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映画『東京家族』について

写経 32.  『レイテ戦記』 (2)

2013年08月20日 | 『レイテ戦記』

 この8月16日、『東京新聞』の「千葉版」に、こんな記事が載った。 http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/20130816/CK2013081602000134.html

 
 「戦跡を歩く(3)佐倉連隊営所(佐倉市) 跳下台から戦地へ」   “陸軍歩兵の訓練に使われた跳下台を案内する渡辺さん(写真)=佐倉市城内町で
 
 佐倉市城内町の佐倉城址(じょうし)公園に、スイレンの花が咲く小さな池がある。周囲の青々とした草むらを奥の方に向かうと、枝葉が広がる木立の間から、何とも場違いなコンクリート製の階段が姿を現す。
 試しに高さ約三メートルの十二段を上り切っててっぺんに立ってみた。急角度と踊り場の狭さに足がすくむ。下りるときは恐怖心がさらに増し、完全に腰が引けてしまった。
 「上るための階段じゃない。飛び降りるためのものなんですよ」と佐倉城址公園ボランティアの会代表の渡辺宏さん(78)は言う。どういうことか。
 二十一ヘクタールを超す園内は江戸初期に築かれた城跡であるとともに、佐倉連隊と総称される陸軍歩兵連隊の営所跡でもある。第五十七連隊は平時なら県内から毎年約八百人が入営。二年間の訓練で戦地の道なき道を前進する体力、精神力を養った。
 この階段は跳下(ちょうか)台と呼ばれる。日清、日露戦争の反省を踏まえて、歩兵の訓練を体系化した「体操教範」にも記載されている訓練器具だ。
 兵士の卵たちは、飛び降りる段を少しずつ上げながら恐怖心を克服し、最終的に背のうを身に着けて最上段に立ち、自信を付けて旧満州(中国東北部)へ、上海へと出征していったのだろう。
 佐倉連隊に関連した遺跡として、兵舎の便所跡、車道の石碑、軍犬・軍馬の墓なども園内に散在している。中学校の平和ツアーなど、子どもたちが戦争について勉強に来ることが多いという。
 渡辺さんは「残念ながら旧日本軍は兵隊を消耗品と考え、悲劇も多い。それでも直視すべきだと思う。散策しながら歴史をかみしめてほしい」と話す。連隊の遺跡は、太平洋戦争でほぼ全滅した部隊の悲劇を思い起こさせる。

 渡辺さんには、戦争末期に暮らしていた東京の空襲が激しさを増し、静岡、富山への学童疎開の記憶が残る「いなかの寺で寝泊まりし、遠くの空が爆撃で赤く染まったのを覚えている。ガイドしている理由の一つかもしれない」と話した。 (小沢伸介)

    ◇

<佐倉連隊> 1874(明治7)年から1945(昭和20)年の終戦まで佐倉城址に置かれ、陸軍歩兵第2、第57、第157、第212などの連隊を編成した兵営の総称。第2連隊は西南戦争、日清戦争、日露戦争に従軍。第57連隊は満州事変や日中戦争に出征し、レイテ島でほぼ全滅した。連隊長は、後に内閣総理大臣となる林銑十郎や陸軍大将となる今村均が務めた。 ” 

                                『2013.8.16 東京新聞』 



  『レイテ戦記』 大岡昇平  「第十二章 第一師団」から

 “(昭和十九年)十一月一日、方面軍派遣のレイテ島決戦師団の第一陣としてオルモックに上陸したのは第一師団(通称玉)である。師団は歩兵第一聯隊(東京)、第四十九聯隊(甲府)、第五十七聯隊(佐倉)の歩兵三個聯隊を基幹として編成されていた。”



