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ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記
Kindle版
宮沢 賢治 (著) 形式: Kindle版
大正~昭和期の童話作家、詩人である宮沢賢治の短編童話。生前未発表。ばけものの国に飢饉が続き、両親は食べ物を探しに出て行ったまま死んでしまい、ネネムと妹のマミミが残される。マミミとも離れてしまったネネムは、苦労した結果世界裁判長の職に就く。しかし誤って人間の世界へ落ちてしまい、「出現罪」で自分を裁くことになる。設定がユニークなのでもっと有名になり得た作品だろうが、原稿の焼失や不明箇所が多いことが惜しまれる。
ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記
宮沢賢治
一、ペンネンネンネンネン・ネネムの独立
〔冒頭原稿数枚焼失〕のでした。実際、東のそらは、お「キレ」さまの出る前に、琥珀こはく色のビールで一杯いっぱいになるのでした。ところが、そのまま夏になりましたが、ばけものたちはみんな騒さわぎはじめました。
そのわけ〔十七字不明〕ばけもの麦も一向みのらず、大〔六字不明〕が咲いただけで一つぶも実になりませんでした。秋になっても全くその通〔七字不明〕栗くりの木さえ、ただ青いいがばかり、〔八字不明〕飢饉ききんになってしまいました。
その年は暮れましたが、次の春になりますと飢饉はもうとてもひどくなってしまいました。
ネネムのお父さん、森の中の青ばけものは、ある日頭をかかえていつまでもいつまでも考えていましたが、急に起きあがって、
「おれは森へ行って何かさがして来るぞ。」と云いいながら、よろよろ家を出て行きましたが、それなりもういつまで待っても帰って来ませんでした。たしかにばけもの世界の天国に、行ってしまったのでした。
ネネムのお母さんは、毎日目を光らせて、ため息ばかり吐ついていましたが、ある日ネネムとマミミとに、
「わたしは野原に行って何かさがして来るからね。」と云って、よろよろ家を出て行きましたが、やはりそれきりいつまで待っても帰って参りませんでした。たしかにお母さんもその天国に呼ばれて行ってしまったのでした。
ネネムは小さなマミミとただ二人、寒さと飢うえとにガタガタふるえて居おりました。
するとある日戸口から、
「いや、今日は。私はこの地方の飢饉を救たすけに来たものですがね、さあ何でも喰たべなさい。」と云いながら、一人の目の鋭するどいせいの高い男が、大きな籠かごの中に、ワップルや葡萄ぶどうパンや、そのほかうまいものを沢山たくさん入れて入って来たのでした。
二人はまるで籠を引ったくるようにして、ムシャムシャムシャムシャ、沢山喰べてから、やっと、
「おじさんありがとう。ほんとうにありがとうよ。」なんて云ったのでした。
男は大へん目を光らせて、二人のたべる処ところをじっと見て居りましたがその時やっと口を開きました。
「お前たちはいい子供だね。しかしいい子供だというだけでは何にもならん。わしと一緒いっしょにおいで。いいとこへ連れてってやろう。尤もっとも男の子は強いし、それにどうも膝ひざやかかとの骨が固まってしまっているようだから仕方ないが、おい、女の子。おじさんとこへ来ないか。一日いっぱい葡萄パンを喰べさしてやるよ。」
ネネムもマミミも何とも返事をしませんでしたが男はふいっとマミミをお菓子かしの籠の中へ入れて、
「おお、ホイホイ、おお、ホイホイ。」と云いながら俄にわかにあわてだして風のように家を出て行きました。
何のことだかわけがわからずきょろきょろしていたマミミ〔一字不明〕、戸口を出てからはじめてわっと泣き出しネネムは、
「どろぼう、どろぼう。」と泣きながら叫さけんで追いかけましたがもう男は森を抜ぬけてずうっと向うの黄色な野原を走って行くのがちらっと見えるだけでした。マミミの声が小さな白い三角の光になってネネムの胸にしみ込こむばかりでした。
ネネムは泣いてどなって森の中をうろうろうろうろはせ歩きましたがとうとう疲つかれてばたっと倒たおれてしまいました。
それから何日経たったかわかりません。
ネネムはふっと目をあきました。見るとすぐ頭の上のばけもの栗の木がふっふっと湯気を吐はいていました。
その幹に鉄のはしごが両方から二つかかって二人の男が登って何かしきりにつなをたぐるような網あみを投げるようなかたちをやって居りました。
ネネムは起きあがって見ますとお「キレ」さまはすっかりふだんの様になっておまけにテカテカして何でも今朝あたり顔をきれいに剃そったらしいのです。
それにかれ草がほかほかしてばけものわらびなどもふらふらと生え出しています。ネネムは飛んで行ってそれをむしゃむしゃたべました。するとネネムの頭の上でいやに平べったい声がしました。
