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カメレオンの影 素敵なジャクソンの生き方

2020年09月07日 | もう一冊読んでみた
カメレオンの影/ミネット・ウォルターズ  2020.9.7

ミネット・ウォルターズの 『カメレオンの影』 は、ジェニファー・モーリー、ジャクソン、ディジー、母親たちなど女たちの生き方の物語です。

ジェニファーもすごいが、そんな彼女とつきあったアクランドも異常だ。
とにかく想像を絶する人間関係だ。
そんなどろどろの世界にジャクソンとディジーが深く関わってくる。
ロンドン警視庁のジョーンズ警視とビール刑事は味わい深い脇役だ。
ジャクソンは、厳しく生きにくい社会の底辺で苦しむ人々に関わり逞しく生きている。


 「きのうの朝、ある補助看護師がきみに、元気出して、あなたはまだいいほうなのよ、もっと重傷の患者さんがここにはけっこういるんだからって言ったら、きみは逆上した」
 「彼女はそうは言わなかった」
 「なんて言ったんだ?」
 「あら、元気がないのね、って……そのくそいまいましい手をどけろってぼくは言った」「彼女は、おあいにくさまと言い返し、足音荒く出ていった。それ以来、顔をみていません」
 ウィリスは困惑した。「きみは彼女がおかしなところを触ったと言っているのかね?」
 「いや、そうは言っていません」アクランドは皮肉な口調で言った。


 「つまり、この報告書が言っているのは、きみにできることは何もなかったってことだよ。きみやきみの部下たちは、新しい形の攻撃の最初の犠牲者であり、きみにもし落ち度があったとすれば、間のわるいときに間のわるい場所にいたってことだけだ」

 チャーリーはカメレオンです。彼は相手によって見せる姿を変えます。連隊の仲間には、男の中の男。わたしに対しては、色男。両親には、口を閉ざし、そこにはいないかのようにふるまう。自信をもってもっと自分らしくしていればいいじゃない、と一度彼に言ったことがあるのですが、うちの親と議論したって無意味なんだよと言っていました。どうしてもそうする必要がないかぎりは、と。問題は、ついに議論となっても、結局はうやむやになって終わるのが常だってことです。わたしたちが別れたのもそれが原因です。ちょっとした、ささいな口げんかが、全面戦争になってしまった。

 「アクランドは自殺しようとしたのだと言うのか?」
 「彼はめちゃくちゃなんですよ……ちょっとわたしの友人に似ていて……自分が置かれている状況にうまく対処できない。ドクター・キャンベルによれば、彼はこの数か月、ゆっくり餓死に向かうことでそれを終わらせようとしているんだそうです。自分のライフスタイルとしてそうしているんだと自分を偽りながら。たぶん彼は、今夜はもっと直接的な方法をとることにし、ドクター・ジャクソンを道づれにしたんですよ」
 ジョーンズは何も言わなかった。
 「今のは買えませんか?」
 「買えない部分もある」警視は言った。


 デイジーは開いた戸口にひっそりと立ち、アクランドが部屋で背嚢に荷造りするのをながめていた。所持品はすべてベッドに整然と並べられていて、そのあまりの少なさに彼女は、これまでの人たちと同様、胸を衝かれた。もっとも痛ましく思ったのは、一個だけの携帯食器とマグカップだ。それは、誰ともともにすることのないひとりきりの暮らしが続くことを物語っていた。

 「もしあと一歩でも近づいたら……あるいは、ぼくをまたたぶらかそうとしたら……その首をへし折ってやる」
 彼女の目が一瞬ぎらっと光ったが、怒ったのか、警戒したのかはわからなかった。「なんでそんな残酷なことを言うの?」
 アクランドはずきずきしだした眼窩に指を押し当てた。「残酷ではないよ。正直なだけだ……きみには理解できない言葉だろうけど」彼女の口が憎々しげに引き結ばれる。「もしかして金がなくなったのかい? だから、もう一度ぼくに目を付けたのか? たぶん補償金がたんまり入るだろうと思ったのかもな」
 彼女のまつげに涙がにじんだ。ことがこんなふうに運ぶとは思ってもみなかったのか。見るからにうろたえている。


 ウィリスは面白がる目で彼女を見た。「わたしなら神様を引き合いにはださないですね、ミズ・モーリー。わたしは実存主義者の考えに与します……各個人はそれぞれ選択し、その選択に責任を負う……男であれ女であれ、みずからが選択した道をその人生で歩んでいくんです」ウィリスは眼鏡をまた鼻にかけ、つるを耳にひっかけた。「それから、こう言ってはなんですが、成功した女優にたまたま似ているからといって、その女優の名声にただ乗りしていいってことにはならないんじゃないかと思いますよ。正しいか正しくないかはともかく、それはあなたがわたしはわたしだという自信に欠けていることのあらわれではないかと思うんですよ」
 彼女は目を伏せて表情を隠した。「チャーリーがそんなふうに言っていたんですか?」


 彼女は怒りの声をあげながら彼を振りほどこうと激しく身をくねらせ、空いた手でアクランドの腕になぐりかかった。予期していた動きだったので、握っていた手は放さずにすんだが、彼女の力がどれだけ強いかは忘れていた。


 「あんた、ディジーに朝食代の五ポンドが未払いだよ」帳簿の一番上のページを叩いて言う。
 「それを払えば、精算完了だ」
 アクランドは財布を出した。「今朝は、飢え死にしちゃいけないからって、これでもかってぐらい食わせられましたよ」
 「それが彼女なりの別れのあいさつなんだよ」ジャクソンは言って、アクランドが差し出した紙幣を受け取った。


 アクランドとジャクソンの別れの場面は素適です。

 「じゃあ、一歩前進だね」アクランドが背嚢を肩に背負うのを見て、ジャクソンは言った。
 「玄関までついてって、送り出してもらいたい?」
 アクランドは首をふった。「連絡を絶やさないようにして、とうるさく言われるのがおちですから」
 「そんなこと、わたしはしないよ」彼女はきっぱりと言った。「連絡するにしろしないにしろ、それはそっちの話……してねと頼んであんたの自尊心をくすぐるなんてまっぴらだ」
 彼の笑みが広がって、傷跡がほとんど笑いじわのようになった。「ディジーが、あなたはぼくからときどき連絡がなかったら心配するだろうって言ってましたよ」
 ジャクソンは彼の五ポンド紙幣を引き出しに入れた。「それは確かだよ」



    『 カメレオンの影/ミネット・ウォルターズ/成川裕子訳/創元推理文庫 』



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