                「第十三章 リモン峠」から

 “五十七聯隊長宮内大佐がリモン峠の頂上に着いたのは、(昭和十九年十一月)三日の暮れ方であった。聯隊付大隊長要員としてマニラで配属された長嶺秀雄少佐、副官間宮正巳大尉のほかに、大隊砲一門、一個分隊の兵を連れた仁木少尉も一緒であった。
 片岡中将(第一師団長)は一個小隊の「歩兵」を連れて来いと命じたのだったが、伝達の誤りから、「小隊砲」となった。小隊砲なんてものは日本の軍隊にはないから、多分大隊砲だろうということになったのである。リモン稜線にさしあたってほしいのは、歩兵なのであるが、いまさらそれをいっても仕方がない。大隊砲はあっても邪魔にはならない。兵は峠の諸方に散開して敵の動きを監視することになった。
 片岡中将はマナガスナスで受けた米軍の定量砲撃の経験を語り、兵たちにとにかく壕を掘らせろといった。宮内聯隊長に、須山参謀指導の下に稜線の守備を命じ、自分は宮内聯隊長の乗って来たトラックで後方に急行した。師団主力を掌握し、配置を決定しなければならない。忙しいことであった。
 宮内良夫大佐は、十六年十二月一日蒙疆駐屯の独立歩兵第二大隊長から転補された、片岡中将と同期の二七期生である。鹿児島県の出身、温厚な指揮官で、房総人の粘り強さを理解していた。結局リモン北方稜線で、米二一連隊と対抗したのは、五十七聯隊だけとなるのだが、その頑強な抵抗は、この気質の強味を遺憾なく発揮したものといわれる










 


 “佐倉市城内町の佐倉城址(じょうし)公園に、スイレンの花が咲く小さな池がある。”






 

 “この階段は跳下(ちょうか)台と呼ばれる。”















































 “横顔に朝陽がとうめいに射している。” 『きことわ』









 

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写経 31. 『暗黒日記 1942-1945』 (岩波文庫版) 清沢洌 (1890年2月8日-1945年5月21日) 

2013年08月18日 | 清沢洌 (きよさわきよし)

 新企画を思い付いた!(笑)







 この方が清沢洌である。にせ岩上安身ではない(笑)。

 清沢はひとことで言うと、真のリベラリストで、先の戦時下書き続けた日記が、この所謂『暗黒日記』だ。

 一例を挙げる。


 “1945(昭和20)年3月14日(水)

 重光外相が石橋(湛山)、小汀、正金〔横浜正金銀行〕の加納、柳井(?)の四人を招待し、戦争を何とかしてやめたいのだが、実業家の方面から何とかできないかと相談したそうだ。
 新しい蔵相津島は、全然話が分らないそうだ。米軍が押し寄せてくれば、これを撃退する自信が軍部にあるそうだからといって、和平論などはテンで考えようともしないそうだ。海において撃退し得ないのを、上陸の際、どうして破ることができるのか。仮にいちおうこれを破ったとしても、米国を最後的に打ち破ることが、どうして可能なのか。もし打ち破れなかったら、どうして戦争を終結させうるのか。こうした理屈は何人にも分っていねばならぬはずなのに、インテリに分らないというのはどういう訳だろうか。第一には、突きつめて考うることを好まないからであり、第二は、そういうことをいうと、禍の身に及ぶことを恐れるからである。”


 はっきりと状況が見えていて、それを冷徹に論理で突きつめて考えている。



 で、「企画」というのは、この日記から50本ぐらい英訳して英語力をつけて、今は壊れて動かない私のツイッターのページを直し、映画監督のマイケル・ムーア氏と英語で「会話」をしてみよう! というものだ。



 早速第1回目の英訳を始めようとしたが、問題が発生した。うまく訳せないのである(笑)。完璧な訳を10割とすると、今の私の力は2割ぐらいなのだ(笑)。そこで、これを5~6割ぐらいにしてから、『暗黒日記』の英訳を始め、50本こなすうちに、7~8割の力をつけて、ツイッターでの「会話」へ行こうと思う。
 あんまりのんびりもしていられないが、これも少しずつ進める予定である。
 

 



 


 
 

 

 





 

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写経 30. 『レイテ戦記』 大岡昇平 (中公文庫版 上巻)から 