「おい。子供。やっと目がさめたな。まだお前は飢饉のつもりかい。もうじき夏になるよ。すこしおれに手伝わないか。」
見るとそれは実に立派なばけもの紳士しんしでした。貝殻かいがらでこしらえた外套がいとうを着て水煙草みずたばこを片手に持って立っているのでした。
「おじさん。もう飢饉は過ぎたの。手伝いって何を手伝うの。」
「昆布こんぶ取りさ。」
「ここで昆布がとれるの。」
「取れるとも。見ろ。折角やってるじゃないか。」
なるほどさっきの二人は一生けん命網をなげたりそれを繰くったりしているようでしたが網も糸も一向見えませんでした。
「あれでも昆布がとれるの。」
「あれでも昆布がとれるのかって。いやな子供だな。おい、縁起えんぎでもないぞ。取れもしないところにどうして工場なんか建てるんだ。取れるともさ。現におれはじめ沢山のものがそれでくらしを立てているんじゃないか。」
ネネムはかすれた声でやっと
「そうですか。おじさん。」と云いました。
「それにこの森はすっかりおれの森なんだからさっきのように勝手にわらびなんぞ取ることは疾とうに差し止めてあるんだぞ。」
ネネムは大変いやな気がしました。紳士は又云いました。
「お前もおれの仕事に手伝え。一日一ドルずつ手間をやるぜ。そうでもしなかったらお前は飯を食えまいぜ。」
ネネムは泣き出しそうになりましたがやっとこらえて云いました。
「おじさん。そんなら僕ぼく手伝うよ。けれどもどうして昆布を取るの。」
「ふん。そいつは勿論もちろん教えてやる。いいか、そら。」紳士はポケットから小さく畳たたんだ洋傘こうもりがさの骨のようなものを出しました。
「いいか。こいつを延ばすと子供の使うはしごになるんだ。いいか。そら。」
紳士はだんだんそれを引き延ばしました。間もなく長さ十米メートルばかりの細い細い絹糸でこさえたようなはしごが出来あがりました。
「いいかい。こいつをね。あの栗の木に掛かけるんだよ。ああ云う工合ぐあいにね。」紳士はさっきの二人の男を指さしました。二人は相かわらず見えない網や糸をまっさおな空に投げたり引いたりしています。
紳士ははしごを栗の樹きにかけました。
「いいかい。今度はおまえがこいつをのぼって行くんだよ。そら、登ってごらん。」
ネネムは仕方なくはしごにとりついて登って行きましたがはしごの段々がまるで針金のように細くて手や、足に喰くい込んでちぎれてしまいそうでした。
「もっと登るんだよ。もっと。そら、もっと。」下では紳士が叫んでいます。ネネムはすっかり頂上まで登りました。栗の木の頂上というものはどうも実に寒いのでした。それに気がついて見ると自分の手からまるで蜘蛛くもの糸でこしらえたようなあやしい網がぐらぐらゆれながらずうっと青空の方へひろがっているのです。そのぐらぐらはだんだん烈はげしくなってネネムは危なく下に落ちそうにさえなりました。
「そら、網があったろう。そいつを空へ投げるんだよ。手がぐらぐら云うだろう。そいつはね、風の中のふかやさめがつきあたってるんだ。おや、お前はふるえてるね。意気地なしだなあ。投げるんだよ、投げるんだよ。そら、投げるんだよ。」
ネネムは何とも云えず厭いやな心持がしました。けれども仕方なく力一杯いっぱいにそれをたぐり寄せてそれからあらんかぎり上の方に投げつけました。すると目がぐるぐるっとして、ご機嫌きげんのいいおキレさままでがまるで黒い土の球たまのように見えそれからシュウとはしごのてっぺんから下へ落ちました。もう死んだとネネムは思いましたがその次にもう耳が抜けたとネネムは思いました。というわけはネネムはきちんと地面の上に立っていて紳士がネネムの耳をつかんでぶりぶり云いながら立っていました。
「お前もいくじのないやつだ。何というふにゃふにゃだ。俺おれが今お前の耳をつかんで止めてやらなかったらお前は今ごろは頭がパチンとはじけていたろう。おれはお前の大恩人ということになっている。これから失礼をしてはならん。ところでさあ、登れ。登るんだよ。夕方になったらたべものも送ってやろう。夜になったら綿のはいったチョッキもやろう。さあ、登れ。」
「夕方になったら下へ降りて来るんでしょう。」
「いいや。そんなことがあるもんか。とにかく昆布がとれなくちゃだめだ。どれ一寸ちょっと網を見せろ。」
紳士はネネムの手にくっついた網をたぐり寄せて中をあらためました。網のずうっとはじの方に一寸四方ばかりの茶色なヌラヌラしたものがついていました。紳士はそれを取って
「ふん、たったこれだけか。」と云いながらそれでも少し笑ったようでした。そしてネネムは又はしごを上って行きました。
やっと頂上へ着いて又力一杯空に網を投げました。それからわくわくする足をふみしめふみしめ網を引き寄せて見ましたが中にはなんにもはいっていませんでした。
「それ、しっかり投げろ。なまけるな。」下では紳士が叫んでいます。ネネムはそこで又投げました。やっぱりなんにもありません。又投げました。やっぱり昆布ははいりません。
