れて古い宿に泊まったが何と雨漏りがするではないか、、、だがこの雨漏りもあの忠度の歌の糸桜に見立ててその風流を楽しんでいる自分であることよ」とも解釈出来ます。
このように俳句は読む人によっていろんな解釈が出来、どの解釈が正しいということはありません。
作者には明確な意図があって詠むのですが、解釈は読む人に委ねられ、その解釈が作者の意図したものと違っていた方が優れた俳句になることも往々にしてあります。
これも俳句の特徴でもあり、面白さの一つともいえると思います。
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