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量子計算機の原理とその可能性

2020年11月13日 14時42分45秒 | 電子計算機の未来

 日本で日常に溢れている、コンピューターの概念は、すでに何百年も前にその源を発している。それは例えば算盤(そろばん)である。室町時代に明交易の過程から原始的な算盤が入ってきたと謂われている。当時の明から入った算盤は、玉が五つで玉の大きさはビー玉ないしクルミ大の大きさがあり、もちろん片手で弾く事などは出来ず、むかし小学校に在ったソロバンの模型の様な物だったという説明がある。少なくとも我々が懐く、片手で高速で弾く算盤のイメージはない。その算盤は日本で瞬く間に進化した。秀吉の子飼いの有力家臣である前田利家は、数値に明るく、兵隊の数や兵糧・築城日数など、問題を何でも計算する性癖があったとか?。事実、加賀藩の博物館には、利家愛用の小さな懐中ソロバンが展示されている。この様にソロバンは日本では無くてはならない物として進化して現在に至る。ソロバンは永く日本の社会生活に不可欠の道具として機能してきた。江戸時代の和算の発展も算盤の効果が大であろう。ソロバン以外にも、計算機は東洋西洋、特に西洋でその萌芽がある。計算機の一般に知られた歴史では、東洋のソロバンであり、西洋では歯車を応用した手回し計算機であった。

簡単な機械的計算機はpascalやLeibnizを経てCharles・Babbageの解析機関にまで到達したが、すでにギリシャ時代に精巧な歯車の機械が発見されている。いかにも、細工の得意なArchimedes辺りなら計算機を作ったかも知れないという想像は湧く。この金属製の歯車は天文の計算に使われたと想像されているが、実情は何に使われたのかわからない。19世紀に成り設計されたBabbageの解析機関は、余りにも多くの歯車があり、それを動かすのはとても重く駆動するには馬四頭を要したという(笑)。為にこの解析機関はいささか現実離れした構想であった。我々の手の平の上に乗る電子計算機が現れたのは、ひとえにトランジスタの発明の拠る。電子の流れを応用した、真空管と使った電子計算機が現れたのは第二次大戦中であるが、それは何万本もの真空管で構成された為に体育館並みの空間を必要としたし、その発する熱量は膨大なもので、冷却には大掛かりのクーラーが必要であった。冷却できないと真空管は電極が溶けてしまう。最初はそれは敵の暗号解読を迅速に進めるための手段であった。日本のパープル暗号が破られたり、ドイツのエニグマが破られた原因はこの最初期の電子計算機にあったと謂われている。

それには当時の工学者や数学者が使われた。数学者A・チューリングの活躍は永く秘密にされていたが彼の功績は大であった。彼はある意味の狭量な社会慣習の犠牲者でもある。

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