つかれてヘトヘトになったネネムはもう何でも構わないから下りて行こうとしました。すると愕おどろいたことにははしごがありませんでした。
そしてもう夕方になったと見えてばけものぞらは緑色になり変なばけものパンが下の方からふらふらのぼって来てネネムの前にとまりました。紳士はどこへ行ったか影かげもかたちもありません。
向うの木の上の二人もしょんぼりと頭を垂れてパンを食べながら考えているようすでした。その木にも鉄のはしごがもう見えませんでした。
ネネムも仕方なくばけものパンを噛かじりはじめました。
その時紳士が来て、
「さあ、たべてしまったらみんな早く網を投げろ。昆布を一斤きんとらないうちは綿のはいったチョッキをやらんぞ。」とどなりました。
ネネムは叫びました。
「おじさん。僕もうだめだよ。おろしてお呉くれ。」
紳士が下でどなりました。
「何だと。パンだけ食ってしまってあとはおろしてお呉れだと。あんまり勝手なことを云うな。」
「だってもううごけないんだもの。」
「そうか。それじゃ動けるまでやすむさ。」と紳士が云いました。ネネムは栗の木のてっぺんに腰こしをかけてつくづくとやすみました。
その時栗の木が湯気をホッホッと吹ふき出しましたのでネネムは少し暖まって楽になったように思いました。そこで又元気を出して網を空に投げました。空では丁度星が青く光りはじめたところでした。
ところが今度の網がどうも実に重いのです。ネネムはよろこんでたぐり寄せて見ますとたしかに大きな大きな昆布が一枚ひらりとはいって居りました。
ネネムはよろこんで
「おじさん。さあ投げるよ。とれたよ。」
と云いながらそれを下へ落しました。
「うまい、うまい。よし。さあ綿のチョッキをやるぜ。」
チョッキがふらふらのぼって来ました。ネネムは急いでそれを着て云いました。
「おじさん。一ドル呉れるの。」
紳士が下の浅黄色のもやの中で云いました。
「うん。一ドルやる。しかしパンが一日一ドルだからな。一日十斤以上こんぶを取ったらあとは一斤十セントで買ってやろう。そのよけいの分がおまえのもうけさ。ためて置いていつでも払はらってやるよ。その代り十斤に足りなかったら足りない分がお前の損さ。その分かしにして置くよ。」
ネネムは実にがっかりしました。向うの木の二人の男はもういくら星あかりにすかして見ても居ないようでした。きっとあんまり仕事がつらくて消滅しょうめつしてしまったのでしょう。さてネネムは決心しました。それからよるもひるも栗の木の湯気とばけものパンと見えない網と紳士と昆布と、これだけを相手にして実に十年というものこの仕事をつづけました。これらの対手あいての中でもパンと昆布とがまず大将でした。はじめの四年は毎日毎日借りばかり次の五年でそれを払いおしまいの三ヶ月でお金がたまりました。そこで下に降りてたまった三百ドルをふところにしてばけもの世界のまちの方へ歩き出しました。
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四、ペンネンネンネンネン・ネネムの安心
ばけもの世界裁判長、ペンネンネンネンネン・ネネムの評判は、今はもう非常なものになりました。この世界が、はじめ一疋ぴきのみじんこから、だんだん枝えだがついたり、足が出来たりして発達しはじめて以来、こんな名判官は実にはじめてだとみんなが申しました。
シャァロンというばけものの高利貸でさえ、ああ実にペンネンネンネンネン・ネネムさまは名判官だ、ダニーさまの再来だ、いやダニーさまの発達だとほめた位です。
ばけもの世界長からは、毎日一つずつ位をつけて来ましたし、勲章くんしょうを贈おくってよこしましたので、今はその位を読みあげるだけに二時間かかり、勲章はネネムの室へやの壁かべ一杯になりました。それですから、何かの儀式ぎしきでネネムが式辞を読んだりするときは、その位を読むのがつらいので、それをあらかじめ三十に分けて置いて、三十人の部下に一ぺんにがやがやと読み上げて貰もらうようにしていましたが、それでさえやはり四分はかかりました。勲章だってその通りです。どうしてネネムの胸につけ切れるもんではありませんでしたから、ネネムの大礼服の上着は、胸の処ところから長さ十米メートルばかりの切れがずうと続いて、それに勲章をぞろっとつけて、その帯のようなものを、三十人の部下の人たちがぞろぞろ持って行くのでした。さてネネムは、この様な大へんな名誉めいよを得て、そのほかに、みなさんももうご存知でしょうが、フゥフィーボー博士のほかに、誰たれも決して喰べてならない藁のオムレツまで、ネネムは喰べることを許されていました。それですから、誰が考えてもこんな幸福なことがない筈はずだったのですが、実はネネムは一向面白くありませんでした。それというのは、あのネネムが八つの飢饉ききんの年、お菓子の籠かごに入れられて、「おおホイホイ、おおホイホイ。」と云いながらさらって行かれたネネムの妹のマミミのことが、一寸も頭から離れなかった為ためです。
