歴史と言う物は実に皮肉なものだ。然もそれが逆説的な意味で輝き出してゐるとは。例えば日本の最も奇妙な数学者の一人であった岡潔は、1960年代を通じて何冊かの本を書いている。岡潔の数学者としての能力が超一流である事は、海外の影響力ある数学者が折り紙を付けている。そして60年近く前に書かれた岡の随筆は、数学者の随筆と言うよりも、1つの経世家か書いた、新興宗教の教祖の様な超脱した内容に近い物であった為に、結局、先生の言葉は、お面白がられただけで、言葉が示した真の価値も、やがて来るであろう未来への予言的警句も、当時の一般人にはたぶん理解されなかった。そして何年もの、否、何十年もの歳月が過ぎ去った今日、彼のことばは急速に光度を増し、そのことばの放つ光は、日本の現代の物質文明と日本人の痴呆化に対して強烈な反省を強いる指摘となって現れている。その言葉は、日本の現在の、物に溢れてはいるが芯の無い虚妄の物質文明の繁栄を、逆説的に照らし出す事に成った。1960年代の初期に書かれた、当時の岡潔のessayの本質を、一体誰が心底理解したと云うのであろうか。賛同する少数者以外には殆んど居なかった。もっと言えば、理解した人が居るというのは疑問である。恐らくは誰も理解などしていなかった。たぶん、奇矯な数学者の戯言くらいにしか思わなかったに違いない。
私は久しぶりに岡の「春宵十話」と「春風夏雨」を引っ張り出して見ている。此処で再び、先生は「頭脳は情緒が創る」と謂って居る。そう、物に感ずる心であり、自然の在り様に感ずる心である。美しい風景は心の奥に焼き付けられ、その光景と思考の内容は意識しない奥で繋がり更に重なって居る。重なって居るというのは、或る考えの理解が風景の映像とダブって居るという事だ。たとえば四則の展開が自由な数列に付いてあるアイデアを思い付いたとする、その時頭の中に森や風景、雲や山々の映像が浮かぶと、その時の理解の記憶は、その映像と結びついて情緒的に記憶される。そして再びその時の理解を反芻する時には、それに結び付いた視覚的映像が現れる。であるからこの視覚的映像と理解が結びついているとしか謂い様がない。他の人はどう云う風に頭の使い方をして居るのかは分からないが、兎に角、自分の場合には、その様に思考と映像、つまり理解と映像は不思議な関係で結びついている。何故なのか分からないが、私の場合の思考現場と映像は、どういう訳か結びついている。故に美しい風景は私には不可欠なのだ。私に取って美しい風景が思念と結びついているのであるから、美しい風景の中に身を置く事は最大の欲求なのだ。どうも放心時の思考内容は、記憶に残る風景と結ばれて、脳の深い部分にある、「分かったという認識」と共に記憶されているようだ。だが、こんな独り善がりの事実を書いても、この文章を読んでくれる人は、共感はして呉れないだろうと自戒している。
然しながら、哲学者、文明思想家としての、岡潔の古風な内容の文章が、この様に燦然と輝き出したのは、その哲学が依然としてその本質に迫る、「日本復活の或る鍵に成る力」が在るからで、先の見えない軽薄な時代には、過去の骨のある言動が見直される時代に入ったという事なのだ。これはF・ニーチェの言葉にも通じる物である。19世紀から20世紀の初めにかけて、当時のドイツも現代と同様に退廃した爛熟の時代に差し掛かって居たのである。ニーチェは、古典文献学の総合的な知見から、様々の文明の弊害を指摘し、また宗教論に深い関心を有していて、ユダヤ教から派生してやがてローマ帝国を腐敗させ且つ席巻して仕舞った原始キリスト教に付いても論評している。そしてキリスト教の弊害を受けていない、未だキリスト教化されていない、健康な時代の古代ギリシャを比較しいる。今の崇敬されるギリシャ文明も、それはもともと他の様々の古代文明から学び、その成果を継承していて、エジプトやペルシャの古代宗教、科学と実用技術、天文学、軍事論、などを摂取しそれを発展させたものだ。更に、歴史を探れば大陸の古代文明は、その発生とその後の経過は、常に戦争を通じての隆盛と敗亡、また勃興の連続で有った。
日本国に付いて云えば、日本はその自然条件から、70年前の大東亜戦争による敗北以外に、外国の武力によって侵略された経験を持たない。それ故に日本の文明は古代支那の漢字文化と印度に発する仏教文明以外に影響を受けたものは殆んど無い。すべて自前で揃えてやってきた物である。日本文明を語る上で、2万年ほど遡れる縄文時代とその前の十万年を遡る、旧石器・新石器時代を論じない訳にはゆかない。2万年続いた縄文時代、この時代が日本人の本質を決定した。日本国は成立して居ないので、当時の原住民を日本人とは云わないが(笑)、日本国が成立したのは3世紀の事である。然し、彼らは血統的に言えば、紛れもない日本人であり、我々の血と遺伝的情報を共有した人々の事である。岡潔の一見奇怪に見える言葉には、スミレの花の存在の様に、命のもつ独自性と完成された原理が厳然として現れている。特に、教育論は再び見直されるべき内容であろう。その根本から始めないと、日本の文明の真の再生は決して成功しないだろう。