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満開のソメイヨシノの迫力❗

2022年04月02日 16時35分18秒 | いろいろな出来事




サクラには、パワーが有りますね⭐
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ソメイヨシノのツボミを愛でる

2022年04月02日 15時00分13秒 | いろいろな出来事
ツボミの地味な働きが、美しいサクラの花を創りますね🍀




3/26/2022
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プーチン大統領、失脚の兆候 側近・諜報機関に不穏な動き

2022年04月02日 11時05分03秒 | 国際情勢のことなど
プーチン大統領、失脚の兆候 側近・諜報機関に不穏な動き…平和裏に政権交代画策か 「政変の予兆」「毒物や神経剤は常套手段」専門家



苦戦が続くロシア軍はウクライナの首都キエフの軍事作戦を縮小すると発表したが、部隊を再配置して空爆や攻撃を続けている。ウラジーミル・プーチン大統領には正しい情報が伝えられていないとみられ、停戦交渉でも大きな障害となりそうだ。「裸の王様」のプーチン氏周辺では、側近や諜報機関、軍などによる「政変」の予兆があると専門家は指摘する。


4/1/2022




失脚劇は、どう実現するのか。 米国防総省のカービー報道官は30日の記者会見で、ロシア軍がキエフ周辺に集めた部隊の20%弱を再配置し始めたとの分析を明らかにした。一部はベラルーシに移動しているが、部隊をロシアに戻す動きはなく圧力を弱めていないと指摘した。


 ロシア軍は武器や食料の補給も不十分とされ、戦況は泥沼化が進む。西側諸国の制裁でロシア経済は機能不全状態だが、ホワイトハウスのベディングフィールド広報部長は同日、軍幹部や高官が「怖くて真実を伝えられない」ため、プーチン氏には誤った情報がもたらされているとの分析を明らかにした。


 米メディアによると、連邦軍参謀本部情報総局(GRU)のトップでもあるセルゲイ・ショイグ国防相らとの関係に緊張が走っている。ショイグ氏は一時、消息不明となったが、政権周辺ではアナトリー・チュバイス大統領特別代表が辞任。ロシア連邦保安局(FSB)のセルゲイ・ベゼダ氏らが自宅軟禁された。 ウクライナ国家安全保障・国防会議(NSDC)のオレクシー・ダニーロフ書記は、ロシア軍の主要幹部らが公の場から姿を消したのは、ロシア当局がウクライナでの失敗の責任者を調査しているとの見方を示す。


 「一連の動きは、何らかの政変の予兆ではないか」とみるのは、元公安調査庁職員として、ロシアや国際テロ部門などを歴任した日本戦略研究フォーラム政策提言委員の藤谷昌敏氏。

 「ロシアの諜報機関内部には米中央情報局(CIA)や英秘密情報部(MI6)の内通者が複数いると考えてよい。また、ウクライナの諜報機関も前身はロシアと同じソ連の諜報機関で、元同僚など個人的人脈もある。プーチン氏の独断で孤立化を招いたことや厳しい経済制裁に耐え切れず、体制や利権を維持しようという動きが政権内部にあっても不思議ではない」

 クレムリンの「宮廷クーデター」の兆候も報じられ始めた。英紙タイムズ(電子版)は23日、「プーチン氏に対するFSBによるクーデターのリスクが毎週、高まっている」とするロシア諜報機関中枢の内部告発者の見方を報じた。

「ロシアは追い詰められている」というFSBの内部文書も流出している。 ウクライナ国防省情報総局は公式フェイスブックで、政財界エリートの間で反プーチンの動きがあり、FSBのアレクサンドル・ボルトニコフ長官を「プーチンの後継者と考えている」と発信する。 

ソ連国家保安委員会(KGB)やFSB長官経験もあるプーチン氏は、軍や治安機関出身者「シロビキ」の強固なネットワークで守られている。だが、ソ連時代からフルシチョフ元首相ら指導者が突然失脚することは珍しくない。