そこでネネムは、ある日、テーブルの上の鈴リンをチチンと鳴らして、部下の検事を一人、呼びました。
「一寸君にたずねたいことがあるのだが。」
「何でございますか。」
「膝ひざやかかとの骨の、まだ堅かたまらない小さな女の子をつかう商売は、一体どんな商売だろう。」
検事はしばらく考えてから答えました。
「それはばけもの奇術きじゅつでございましょう。ばけもの奇術師が、よく十二三位までの女の子を、変身術だと申して、ええこんどは犬の形、ええ今度は兎うさぎの形などと、ばけものをしんこ細工のように延ばしたり円めたり、耳を附つけたり又とったり致いたすのをよく見受けます。」
「そうか。そして、そんなやつらは一体世界中に何人位あるのかな。」
「左様。一昨年の調べでは、奇術を職業にしますものは、五十九人となって居おりますが、只今ただいまは大分減ったかと存ぜられます。」
「そうか。どうもそんなしんこ細工のようなことをするというのは、この世界がまだなめくじでできていたころの遺風だ。一寸視察に出よう。事によると禁止をしなければなるまい。」
そこでネネムは、部下の検事を随したがえて、今日もまちへ出ました。そして検事の案内で、まっすぐに奇術大一座のある処に参りました。奇術は今や丁度まっ最中です。
ネネムは、検事と一緒いっしょに中へはいりました。楽隊が盛さかんにやっています。ギラギラする鋼はがねの小手だけつけた青と白との二人のばけものが、電気決闘けっとうというものをやっているのでした。剣けんがカチャンカチャンと云うたびに、青い火花が、まるで箒ほうきのように剣から出て、二人の顔を物凄ものすごく照らし、見物のものはみんなはらはらしていました。
「仲々勇壮ゆうそうだね。」とネネムは云いました。
そのうちにとうとう、一人はバアと音がして肩かたから胸から腰こしへかけてすっぽりと斬きられて、からだがまっ二つに分れ、バランチャンと床ゆかに倒たおれてしまいました。
斬った方は肩を怒いからせて、三べん刀を高くふり廻まわし、紫色むらさきいろの烈はげしい火花を揚あげて、楽屋へはいって行きました。
すると倒れた方のまっ二つになったからだがバタッと又一つになって、見る見る傷口がすっかりくっつき、ゲラゲラゲラッと笑って起きあがりました。そして頭をほんのすこし下げてお辞儀をして、
「まだ傷口がよくくっつきませんから、粗末そまつなおじぎでごめんなさい。」と云いながら、又ゲラゲラゲラッと笑って、これも楽屋へはいって行きました。
ボロン、ボロン、ボロロン、とどらが鳴りました。一つの白いきれを掛かけた卓子テーブルと、椅子いすとが持ち出されました。眼のまわりをまっ黒に塗ぬった若いばけものが、わざと少し口を尖とがらして、テーブルに座すわりました。白い前掛をつけたばけものの給仕が、さしわたし四尺ばかりあるまっ白の皿さらを、恭々しく持って来て卓子の上に置きました。
「フォーク!」と椅子にかけた若ばけものがテーブルを叩たたきつけてどなりました。
「へい。これはとんだ無調法を致しました。ただ今、すぐ持って参ります。」と云いながら、その給仕は二尺ばかりあるホークを持って参りました。
「ナイフ!」と又若ばけものはテーブルを叩いてどなりました。
「へい。これはとんだ無調法を致しました。ただ今、すぐ持って参ります。」と云いながらその給仕は、幕のうしろにはいって行って、長さ二尺ばかりあるナイフを持って参りました。ところがそのナイフをテーブルの上に置きますと、すぐ刃がくにゃんとまがってしまいました。
「だめだ、こんなもの。」とその椅子にかけたばけものは、ナイフを床に投げつけました。
ナイフはひらひらと床に落ちて、パッと赤い火に燃えあがって消えてしまいました。
「へい。これは無調法致しました。ただ今のはナイフの広告でございました。本物のいいのを持って参ります。」と云いながら給仕は引っ込こんで行きました。
するとどうもネネムも検事もだれもかれもみんな愕おどろいてしまったことは、いつの間にか、どうして出て来たのか、すてきに大きな青いばけものがテーブルに置かれた皿の上に、あぐらをかいて、椅子に座った若ばけものを見おろしてすまし込んでいるのでした。青いばけものは、しずかにみんなの方を向きました。眼のまわりがまっ赤です。俄にわかに見物がどっと叫さけびました。
「テン・テンテンテン・テジマア! うまいぞ。」
「ほう、素敵すてきだぞ。テジマア!」
テジマアと呼ばれた皿の上の大きなばけものは、顔をしずかに又廻して、椅子に座ったわかばけものの方を向きました。そして二人はまるで二匹の獅子ししのように、じっとにらみ合いました。見物はもうみんな総立ちです。
「テジマア! 負けるな。しっかりやれ。」
