ゆめ未来     

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恐るべき太陽/ミシェル・ビュッシ

2023年07月17日 | もう一冊読んでみた
恐るべき太陽 2023.7.17

ミシェル・ビュッシの『恐るべき太陽』を、読みました。
海に流すわたしの瓶」の各章を書いたのは誰だろう?だれだろうと思いながら読み続け、
最終章まできて、やっと納得。

 「それではきみたちにたずねよう」と作家は切り出した。
 「小説の冒頭に何を掲げたら、もっとも効果的だと思うかね?」
 「死体」と主任警部のファレイーヌが、ためらわずに応えた。
 「悪くない」ピエール=イヴはスプーンでコーヒーをかきまわしながら、大喜びで言った。
 「だが、死体より効果的なものがある」
 今度は誰も答えなかった。

 死体より効果的なもの?

 「死体より効果的なのは、死体がないこと。そう、行方不明だ。とくと考えてみたまえ。殺人事件から小説を始めれば、読者はこう思うだろう。誰が、なぜ、どのようにして殺したのかと。たしかに出だしとしては上々だ。だが、もし行方不明事件から始めれば、読者は同じ疑問、つまり誰が、なぜ、どのようにして連れ去ったのかと思うのに加えて、さらにこんな疑問を抱くはずだ。行方不明になった人物は、はたして生きているのか、死んでいるのかと」
 もはや誰ひとり、言葉を発しようとしなかった。テーブルの下でパン屑を狙っている雄鶏、雌鶏たちまでも。
 「そこにいくつか謎めいた要素を加え」と作家は続けた。「ぴりっとした味つけをするんだ。例えば、行方不明になった人物の服が目につくところに、きちんとたたんで置いてあったり、暗号で書かれた不可解なメッセージが残されていたりとか…………これで一丁あがり!」
 それでおしまい? これがPYFの天才的なアイディアってわけ?