 藤谷氏は「政権内部は、民衆の蜂起などの形で政権交代劇が起きることは利権を失うので避けたいと考えているだろう。プーチン側の守旧派と、反プーチンの新興派が綱引きした上で、『大統領の急病』などの口実で平和裏に政権交代する方向で諜報機関が画策しているとみられるが、最悪の場合、軍事クーデターの可能性も否定できない」とみる。 

2018年に西側諸国への協力疑惑を着せられたGRU将校と家族が、20年には「反プーチン」の野党指導者のナワリヌイ氏が神経剤「ノビチョク」で襲撃された。 藤谷氏は「GRUの秘密工作部隊は毒物や神経剤を使うのが常套(じょうとう)手段で、1970年代にはドアノブに塗布し、爪先から体内に入る猛毒も駆使できたほどだ。

ソ連時代のスターリンの死因も定かではなく、諜報機関による暗殺説もある。プーチン氏も警戒しているだろうが、自ら作った世界なので仕方がない面もある」と指摘した。


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真珠湾攻撃にも参加した“歴戦の名パイロット”が、戦後「幼稚園の園長」になったワケ

2022年04月02日 10時06分08秒 | 歴史的なできごと
真珠湾攻撃にも参加した“歴戦の名パイロット”が、戦後「幼稚園の園長」になったワケ



零戦搭乗員として、真珠湾作戦、ミッドウェー海戦、ガダルカナル攻防戦など最前線で戦い続け、何度も死地をくぐり抜けてきた原田要さん。戦後は平和を願い、幼児教育に生涯を捧げてきた。

4/1/2022

 【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…

!  戦後50年を迎える頃まで、戦時中のことは一切語ることはなかったが、あることがきっかけで、戦場の過酷さ、悲惨さを語り残すことを決意する。

  それは、湾岸戦争での、まるでヴァーチャルゲームのような映像と、それに対する若者たちのあまりに軽すぎる反応を見聞きしたことだった。  

<【前編】歴戦の名パイロットは、なぜ沈黙を破って戦場を語り始めたのか>

に引き続き、真珠湾攻撃に参加し、機動部隊の上空直衛の任務にあたった原田さんのその後の人生について語る。

「日本は負けた」と思い、目の前が真っ暗に


昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦で炎上する空母「飛龍」。原田さんは「飛龍」から発艦した最後の搭乗員だった

 昭和16年9月、原田さんに空母「蒼龍」への転勤命令がくだる。急いで家を片付け、精さんを長野に帰して、勇躍乗艦した原田さんは、ここで初めて零戦に乗ることになった。12月8日、真珠湾攻撃。原田さんに与えられた任務は、攻撃隊の掩護ではなく、機動部隊の上空直衛だった。

  「この日をもって、日本は悲惨な道をたどることになるわけですが、戦場にいる私たちには、日本がこの先どうなるんだろう、などと考える余裕もなく、ただ、国や家族のために戦うのだという気持ちでいっぱいでした」

  「蒼龍」の転戦にともない、原田さんはウェーク島攻略作戦、オーストラリア北西部のダーウィン空襲、続いて昭和17年4月5日、セイロン島コロンボ港空襲に参加。コロンボ上空ではイギリス軍戦闘機と空戦、5機(うち不確実2機)を撃墜している。 

 「敵の飛行機は逃げ足が速くて、格闘戦どころではありません。そういうときは、逃げていく先に7ミリ7(7.7ミリ機銃)を撃ちこんでやるんです。そしたら、敵機は曳痕弾に驚いて回避する。少し距離が縮まる。それを繰り返して蛇行運動させ、近接して最後に20ミリ機銃で墜とすんですがね。相手の顔なんか見えませんよ。実は、私は射撃は得意じゃなかった。でも、実戦になると、射撃のうまい、へたはあまり関係なく、気の弱いほうが負けです。先に避けたほうがやられるんです」  ところが――。 

 「撃墜を重ねて、つい深追いしてしまい、あらかじめ決められた集合点に戻ったときにはもう、味方機は引き上げたあとでした。さあ困った。単機での洋上航法にも自信がないし、母艦に還る燃料があるかどうかもわからない。仕方がないから敵の飛行場に戻って自爆しようかと思っていたら、零戦が1機、私の横にスーッと寄ってきて、見れば名前も知らない若い搭乗員で、指を3本立てて撃墜数を示しながら、ニコニコと編隊を組んできました。 