「しっかりやれ。テジマア! 負けると食われるぞ。」こんなような大さわぎのあとで、こんどはひっそりとなりました。そのうちに椅子に座った若ばけものは眼めが痛くなったらしく、とうとうまばたきを一つやりました。皿の上のテジマアはじりじりと顔をそっちへ寄せて行きます。若ばけものは又五つばかりつづけてまばたきをして、とうとうたまらなくなったと見えて、両手で眼を覆おおいました。皿の上のテジマアは落ちついてにゅうと顔を差し出しました。若ばけものは、がたりと椅子から落ちました。テジマアはすっくりと皿の上に立ちあがって、それからひらりと皿をはね下りて、自分が椅子にどっかり座りそれから床の上に倒れている若ばけものを、雑作もなく皿の上につまみ上げました。
その時給仕が、たしかに金かねでできたらしいナイフを持って来て、テーブルの上に置きました。テジマアは一寸ちょっとうなずいて、ポッケットから財布さいふを出し、半紙判の紙幣しへいを一枚引っぱり出して給仕にそれを握にぎらせました。
「今度の旦那だんなは気前が実にいいなあ。」とつぶやきながら、ばけもの給仕は幕の中にはいって行きました。そこでテジマアは、ナイフをとり上げて皿の上のばけものを、もにゃもにゃもにゃっと切って、ホークに刺さして、むにゃむにゃむにゃっと喰くってしまいました。
その時「バア」と声がして、その食われた筈の若ばけものが、床の下から躍おどりだしました。
「君よくたっしゃで居て呉くれたね。」と云いながら、テジマアはそのわかばけものの手を取って、五六ぺんぶらぶら振ふりました。
「テジマア、テジマア!」
「うまいぞ、テジマア!」みんなはどっとはやしました。
舞台ぶたいの上の二人は、手を握ったまま、ふいっとおじぎをして、それから、
「バラコック、バララゲ、ボラン、ボラン、ボラン」と変な歌を高く歌いながら、幕の中に引っ込んで行きました。
ボロン、ボロン、ボロロンと、どらが又鳴りました。
舞台が月光のようにさっと青くなりました。それからだんだんのんびりしたいかにも春らしい桃色に変りました。
まっ黒な着物を着たばけものが右左から十人ばかり大きなシャベルを持ったりきらきらするフォークをかついだりして出て来て
「おキレの角つのはカンカンカン
ばけもの麦はベランべランベラン
ひばり、チッチクチッチクチー
フォークのひかりはサンサンサン。」
とばけもの世界の農業の歌を歌いながら畑を耕したり種子を蒔まいたりするようなまねをはじめました。たちまち床からベランベランベランと大きな緑色のばけもの麦の木が生え出して見る間に立派な茶色の穂ほを出し小さな白い花をつけました。舞台は燃えるように赤く光りました。
「おキレの角はケンケンケン
ばけもの麦はザランザララ
とんびトーロロトーロロトー、
鎌かまのひかりは シンシンシン。」
とみんなは足踏あしぶみをして歌いました。たちまち穂は立派な実になって頭をずうっと垂れました。黒いきもののばけものどもはいつの間にか大きな鎌を持っていてそれをサクサク刈かりはじめました。歌いながら踊おどりながら刈りました。見る見る麦の束たばは山のように舞台のまん中に積みあげられました。
「おキレの角はクンクンクン
ばけもの麦はザック、ザック、ザ、
からすカーララ、カーララ、カー、
唐箕とうみのうなりはフウララフウ。」
みんなはいつの間にか棒を持っていました。そして麦束はポンポン叩かれたと思うと、もうみんな粒つぶが落ちていました。麦稈むぎからは青いほのおをあげてめらめらと燃え、あとには黄色な麦粒の小山が残りました。みんなはいつの間にかそれを摺臼すりうすにかけていました。大きな唐箕がもう据すえつけられてフウフウフウと廻っていました。
舞台が俄かにすきとおるような黄金きん色になりました。立派なひまわりの花がうしろの方にぞろりとならんで光っています。それから青や紺や黄やいろいろの色硝子いろガラスでこしらえた羽虫が波になったり渦巻うずまきになったりきらきらきらきら飛びめぐりました。
うしろのまっ黒なびろうどの幕が両方にさっと開いて顔の紺色な髪かみの火のようなきれいな女の子がまっ白なひらひらしたきものに宝石を一杯いっぱいにつけてまるで青や黄色のほのおのように踊って飛び出しました。見物はもうみんなきちがい鯨くじらのような声で
「ケテン! ケテン!」とどなりました。
女の子は笑ってうなずいてみんなに挨拶あいさつを返しながら舞台の前の方へ出て来ました。
黒いばけものはみんなで麦の粒をつかみました。
女の子も五六つぶそれをつまんでみんなの方に投げました。それが落ちて来たときはみんなまっ白な真珠しんじゅに変っていました。
「さあ、投げ。」と云いながら十人の黒いばけものがみな真似まねをして投げました。バラバラバラバラ真珠の雨は見物の頭に落ちて来ました。
女の子は笑って何かかすかに呪まじないのような歌をやりながらみんなを指図しています。
ペンネンネンネンネン・ネネムはその女の子の顔をじっと見ました。たしかにたしかにそれこそは妹のペンネンネンネンネン・マミミだったのです。ネネムはとうとう堪こらえ兼ねて高く叫びました。
「マミミ。マミミ。おれだよ。ネネムだよ。」
女の子はぎょっとしたようにネネムの方を見ました。それから何か叫んだようでしたが声がかすれてこっちまで届きませんでした。ネネムは又叫びました。