2013年08月15日 | 『レイテ戦記』
 “大本営海軍部はしかし、敵機動部隊健在の真実を陸軍部に通報しなかった。今日から見れば信じられないことであるが、恐らく海軍としては全国民を湧かせた戦果がいまさら零とは、どの面さげてといったところであったろう。しかしどんなにいいにくくともいわねばならぬ真実というものはある。 
 決戦が迫っていた(昭和十九年)十月十七日、アメリカの機動部隊は健在である。従って比島の飛行場、船舶は一,〇〇〇機以上の艦上機に攻撃される危険がある、ということはこの種類の真実に属していた。
 もし陸軍がこれを知っていれば、決戦場を急にレイテ島に切り替えて、小磯首相が「レイテは天王山」と絶叫するということは起こらなかったかも知れない。三個師団の決戦部隊が危険水域に海上輸送されることはなく、犠牲は十六師団と、ビサヤ、ミンダナオからの増援部隊だけですんだかも知れない。一万以上の敗兵がレイテ島に取り残されて、餓死するという事態は起こらなかったかも知れないのである。
 こういう指揮の誤りは個人の一責任ではなく、その個人を含む集団全体に帰せられねばならない、――これはフランスの歴史家マルク・ブロックの意見である。彼は陸軍大尉として一九四〇年のフランス戦線の崩壊に立ち会い、「奇妙な敗北」でその実態を分析した。(彼はレジスタンス運動に加わって銃殺されたので、戦後の出版である。)
 旧日本軍の軍事機構は天皇の名目的統帥による「無責任体質」(丸山真男)といわれるが、これは必ずしも天皇制国家の特技ではないようである。民主主義国家でも軍部という特殊集団には、いつも形骸化した官僚体系が現れる。夥しい文書化された命令、絶えず書き改められる指導要綱、「機密」「極秘」書類の洪水が迷路を形成する。外部の容喙は許されないし、また不可能である。内部の部課同士でも理解不能なのだから。セクショナリズムが生じ、競争心と嫉妬をもっていがみ合っているのである。
 勝利によって鼓舞されている間は、円滑に働くこともあるが、敗北の斜面を降りはじめると、欠陥が一度に出て来る。
 真珠湾出撃の時はあれほど厳密な電波管制を敷いた日本艦隊が、なぜミッドウェイの前にはやたらに通信を取り交して、艦隊の動きをアメリカに諜知されるようなへまをやったか。山本五十六は六ヵ月の間にばかになってしまったのか。答えは否定的なのである。戦勝におごった軍事組織の全体をひきしめることは、聯合艦隊司令長官個人の能力を越えていたのである。
 海軍は昭和十九年には、日米戦力の比が一〇対一になることを知っていたといってよいくらいまで、的確に予想していた。それなのに開戦に対して「否」といえなかった。いまさら軍備が不十分だ、とは天皇と国民の前でいえなかったからだといわれる。しかしこれは軍令部総長の自尊心と気の弱さにだけ帰することは出来ない。日本海軍全体がそういう合理的な動きが出来ないほど老朽化していたのである。サイレント・ネイヴィの沈黙の内側は空虚だったのだ。”

                           第四章 「海軍」



 “フィリピンのゲリラの歴史は、原住民のよそ者襲撃としてなら、一五二一年にマゼランを殺したマクタン島の酋長にまで遡らなければならない。支配者に対する反抗という観点からすれば、一八九六年スペイン人に対して蜂起したボニフォシアである。一八九八年アメリカが、反乱の拡大によって、実質的にフィリピンの支配者ではなくなっていたスペインと不当な取引をして、新しい主人となってから、反乱は三年続いた。アメリカの歴史は米西戦争に続く鎮圧段階として略述するだけだが、フィリピンの歴史家は米比戦争と呼んでいる。それはアメリカが十二万六千の大軍を送って、三年余かかった鎮圧であった。そしてレイテはアギナルド将軍が降伏した後も長く抵抗を続けた島であった。最後の武力抵抗が終るのは、サマール島南方で一九〇七年のことである。”