 私は、この搭乗員を死なせてはかわいそうだと思って、よし、それならば、と、自分なりの航法で帰ってみたら、奇跡的に母艦にたどり着いたんです。その若い搭乗員は、母艦が見えると喜んじゃって、一目散に自分の艦に帰っていきましたよ」 

 そして昭和17(1942)年6月5日、ミッドウェー海戦。この日、原田さんは、上空哨戒の戦闘機小隊長(3機編隊の長)として4度にわたって発艦した。 

 「2度めに発艦したとき、水平線すれすれに敵機の大群が見えました。これは雷撃機だと直感、1発も命中させてなるものかと、戦闘機は一斉にそれに襲いかかりました。当時のわれわれの常識では、艦にとっていちばん怖いのは魚雷で、ふつう、250キロ爆弾ぐらいで軍艦が沈むことはない、ということになっていましたから、急降下爆撃機のことはまったく念頭にありませんでした」


  戦闘機隊は来襲した敵雷撃機のことごとくを撃墜、わずかに放たれた魚雷も巧みな操艦により回避される。弾丸を撃ちつくした原田さんは、敵襲の合間を見て着艦。一服する間もなく、またも敵襲で予備機に乗り換えて発艦。敵はふたたび雷撃機、原田さんは列機(僚機)を引き連れて、敵機の後上方から反復攻撃をかける。 

 「そのとき、三番機の長澤源蔵君が、私の目の前で敵雷撃機の旋回銃の機銃弾を浴び、火だるまとなって墜落しました。あれは私の誘導が悪かった。私が1機を撃墜して次の敵機を狙うときに、スローロールを打って連続攻撃をかけようとして、二番機、三番機もあとにならってきたんですが、それが敵に大きく背中を見せる形になってしまった。 

 敵に腹を見せるとか、背中を見せるとか、いちばん危険なことなのに、失敗でした。それで、敵が私を狙って撃った機銃弾が、同じコースを遅れて入った三番機に命中したんです。……

本当に、列機がやられるのを見るほど、つらいものはありません」 

 長澤機の最期を見届けた原田さんが、気を取り直して周囲を見渡すと、そこには信じられない光景が広がっていた。

  つい先ほどまで威容を誇っていた「加賀」「赤城」「蒼龍」の3隻の空母から空高く立ち上る火柱。零戦隊が海面すれすれの敵雷撃機を攻撃している間に、上空から襲ってきた急降下爆撃機の投下した爆弾が、相次いで命中したのだ。  

原田さんは、ただ1隻、無傷で残った「飛龍」に着艦した。ほどなく、整備のできた零戦で、またもただちに発艦するよう命じられた。 

 「飛行機が艦橋よりずっと前にあるのに驚きました。滑走距離はぎりぎりで、はたして発艦できるか不安でしたが、整備員に尾翼をしっかり押さえさせてエンジンをいっぱいにふかし、離艦すると同時に脚上げ操作をしました。たちまち機は沈み込み、海面すれすれでやっと浮力がついて上昇を始めました」

  早く上昇して敵機を墜とさなければ、と気は焦るばかり。高度が500メートルに達した頃、ふと後ろを振り返ると、「飛龍」も被弾、火柱が上がるのが見えた。  

「そのとき私は、『日本は負けた』と思って、目の前が真暗になりました。ともあれ直衛の任務を果たそうと、次々に飛来する敵機を攻撃すること約2時間、ついに自機も被弾、燃料もなくなって、夕闇せまる海面に不時着水しました」


<略>


戦争の話をした日は夜通しうなされていた

原田要さんと精さん(撮影・神立尚紀)

 原田さんは、園長として子供たちの敬愛を集め、平成22(2010)年、94歳の年に引退するまで、幼児教育に情熱を注いだ。園長を引退したのと同じ年、70年近く連れ添ってきた精さんが、87歳で亡くなった。 