「おれだ。ネネムだ。」
マミミはまるで頭から足から火がついたようにはねあがって舞台から飛び下りようとしましたら、黒い助手のばけものどもが麦をなげるのをやめてばらばら走って来てしっかりと押おさえました。
「マミミ。おれだ。ネネムだよ。」ネネムは舞台へはねあがりました。
幕のうしろからさっきのテジマアが黄色なゆるいガウンのようなものを着ていかにも落ち着いて出て参りました。
「さわがしいな。どうしたんだ。はてな。このお方はどうして舞台へおあがりになったのかな。」
ネネムはその顔をじっと見ました。それこそはあの飢饉ききんの年マミミをさらった黒い男でした。
「黙だまれ。忘れたか。おれはあの飢饉の年の森の中の子供だぞ。そしておれは今は世界裁判長だぞ。」
「それは大へんよろしい。それだからわしもあの時男の子は強いし大丈夫だいじょうぶだと云ったのだ。女の子の方は見ろ。この位立派になっている。もうスタアと云うものになってるぞ。お前も裁判長ならよく裁判して礼をよこせ。」
「しかしお前は何故なぜしんこ細工を興業するか。」
「いや。いやいややや。それは実に野蛮やばんの遺風だな。この世界がまだなめくじでできていたころの遺風だ。」
「するとお前の処ところじゃしんこ細工の興業はやらんな。」
「勿論もちろんさ。おれのとこのはみんな美学にかなっている。」
「いや。お前は偉えらい。それではマミミを返して呉れ。」
「いいとも。連れて行きなさい。けれども本人が望みならまた寄越よこして呉れ。」
「うん。」
どうです。とうとうこんな変なことになりました。これというのもテジマアのばけもの格が高いからです。
とにかくそこでペンネンネンネンネン・ネネムはすっかり安心しました。
五、ペンネンネンネンネン・ネネムの出現
ペンネンネンネンネン・ネネムは独立もしましたし、立身もしましたし、巡視じゅんしもしましたし、すっかり安心もしましたから、だんだんからだも肥ふとり声も大へん重くなりました。
大抵の裁判はネネムが出て行って、どしりと椅子いすにすわって物を云おうと一寸唇くちびるをうごかしますと、もうちゃんときまってしまうのでした。
さて、ある日曜日、ペンネンネンネンネン・ネネムは三十人の部下をつれて、銀色の袍ほうをひるがえしながら丘へ行きました。
クラレという百合ゆりのような花が、まっ白にまぶしく光って、丘にもはざまにもいちめん咲いて居りました。ネネムは草に座って、つくづくとまっ青な空を見あげました。
部下の判事や検事たちが、その両側からぐるっと環わになってならびました。
「どうだい。いい天気じゃないか。
ここへ来て見るとわれわれの世界もずいぶんしずかだね。」ネネムが云いました。
みんなの影法師かげぼうしが草にまっ黒に落ちました。
「ちかごろは噴火ふんかもありませんし、地震じしんもありませんし、どうも空は青い一方ですな。」
判事たちの中で一番位の高いまっ赤な、ばけものが云いました。
「そうだね全くそうだ。しかし昨日サンムトリが大分鳴ったそうじゃないか。」
「ええ新報に出て居りました。サンムトリというのはあれですか。」
二番目にえらい判事が向うの青く光る三角な山を指しました。
「うん。そうさ。僕ぼくの計算によると、どうしても近いうちに噴ふき出さないといかんのだがな。何せ、サンムトリの底の瓦斯ガスの圧力が九十億気圧以上になってるんだ。それにサンムトリの一番弱い所は、八十億気圧にしか耐たえない筈はずなんだ。それに噴火をやらんというのはおかしいじゃないか。僕の計算にまちがいがあるとはどうもそう思えんね。」
「ええ。」
上席判事やみんなが一緒いっしょにうなずきました。その時向うのサンムトリの青い光がぐらぐらっとゆれました。それからよこの方へ少しまがったように見えましたが、忽たちまち山が水瓜すいかを割ったようにまっ二つに開き、黄色や褐色かっしょくの煙けむりがぷうっと高く高く噴きあげました。
それから黄金きん色の熔岩ようがんがきらきらきらと流れ出して見る間にずっと扇形おうぎがたにひろがりました。見ていたものは
「ああやったやった。」
とそっちに手を延して高く叫びました。
「やったやった。とうとう噴いた。」
とペンネンネンネンネン・ネネムはけだかい紺青こんじょう色にかがやいてしずかに云いました。
その時はじめて地面がぐらぐらぐら、波のようにゆれ
「ガーン、ドロドロドロドロドロ、ノンノンノンノン。」と耳もやぶれるばかりの音がやって来ました。それから風がどうっと吹ふいて行って忽ちサンムトリの煙は向うの方へ曲り空はますます青くクラレの花はさんさんとかがやきました。上席判事が云いました。
「裁判長はどうも実に偉い。今や地殻ちかくまでが裁判長の神聖な裁断に服するのだ。」
二番目の判事が云いました。
「実にペンネンネンネンネン・ネネム裁判長は超怪ちょうかいである。私はニイチャの哲学が恐おそらくは裁判長から暗示を受けているものであることを主張する。」