                           第二章 「ゲリラ」



 “私はこれからレイテ島上の戦闘について、私が事実と判断したものを、出来るだけ詳しく書くつもりである。七五ミリ野砲の砲声と三八銃の響きを再現したいと思っている。それが戦って死んだ者の霊を慰める唯一のものだと思っている。それが私に出来る唯一のことだからである。”
 
                           第五章 「陸軍」

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 『しょうちゅうとゴム』(1962年教育テレビ放映作品) 上映会

2013年08月14日 | 映画『東京家族』


  朝露のをかのかやはら山風にみだれてものは秋ぞかなしき
   
    朝露の置く岡の萱原は山から吹きおろす風に乱れているが、そのように心乱れて秋は物悲しくてならない。  『新古今和歌集』 新日本古典文学大系11 岩波書店





 先月開かれた上映会について書いておく。

 ああ、ここに「ベ平連」があったんだ、とこの作品の原作脚本,そして独特なナレーションを担当した小田実氏(1932-2007)の名前が会場に共有される時の親しみで、感じられた。

 本来は廃棄されていたはずのこの作品の“キネコ”が現存している経緯については、演出を担当された小中陽太郎氏のこの文章にある。

 
 http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-5879


 「市川森一は、昭和47年に放送した「黄色い涙」が消去された驚きを語っている。わたしはそれよりもさらに10年前に演出した、小田実原作のドラマ『しょうちゅうとゴム』を持っている。私のドラマも、市川同様、ビデオテープには上から次の番組を収録された。しかし全国放送だったので、和田勉が、東京でキネコ(放送時にフィルムに同時収録する。解像度は落ちるが記録にはなる)に撮像してくれたのである。通常それは資料室にもどすべきもので、NHKはそれらすべてを70年代のおわりに廃棄した。わたしの手元に残ったのは、わたしがクビになっていてその指令が届かなかったからである。わたしの書斎には和田直筆の40年前の手書きの包装(放送ではない)が残っている。
 
  【この項、文・小中陽太郎氏(フジテレビ編成制作局調査部刊「AURA」169号(2005/02刊)より引用)



 これが今回上映された。映写を担当された八木信忠氏により、簡単な解説もあった。

 VTRは、1956年にアンペックス社(米)と、ジーメンス社(独)が開発した。
 しかし非常に高価だったために、テープに上書きして繰り返し使った。
 テープの幅は2インチ(約5㎝)あった。
 テレビの生放送は残らないし、ドラマなどもテープに上書きして使うので通常は残らない。
 しかし、キネコ,キネスコの方法で、米国は35㎜フィルムに、日本は16㎜フィルムに残せた。
 キネスコープレコーダーは、RCA名古屋にあった。
 テレビは1秒間に30コマ、映画フィルムは1秒間に24コマ。6コマ分差がある。
 今日は時間がないので、詳しくは説明できない。

 (この部分の説明は、ここに少しあった。)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%8D%E3%82%B3

 
 八木氏は、この後、映写機の傍らに立って、小一時間の上映をされた。


 批評家の四方田犬彦氏による解説もあった。
 この資料が会場に配られた。http://home.c01.itscom.net/ykonaka/130714/2_yobikake.pdf

 
 1960年代の日本のテレビは、これだけのことができた。

 「一度動き出したものは止める事はできない。」

 「敗者は映像をもたない。」大島渚 (1943年以降は、日本の映像がなくなる。)

 「当時難解だと思われたゴダールやアントニオーニは、現在では問題は解体され解決され、ノスタルジック、安心な芸術となり、アクチュアルな役割を終えた。」

 資料以外に四方田氏は、このような言葉を加えながら、詳細に「しょうちゅうとゴム」を読み解いていった。
 山田洋次監督の映画『馬鹿まるだし』への言及もあったが、氏のなかでの山田監督への評価は、高くないようだった。


 上映後、現在のふたりのテレビ番組制作者たちから、そのおかれている、苦境が伝えられた。

 
 音楽の高橋悠治氏については、小中氏のこんな文章があった。http://guis.exblog.jp/i8/

 

 

 

 
 
 

 

