■それまでの明日 2023.10.2
最後の長編『それまでの明日』が刊行されたのが、2018年。
『愚か者死すべし』から、なんと14年が立っていました。
その間の日本の社会の移り変わりが、物語の中で、それとなくちりばめられていて、そのたびに懐かしく、そうだなあ、そうだったなあ!と懐かしく感じました。
本書で、新たに沢崎の物語が語られることはありません。
そこで、沢崎の思い出をここに書き残しておきます。
「その話ですか。あなたはどうして私などに自分の名前を知らせたいのです?」
「それは……いますぐはともかくとしても、いつの日か、あなたの友人の一人に加えてもらえるようになるかもしれない」
「あなたは私が探偵であることを忘れていませんか。私には友人など一人もいません。それはたぶん、私がもし探偵でなければ、私のような男とは決して友人になりたくないからです」
「それは……つまり、あなたは探偵なので、私のような男とは友人になりたくないということですか」
「その通りです」
しばらく沈黙があった。私は海津一樹の名前と携帯電話の番号を告げてから、電話を切った。それが名前のない依頼人と交わした最後の会話になった。世の中に電話などというものがなかったら、彼はまっすぐ私の事務所を訪れていただろうか。いや、彼ならきっと意を尽くした手紙をしたためるほうを選んでいただろう。いずれにしても、彼に会ったのは初対面のあの日が最初で最後だった。
私は望月の顔をもう一度よく見直した。見憶えのある顔ではなかった。
「いや、存じていたと言っても、それはあなたのうしろの窓ガラスに書かれている、<渡辺探偵事務所>の看板のことなんです。ここから少し入った北新宿公園の近くに古い知人の住まいがあって、そこを訪ねるときに気づいて以来、とても気になる看板だったんです」
「おかしなものがあるなという?」
「最初に気づいたときは、あるいはそういう感想をもったかもしれません。しかし、五年経っても、十年経っても、前の通りから見上げると、何事もなかったようにいつもちゃんとそこにある。夜分に通ったときに、窓に明かりか点いていることがありましたから。看板だけか残っているようなものではないこともわかりました。それに較べて、自分の勤め先がこの二十年間にいくつ場所を変えたかを考えると、それまでは常識だと思っていた自分の価値判断の基準が少しばかりあやしくなってきたのです」
「看板の内側をごらんになった感想はどうです? 常識がもどってきたのではありませんか」
長いあいだ、依頼人を観察していればわかることだが、彼らのほとんどが、探偵事務所を訪ねて調査を依頼したとたんに、なにがしかの後悔の念にかられるようだった。こんな調査を探偵などに頼んでよかったのだろうか……。そもそもこの探偵は信用のおける人間なのだろうか……。
「困った性分だ。顔を合わせても、捜査に協力してくれてありがとうと言えない自分が、よほど恥ずかしいのだろう」
私があきれ顔で首を横に振ってみせると、田島も鏡に映したように同じことをしていた。
味方にしても役に立たないのに、敵にまわすと意外な能力を発揮する人間がいるものだが、そんなことにはならずにすみそうだった。
自分では気づかないうちに、疲労感が食べたこともない南洋の果物の果汁を絞った滓のように溜まっていた。歳のせいだとは思いたくなかった。探偵の仕事といえば人の行動を観察することと人の話に耳を傾けることだった。その二つがうまくバランスしていれば、探偵の心身への負担は少なくてすんだ。こんどの仕事はむやみに人の話を聞いてばかりいるようだった。それでも調査すべき事柄が少しずつでも明らかになっていけば、仕事は順調だと思えるはずだった。
『 それまでの明日/原尞/ハヤカワ文庫JA 』
最後の長編『それまでの明日』が刊行されたのが、2018年。
『愚か者死すべし』から、なんと14年が立っていました。
その間の日本の社会の移り変わりが、物語の中で、それとなくちりばめられていて、そのたびに懐かしく、そうだなあ、そうだったなあ!と懐かしく感じました。
本書で、新たに沢崎の物語が語られることはありません。
そこで、沢崎の思い出をここに書き残しておきます。
「その話ですか。あなたはどうして私などに自分の名前を知らせたいのです?」
「それは……いますぐはともかくとしても、いつの日か、あなたの友人の一人に加えてもらえるようになるかもしれない」
「あなたは私が探偵であることを忘れていませんか。私には友人など一人もいません。それはたぶん、私がもし探偵でなければ、私のような男とは決して友人になりたくないからです」
「それは……つまり、あなたは探偵なので、私のような男とは友人になりたくないということですか」
「その通りです」
しばらく沈黙があった。私は海津一樹の名前と携帯電話の番号を告げてから、電話を切った。それが名前のない依頼人と交わした最後の会話になった。世の中に電話などというものがなかったら、彼はまっすぐ私の事務所を訪れていただろうか。いや、彼ならきっと意を尽くした手紙をしたためるほうを選んでいただろう。いずれにしても、彼に会ったのは初対面のあの日が最初で最後だった。
私は望月の顔をもう一度よく見直した。見憶えのある顔ではなかった。
「いや、存じていたと言っても、それはあなたのうしろの窓ガラスに書かれている、<渡辺探偵事務所>の看板のことなんです。ここから少し入った北新宿公園の近くに古い知人の住まいがあって、そこを訪ねるときに気づいて以来、とても気になる看板だったんです」
「おかしなものがあるなという?」
「最初に気づいたときは、あるいはそういう感想をもったかもしれません。しかし、五年経っても、十年経っても、前の通りから見上げると、何事もなかったようにいつもちゃんとそこにある。夜分に通ったときに、窓に明かりか点いていることがありましたから。看板だけか残っているようなものではないこともわかりました。それに較べて、自分の勤め先がこの二十年間にいくつ場所を変えたかを考えると、それまでは常識だと思っていた自分の価値判断の基準が少しばかりあやしくなってきたのです」
「看板の内側をごらんになった感想はどうです? 常識がもどってきたのではありませんか」
長いあいだ、依頼人を観察していればわかることだが、彼らのほとんどが、探偵事務所を訪ねて調査を依頼したとたんに、なにがしかの後悔の念にかられるようだった。こんな調査を探偵などに頼んでよかったのだろうか……。そもそもこの探偵は信用のおける人間なのだろうか……。
「困った性分だ。顔を合わせても、捜査に協力してくれてありがとうと言えない自分が、よほど恥ずかしいのだろう」
私があきれ顔で首を横に振ってみせると、田島も鏡に映したように同じことをしていた。
味方にしても役に立たないのに、敵にまわすと意外な能力を発揮する人間がいるものだが、そんなことにはならずにすみそうだった。
自分では気づかないうちに、疲労感が食べたこともない南洋の果物の果汁を絞った滓のように溜まっていた。歳のせいだとは思いたくなかった。探偵の仕事といえば人の行動を観察することと人の話に耳を傾けることだった。その二つがうまくバランスしていれば、探偵の心身への負担は少なくてすんだ。こんどの仕事はむやみに人の話を聞いてばかりいるようだった。それでも調査すべき事柄が少しずつでも明らかになっていけば、仕事は順調だと思えるはずだった。
『 それまでの明日/原尞/ハヤカワ文庫JA 』
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