みんなが一度に叫さけびました。
「ブラボオ、ネネム裁判長。ブラボオ、ネネム裁判長。」
ネネムはしずかに笑って居りました。その得意な顔はまるで青空よりもかがやき、上等の瑠璃るりよりも冴さえました。そればかりでなく、みんなのブラボオの声は高く天地にひびき、地殻がノンノンノンノンとゆれ、やがてその波がサンムトリに届いたころ、サンムトリがその影響えいきょうを受けて火柱高く第二の爆発ばくはつをやりました。
「ガーン、ドロドロドロドロ、ノンノンノンノン。」
それから風がどうっと吹いて行って、火山弾や熱い灰やすべてあぶないものがこの立派なネネムの方に落ちて来ないように山の向うの方へ追い払はらったのでした。ネネムはこの時は正によろこびの絶頂でした。とうとう立ちあがって高く歌いました。
「おれは昔は森の中の昆布こんぶ取り、
その昆布網あみが空にひろがったとき
風の中のふかやさめがつきあたり
おれの手がぐらぐらとゆれたのだ。
おれはフウフィーヴオ博士の弟子でし
博士はおれの出した筆記帳を
あくびと一しょにスポリと呑のみこんだ。
それから博士は窓から飛んで出た。
おれはむかし奇術師のテジマアに
おれの妹をさらわれていた。
その奇術師のテジマアのところで
おれの妹はスタアになっていた。
いまではおれは勲章くんしょうが百ダアス
藁わらのオムレツももうたべあきた。
おれの裁断には地殻も服する
サンムトリさえ西瓜すいかのように割れたのだ。」
さあ三十人の部下の判事と検事はすっかりつり込まれて一緒に立ち上がって、
「ブラボオ、ペンネンネンネンネン・ネネム
ブラボオ、ペンペンペンペンペン・ペネム。」
と叫びながら踊りはじめました。
「フィーガロ、フィガロト、フィガロット。」
クラレの花がきらきら光り、クラレの茎くきがパチンパチンと折れ、みんなの影法師はまるで戦のように乱れて動きました。向うではサンムトリが第三回の爆発をやっています。
「ガアン、ドロドロドロドロ、ノンノンノンノン。」
黄金きんの熔岩ようがん、まっ黒なけむり。
「フィーガロ、フィガロト、フィガロット。
ペンネンネンネンネン・ネネム裁判長
その威いオキレの金角とならび
まひるクラレの花の丘に立ち
遠い青びかりのサンムトリに命令する。
青びかりの三角のサンムトリが
たちまち火柱を空にささげる。
風が来てクラレの花がひかり
ペンネンネンネンネン・ネネムは高く笑う。
ブラボオ。ペンネンネンネンネン・ネネム
ブラボオ、ペンペンペンペンペン・ペネム。」
その時サンムトリが丁度第四回の爆発をやりました。
「ガアン、ドロドロドロドロ、ノンノンノンノンノン。」
ネネムをはじめばけものの検事も判事もみんな夢中むちゅうになって歌ってはねて踊おどりました。
「フィーガロ、フィガロト、フィガロット。
風が青ぞらを吼ほえて行けば
そのなごりが地面に下って
クラレの花がさんさんと光り
おれたちの袍ほうはひるがえる。
さっきかけて行った風が
いまサンムトリに届いたのだ。
そのまっ黒なけむりの柱が
向うの方に倒たおれて行く。
フィーガロ、フィガロト、フィガロット。
ブラボオ、ペンネンネンネンネン・ネネム
ブラボオ、ペンペンペンペンペン・ペネム。
おれたちの叫び声は地面をゆすり
その波は一分に二十五ノット
サンムトリの熱い岩漿がんしょうにとどいて
とうとうも一度爆発をやった。
フィーガロ、フィガロト、フィガロット。
フィーガロ、フィガロト、フィガロット。」
ネネムは踊ってあばれてどなって笑ってはせまわりました。
その時どうしたはずみか、足が少し悪い方へそれました。
悪い方というのはクラレの花の咲いたばけもの世界の野原の一寸ちょっとうしろのあたり、うしろと云うよりは少し前の方でそれは人間の世界なのでした。
「あっ。裁判長がしくじった。」
と誰たれかがけたたましく叫んでいるようでしたが、ネネムはもう頭がカアンと鳴ったまままっ黒なガツガツした岩の上に立っていました。
すぐ前には本当に夢ゆめのような細い細い路みちが灰色の苔こけの中をふらふらと通っているのでした。そらがまっ白でずうっと高く、うしろの方はけわしい坂で、それも間もなくいちめんのまっ白な雲の中に消えていました。
どこにたった今歌っていたあのばけもの世界のクラレの花の咲いた野原があったでしょう。実にそれはネパールの国からチベットへ入る峠とうげの頂だったのです。
ネネムのすぐ前に三本の竿さおが立ってその上に細長い紐ひものようなぼろ切れが沢山たくさん結び付けられ、風にパタパタパタパタ鳴っていました。
ネネムはそれを見て思わずぞっとしました。
それこそはたびたび聞いた西蔵チベットの魔除まよけの幡はたなのでした。ネネムは逃にげ出しました。まっ黒なけわしい岩の峯みねの上をどこまでもどこまでも逃げました。
ところがすぐ向うから二人の巡礼じゅんれいが細い声で歌を歌いながらやって参ります。ネネムはあわててバタバタバタバタもがきました。何とかして早くばけもの世界に戻もどろうとしたのです。