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写経 28. 「A Game of Chess」 T.S.Eliot ~ 朝吹真理子

2013年08月12日 | 写経(笑)
The chair she sat in, like a burnished throne,
Glowed on the marble, where the glass
Held up by standards wrought with fruited vines
From which a golden Cupidon peeped out
(Another hid his eyes behind his wing)
Doubled the flames of sevenbranched candelabra
Reflecting light upon the table as
The glitter of her jewels rose to meet it,
From satin cases poured in rich profusion.
In vials of ivory and coloured glass
Unstoppered, lurked her strange synthetic perfumes,
Unguent, powdered, or liquid-troubled, confused
And drowned the sense in odours; stirred by the air
That freshened from the window, these ascended
In fattening the prolonged candle-flames,
Flung their smoke into the laquearia,
Stirring the pattern on the cofferd ceiling.
Huge sea-wood fed with copper
Burned green and orange, framed by the coloured stone,
In which sad light a carved dolphin swam.

Above the antique mantel was displayed
As though a window gave upon the sylvan scene
The change of Philomel, by the barbarous king 
So rudely forced; yet there the nightingale
Filled all the desert with inviolable voice
And still she cried, and still the world pursues,
‘ Jug Jug ’to dirty ears.
And other withered stumps of time
Were told upon the walls; staring forms
Leaned out, leaning, hushing the room enclosed.
Footsteps shuffled on the stair.
Under the firelight, under the brush, her hair
Spread out in fiery points
Glowed into words, then would be savagely still.

‘My nerves are bad to-night. Yes, bad. Stay with me.
‘Speak to me. Why do you never speak. Speak.
‘What are you thinking of? What thinking? What?
‘I never know what you are thinking. Think.’

I think we are in rats' alley
Where the dead men lost their bones.

‘What is that noise?
          The wind under the door.
‘What is that noise now? What is the wind doing?'
          Nothing again nothing.
                         ‘Do
‘You know nothing? Do you see nothing? Do you remember
‘Nothing?

   I remember
Those are pearls that were his eyes.
‘Are you alive, or not? Is there nothing in your head?
                               But
O O O O that Shakespeherian Rag―
It's so elegant
So intelligent
‘What shall I do now? What shall I do?'
‘I shall rush out as I am, and walk the street
‘With my hair down, so. What shall we do tomorrow?
‘What shall we ever do?
              The hot water at ten.
And if it rains, a closed car at four.
And we shall play a game of chess,
Pressing lidless eyes and waiting for a knock upon the door.

When Lil's husband got demobbed, I said―
I didn't mince my words, I said to her myself,
HURRY UP PLEASE ITS TIME
Now Albert's coming back, make yourself a bit smart.
He'll want to know what you done with that money he gave you
To get yourself some teeth. He did, I was there.
You have them all out, Lil, and get a nice set,
He said, I swear, I can't bear to look at you.
And no more can't I, I said, and think of poor Albert,
He's been in the army four years, he wants a good time,
And if you don't give it him, there's others will, I said.
Oh is there, she said. Something o' that, I said.
Then I'll know who to thank, she said, and give me a straight look.
HURRY UP PLEASE ITS TIME
If you don't like it you can get on with it, I said.
Otheres can pick and choose if you can't.
But if Albert makes off, it won't be for lack of telling.
You ought to be ashamed, I said, to look so antique.
(And her only thirty-one.)
I can't help it, she said, pulling a long face,
It's them pills I took, to bring it off, she said.
(She's had five already, and nearly died of young George.)
The chemist said it would be all right, but I've never been the same.
You are a proper fool, I said.
Well, if Albert won't leave you alone, there it is, I said,
What you get married for if you don't want children?
HURRY UP PLEASE ITS TIME
Well, that Sunday Albert was home, they had a hot gammom,
And they asked me in to dinner, to get the beauty of it hot―
HURRY UP PLEASE ITS TIME
HURRY UP PLEASE ITS TIME
Goonight Bill. Goonight Lou. Goonight May. Goonight.
Ta ta. Goonight, Goonight
Good night, ladies, good night, sweet ladies, good night,
   good night.










