>ダッコちゃん
ダッコちゃん、だっこちゃんは、1960年(昭和35年)に発売されたビニール製の空気で膨らませる人形の愛称。後に製造元のタカラ(→タカラトミー)もこの名称を使うようになった[1](後述の通り、21世紀の復活版では正式な商品名として「だっこちゃん」が採用されている)。またそのモチーフとなったキャラクター
>今だと、「人種差別」で無理筋でしょうね藁
誕生[編集]
もともとは玩具の一種として、1960年(昭和35年)4月[2][3][4]に発売された。当初は「木のぼりウィンキー」、「黒ん坊ブラちゃん」といった名前で売り出された。「ウィンキー」という商品名は目玉が閉じたり開いたりしてウィンクしているように見えることからつけられた[4]。
当初の製造元は当時の宝ビニール工業所(後の株式会社タカラ→タカラトミー)。製造工場は横浜市泉区内。発売元はツクダ屋玩具(ツクダヤ、後の株式会社ツクダ)。
真っ黒な人型をした本商品は両手足が輪状になっており、木にしがみつくコアラのようなポーズをとっている。
「ダッコちゃん」の名前の通り、腕などに抱きつくようにぶら下げることが可能だった。発売当初の販売価格は180円[5][6][4]。腰蓑をつけた黒人のように見えるその姿は極限までディフォルメされており、非常にシンプルな形状だった。
ダッコちゃん生みの親である大木紀元は、当時、武蔵野美術大学に通いながら社員として働いていた。現:創造学園大学創造芸術学部の学科長兼教授。
ダッコちゃんのヒントになったのはディズニー映画の『ボクはむく犬』である[4]。
1960年のブーム[編集]
1960年6月ごろから、若い女性を中心にブームの兆しが起こった[4]。日本における玩具としては、1958年(昭和33年)のフラフープに続くブームとなった[4]。ぶら下がる機能を活かしてこの人形を腕にぶら下げて歩く女性が時折見られるようになった。マスコミが取材対象とする中で、この商品には「ダッコちゃん」(平仮名表記で「だっこちゃん」とも)という愛称が与えられた[4]。
銀座の小松ストアー(後のギンザコマツ)のディスプレイに展示される、女子社員が腕にぶら下げて食事に出かけることなどで話題になり始め[7]、テレビに登場した結果ブームに火がつき、大相撲夏場所の中継でテレビ画面の端にぶら下げた女性が映りこむと騒動になった[7]。注文は大幅に増え、玩具店、デパートでは常に在庫切れとなった。定価の数倍で取引されることもあった[4]。デパートが販売のために発行した整理券にダフ屋が登場したこともあったという[4]。
当時のビニール人形の経済単位はせいぜい500ダース程度、3000ダースで大ヒットとされ、ダッコちゃんの当初の販売目標は2000ダースであったという[4]。しかし実際には、発売から半年で真正品のみで240万個が販売される[2]大ヒット商品となり、製造元の宝ビニール工業所がタカラ(現・タカラトミー)となる基盤をつくった。
同年夏には海水浴場において水着姿の若い女性が腕にぶら下げる姿や、1960年ローマオリンピックの日本代表選手が腕にぶら下げて羽田空港を出発する風景も見られた[4]。玩具業界にあった「黒は夏の玩具に不向き」という概念を打ち破った[4]。
製造が間に合わないほどの売れ行きを見せたこと、簡単な構造の商品だったことなどから多くの偽物が流通し、偽物を含めた出荷数は1000万個に達したと推定される[7][8]。皮肉にもそのおかげで全国に「黒いビニール人形」は拡大し、1960年代を代表する玩具となった[注釈 1]。本物の特徴として目に貼られた特殊なシール(レンチキュラー印刷)により見る角度によってウィンクすることがあげられるが、多くの偽物にはそれが無く、真贋の目安になった[注釈 2]。1960年10月12日にはツクダヤがこのシールを単体で販売開始した[10]。価格は3体分の目玉と糊のセットで80円[10]。
大宅壮一は『週刊コウロン』(中央公論社)1960年8月2日号の記事においてダッコちゃんブームを黒人文化への関心の高まりによるものと分析し、その背景にはアメリカの進駐によりもたらされた白人文化へのレジスタンスがあるのだろうと論じた[4]。
ブームによりソフトビニール人形のみならずさまざまなキャラクターグッズが開発・販売された。しかし、ダッコちゃん自体のブームは日本国内では半年、国外輸出を含めても1年で沈静化し[6]ほとんどの商品は販売を停止した。
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