 原田さんが取材を受けるとき、精さんはいつもニコニコと傍らに座っていて、難聴のために質問の趣旨が伝わっていなかったり、原田さん自身に言い間違いがあったりすると、耳元でそのことを伝えて修正したものだった。メディアが伝える、原田さんの話す内容が目に見えて歪曲されてきたのは、精さんが亡くなったあとのことである。  

私が本で原田さんのことを紹介し、取材の依頼が引きも切らなくなった頃、精さんに、 

 「主人はああ見えて、戦争の話をした晩は夜通し、苦しそうにうなされるんですよ。見ていてとっても辛くて。年も年だし、紹介してくれというお話があっても、お断りいただけると助かります……」  

と言われてハッとしたことがある。 

 「こんど生まれ変わったら、もっと楽な人と一緒になりたいわ」  

などと言いながら、夫を思う気持ちは、いつもひしひしと伝わってきた。

戦争のことでいい思い出なんて一つもない

 原田さんは、平成27(2015)年8月、満99歳の誕生日を迎えた。これは当時、日本海軍の戦闘機搭乗員としての長寿記録でもあった(令和4年3月30日現在の長寿記録は、三上一禧さんの104歳)。穏やかな人柄もあいまって、かつての戦友や部下たちの間でも、絶大な尊敬を集めていた。 

 私が接した20年あまりの間に、原田さんが怒りを露わにするのを見たのは、終戦記念日に靖国神社に参拝したさい、テレビ局記者にマイクを向けられ、 

 「A級戦犯が合祀されている靖国神社にどんな思いでお参りされるんですか」  

と聞かれて、  

「そんなことは関係ない。私は祀られている友達に会いに来たんだ。ここで会おうって約束したんだから」  

と憮然としていたのと、ある戦友会で、海軍兵学校出身の、年下の元上官とのやりとりで癇に障ることがあったらしく、 

 「なんだい、あいつは。いつまでも士官風を吹かせやがって」  

と声を荒げたのと、その2回だけである。

  「靖国神社へ戦友のみたまに会いに行く」ことと、

「兵から叩き上げたベテラン搭乗員としてのプライド」は、原田さんのなかで「平和への思い」と矛盾するものではなかった。 

 「若い頃、私は死ぬということが怖くて、お坊さんに教えを乞いに行ったこともあったけど、克服できなかった。でもいざ、実際にその場に直面すると、案外平静なものでした。戦争で死ぬような目に何度も遭いながら、この歳まで生きてきて、人の命なんてわからないものだとつくづく思います。寿命は神様から与えられたもので、自分ではどうにもならないものなんですね。

  いまの若い人のなかには、日本がかつてアメリカと戦争をしたことを知らない人も多いと聞きます。年寄りの目からみると、あの戦争で、多くの犠牲の代償として得た平和が、粗末にされているような気がしてなりません。歴史を正しく認識して、平和のありがたさを理解しないと、また戦争を起こしてしまう。

  軍隊や戦争のことでいい思い出なんて一つもない。ほんとうは思い出すのもいやだけど、命ある限り、自分たちが体験したことを次の世代に語り伝えることが、われわれの世代に課せられた使命だと思っています。

  とはいえ、幼稚園で、小さな子供たちにそのことを教えるのは大変です。そこで私は、まず物は大事にしなさい、どんな物でもその物の身になって、けっして無駄には使わない、それが自分の命を守ることにつながるんだよ、という話から始めるようにしてきたんです」  

――原田さんの左腕には、ガダルカナル島上空で負ったすさまじい銃創が残っていた。そんな実体験に裏打ちされた言葉は、限りなく重い。その思いは、子供たちにもきっと伝わっていたに違いない。原田さんを語るのに、メディアによる誇張など一切無用だったのだ。

神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家)

https://news.yahoo.co.jp/articles/afa8109db7697bf49f3b56094fb39ef67401a506?page=5
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土曜日の朝ですね🍀

2022年04月02日 09時01分14秒 | いろいろな出来事
なんだか、梅雨のような陽気ですね❗




7/31/2021
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