※ 『きことわ』との直接の関連はありませんが、「チェス」からの連想です。










“「逗子市は地図でみるとイルカのかたちをしています」と百花(ももか)が読み上げた一文に永遠子は驚いた。永遠子が小学生のころは、「逗子市は地図でみると大きな魚のかたちをしています」と教わっていた。永遠子にはそれがダンクルオステウスといった古代魚のすがたにみえていた。娘の代では、イルカのかたちをしているというふれこみにかわっている。しかし、あらためてプリントアウトされた地図のかたちをイルカだと思ってみれば、たしかにそのようにもみえるのだった。百花は「ダンクルオステウスってなに?」「油壺(あぶらつぼ)マリンパークにはいる?」といくつもの質問を永遠子にむける。”

                    『きことわ』 朝吹真理子



“居間からひろがる一面の庭、柳に美男葛(びなんかずら)、百日紅(さるすべり)、名を知らない丈高の草木がきりなく葉擦れし、敷石の青苔(あおごけ)が石目をくくむ。はやばやと葉を落とした裸木のあるところは光線がじかに落ち、土がひかりを吸う。庭の奥はひときわ野放図に枝枝がかさなってゆく。うすみどりに照るところもあれば、青く翳る(かげる)ところもある。貴子ははじめてこの庭の秋のすがたを知った。草陰のさらに向こうからタイワンリスが鳴く。かつてひとなれした狐狸(こり)がバーベキューをしているとごそごそあらわれいでたことが年代の失われた記憶として思い起こされた。バーベキューの埋み火に松毬(まつぼっくり)をいれると形を持したまま炭化すること、午睡からめざめると草木を透して永遠子の髪と畳に流れていた暮れ方のひかり、明け方、緻密につむぎだされた蜘蛛の巣の露に濡れたのを惚ける(ほうける)ようにしてみあげたこと、一瞬一刻ごとに深まるノシランの実の藍(あい)の重さ。そのときどきの季節の推移にそったように、照り、曇り、あるいは雨や雪が垂直に落下して音が撥ねる(はねる)。時間のむこうから過去というのが、いまが流れるようによぎる。ふたたびその記憶を呼び起こそうとしても、つねになにかが変わっていた。同じように思い起こすことはできなかった。いつのことかと、記憶の周囲をみようとするが、外は存在しないとでもいうように周縁はすべてたたれている。かたちがうすうすと消えてゆくというよりは、不断にはじまり不断に途切れる。それがかさなりつづいていた。映画の回想シーンのような溶明溶暗はとられなかった。”

                            『同上』






“映画という機械は人間と同じでまぶたを持っているんです。それは、シャッターというものなんですが、そのまぶたが、何と一秒間に二十四回の速さでまばたきをし続けているんです。映画というのはこんな長いフィルムで、一秒間に二十四枚の絵がカタカタカタと通り過ぎていくんですね。お昌ちゃんがふっと振り向くのに一秒かかるとすると、それは二十四枚の寸断された瞬間の絵の連なりになっているんです。それが連続して送り出されると、たとえば列車に乗っていて近くの線路際の小石など見ていると、流れて線になってしまう。あんなふうに映画の画面も流れてしまうのです。けれども、車窓でさっと素早く視線を振ると、瞬間、小石の形が残像のようにまぶたの裏に焼きついて残りますよね。映画のひとコマはちょうどそれと同じで、そのまぶた代わりになるのがシャッターで、覆いかくされた、二十四分の一秒の闇なのです。つまりシャッターというものは人間のまぶたと同じでレンズの前をふさいじゃうわけですね。しかも本当はスクリーンに絵が映っている時間よりも、スクリーンが闇になっている時間のほうが長いんです。 (中略)

だから映画は本当は目の前に映し出されたものを見ているんじゃなくて、見たと信じ、目を閉じて、まぶたの裏に残っているものを見ているんですね。”


                              『ワンス・アポン・ア・タイム・イン尾道』 大林宣彦 (1987.8.15発行)                              

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