こんなにも美しく切ない愛の物語を聞かされたら、これだけで、ビュッシの『恐るべき太陽』を読む価値あり、とぼくは感じました。

 「話して、チャーリー、そもそもの初めから」
 マルケサス人はにっこりした、両側の犬歯が抜けている。
 「妙な感じだよ、おまえにチャーリーって呼ばれるのは。そもそもの初めから話せって? いやなに、そいつはもっとも美しく、もっとも悲しい物語さ。世界中で、毎日何千と繰り返されている。わたしは。二十五歳のとき、貨物船の船員になった。世界を巡ってみたくてね。そういう若者が、マルケサスにはたくさんいたんだ。あれは三十になる少し前のころだったか、ある晩、ベルギーのゼーブルッヘに寄港した。新たな港に着くたび、言葉もわからない国のバーで一杯やる。それが船乗りの暮らしだ。けれどもベルギーのビールは最高だったし、娘たちもなんだかほかよりかわいく思えた。片言のフランス語が話せるせいかもしれないが。マルティーヌはそんな娘たちのひとりだった。道化師みたいなズボン吊りが、豊満な胸を押さえつけていたっけ。寒い海辺に暮らす娘らしい赤い頬でにっこり笑いかけられると、ほかの港のことなんか、きれいさっぱり忘れてしまうほどだった。ゼーブルッヘには一週間いたけれど、そのあいだマルティーヌと毎日愛し合った。わたしは当時から、脚が悪かった。シンガポールで、千五百キロのコンテナに脚を挟まれてしまったんだ。おまけに口ひげをはやして巻き毛だったもんだから、チャリー・チャップリンみたいだってマルティーヌも言っていた。わたしがとりわけ奇妙な天使みたいに映っていたんだろう。というのも彼女のアイドル、偉大なるジャック・ブレルが暮らした島から来たっていうんでね。最初はそれで、近づいてきたんじゃないかな。二人で一週間、繰り返しブレルのアルバムを聞いたよ。気がついたら彼の音楽や詞が好きになっていた。二年後、ボルティモアでブレルの死を知ったときは、涙したもんだ。もちろん、マルティーヌのあだ名はティティーヌだった。チャップリンの映画『モダン・タイムス』の曲に乗せてブレルが書いた歌にちなんでね。若くて恋をしているときは、誰だって今の時代を生きているんだ。われわれには、四十年前の話だが」
 わたしは前に進み出た。感動で胸がいっぱいだった。見るとしわの寄ったチャーリーの目に、涙が浮かんでいる。
 「そのあと……二人は二度と会わなかったの?」
 「ティティーヌには婚約者がいた。リエージュの大学で法律を勉強しているんだとか。将来は弁護士だろう。それにひきかえ、こっちはしがない船乗りだ。出航の日、彼女にトップクラスの黒真珠をあげた。わが島の思い出にね」
 チャーリーの手から力が抜けた。今度はわたしのほうが、強く握りしめなけれぱならないくらいだった。わたしはささやくようにたずねた。
 「どうして? 愛し合っていたなら、どうして別れたの?」
 「えてしてそれは、あとから気づくものなんだ。船がすでに沖へ出ても、また会えるだろう、再会の機会はあると思ってる……だが、結局それは叶わなかった。本当に愛した女性は誰なのか、それは人生の終わりが近づいたときようやくわかるものなんだ。わたしに残されたのは、冬の朝、ブルージュの広場で撮った数枚の写真だけだった」
 クレムの部屋にあった写真だ。
「あなたとティティーヌは、ヒバオア島で再会しなかったの? 彼女があんなことになる前に……」
 チャーリーはじっと立っているのもつらそうに、空いているほうの手を目の前に立つ石像の肩にかけた。
「作家先生は言ってたよ。これはやさしさの彫像で、その力を持っているアトリエ参加者はベルギー人なんだって。でもそれがティティーヌだなんて、知る由もなかったよ。もちろん、ブレルが好きなベルギー女性と聞いて、彼女のことを思い浮かべたさ。だから彼女をモデルにして、この彫像を作ったんだ。昨日、《恐るべき太陽》荘に来て欲しいとタナエから連絡があった。ブーゲンビリアの手人れをするためじやない。殺されたばかりのよそ者の女を運ぶために」
 わたしは喉が詰まって、もう息苦しいほどだった。チャーリーの声は、長いつぶやきにしか聞こえなかった。
「再会したティティーヌは、ベッドに横たわっていた。真っ赤な血にまみれて、昔と変わらない美しい姿で、わたしがあげた黒真珠を胸にさげて、わたしは彼女を運んでいった。王女様を抱きかかえる王子のように。ひとりで、この腕で。それからわたしは、真珠を持って部屋を出た。四十年前と同じように、石像の彼女の首にかけてあげるために」
 彼はしわのないマルティーヌの顔を見つめた。わたしの声は、貿易風に吹かれるココ榔子の葉のように揺れていた。
 チャーリーは、ティティーヌの胸のカーブに沿って手を動かした。まるで彼女を生き返らせる力があるとでもいうように。
「謝ることはないさ、マイマ。そんな必要はない。それにある意味、わたしたちは再会を果たしたんだ。わたしたちはジャックとマドリーの墓石からほんの四十メートルのところに、並んで埋葬されるだろう。二人ぶんのスペースあるのを確かめたよ(彼は石像の顔を、まだ崇めるように見つめている)。ほら、この彫像のおかげで、ティティーヌは若いときのままだ。この四十年間ずっと、われわれの愛もずっと変わらなかった。むしろ、いや増すいっぽうだった。ティティーヌといっしょに永遠の眠りにつけるなら、これ以上の望みはないさ」
 チャーリーは、黙ってじっと考え込んだ。




 わたしはアルコールをめったに飲まないけれど、ちょっと試してみることにした。劇的な出来事が、次々に起きたせいだろうか? 人はこうやってアルコール依存症になるのだろうか? 波瀾万丈の人生が、どんどん続いていくあいだに?
 わたしたちはしんみりとお酒を飲んだ。アルコールと愛と死。それだけが、鬱々とした人々を結びつけるつてこと?


 「その本だけど」エロイーズはボヘミアン風の三つ編みを、首に巻きついた柔らかな小動物みたいに撫でながら言った。「ピエール=イヴがわたしたちのナイトテーブルに置いておいたのよね。愛の讃歌、高みを目指さなければ挫折に終わった人生、手に入れた星々、逃してはならない流星。よく書けてる本っていうのは、鏡みたいなもの。わたしたちの人生を映し出す鏡。よりよい人生、挫折をしなければ得ることのできた人生の鏡。ピエール=イヴの作品はどれも、とてもよく書けている。彼は女を語る術を知っている。女の立場を描く術、女たちに語りかける術を心得ている。女たちをもっとうまく騙すために」
 エロイーズは最後のひと言をきっぱりとした口調で発しながら、白いカンバスに黒い切り傷を走らせた。


  『 恐るべき太陽/ミシェル・ビュッシ/平岡敦訳/集英社文庫 』


コメント
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