巡礼たちは早くもネネムを見つけました。そしてびっくりして地にひれふして何だかわけのわからない呪文じゅもんをとなえ出しました。
ネネムはまるでからだがしびれて来ました。そしてだんだん気が遠くなってとうとうガーンと気絶してしまいました。
ガーン。
それからしばらくたってネネムはすぐ耳のところで
「裁判長。裁判長。しっかりなさい、裁判長。」という声を聞きました。おどろいて眼を明いて見るとそこはさっきのクラレの野原でした。
三十人の部下たちがまわりに集まって実に心配そうにしています。
「ああ僕はどうしたんだろう。」
「只今ただいま空から落ちておいででございました。ご気分はいかがですか。」
上席判事が尋たずねました。
「ああ、ありがとう。もうどうもない。しかしとうとう僕は出現してしまった。
僕は今日は自分を裁判しなければならない。
ああ僕は辞職しよう。それからあしたから百日、ばけものの大学校の掃除そうじをしよう。ああ、何もかにもおしまいだ。」
ネネムは思わず泣きました。三十人の部下も一緒に大声で泣きました。その声はノンノンノンノンと地面に波をたて、それが向うのサンムトリに届いたころサンムトリが赤い火柱をあげて第五回の爆発をやりました。
「ガアン、ドロドロドロドロ。」
風がどっと吹いて折れたクラレの花がプルプルとゆれました。〔以下原稿なし〕
底本:「ポラーノの広場」新潮文庫、新潮社
1995(平成7)年2月1日発行
1997(平成9)年5月25日3刷
底本の親本:「新修宮沢賢治全集 第九巻 童話」筑摩書房
1979(昭和54)年7月15日初版第1刷発行
※〔〕内は、底本の注記です。
入力:土屋隆
校正:鈴木厚司
2010年2月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
宮沢賢治
一、ペンネンネンネンネン・ネネムの独立
〔冒頭原稿数枚焼失〕のでした。実際、東のそらは、お「キレ」さまの出る前に、琥珀こはく色のビールで一杯いっぱいになるのでした。ところが、そのまま夏になりましたが、ばけものたちはみんな騒さわぎはじめました。
そのわけ〔十七字不明〕ばけもの麦も一向みのらず、大〔六字不明〕が咲いただけで一つぶも実になりませんでした。秋になっても全くその通〔七字不明〕栗くりの木さえ、ただ青いいがばかり、〔八字不明〕飢饉ききんになってしまいました。
その年は暮れましたが、次の春になりますと飢饉はもうとてもひどくなってしまいました。
ネネムのお父さん、森の中の青ばけものは、ある日頭をかかえていつまでもいつまでも考えていましたが、急に起きあがって、
「おれは森へ行って何かさがして来るぞ。」と云いいながら、よろよろ家を出て行きましたが、それなりもういつまで待っても帰って来ませんでした。たしかにばけもの世界の天国に、行ってしまったのでした。
ネネムのお母さんは、毎日目を光らせて、ため息ばかり吐ついていましたが、ある日ネネムとマミミとに、
「わたしは野原に行って何かさがして来るからね。」と云って、よろよろ家を出て行きましたが、やはりそれきりいつまで待っても帰って参りませんでした。たしかにお母さんもその天国に呼ばれて行ってしまったのでした。
ネネムは小さなマミミとただ二人、寒さと飢うえとにガタガタふるえて居おりました。
するとある日戸口から、
「いや、今日は。私はこの地方の飢饉を救たすけに来たものですがね、さあ何でも喰たべなさい。」と云いながら、一人の目の鋭するどいせいの高い男が、大きな籠かごの中に、ワップルや葡萄ぶどうパンや、そのほかうまいものを沢山たくさん入れて入って来たのでした。
二人はまるで籠を引ったくるようにして、ムシャムシャムシャムシャ、沢山喰べてから、やっと、
「おじさんありがとう。ほんとうにありがとうよ。」なんて云ったのでした。
男は大へん目を光らせて、二人のたべる処ところをじっと見て居りましたがその時やっと口を開きました。
「お前たちはいい子供だね。しかしいい子供だというだけでは何にもならん。わしと一緒いっしょにおいで。いいとこへ連れてってやろう。尤もっとも男の子は強いし、それにどうも膝ひざやかかとの骨が固まってしまっているようだから仕方ないが、おい、女の子。おじさんとこへ来ないか。一日いっぱい葡萄パンを喰べさしてやるよ。」
ネネムもマミミも何とも返事をしませんでしたが男はふいっとマミミをお菓子かしの籠の中へ入れて、
「おお、ホイホイ、おお、ホイホイ。」と云いながら俄にわかにあわてだして風のように家を出て行きました。
何のことだかわけがわからずきょろきょろしていたマミミ〔一字不明〕、戸口を出てからはじめてわっと泣き出しネネムは、
「どろぼう、どろぼう。」と泣きながら叫さけんで追いかけましたがもう男は森を抜ぬけてずうっと向うの黄色な野原を走って行くのがちらっと見えるだけでした。マミミの声が小さな白い三角の光になってネネムの胸にしみ込こむばかりでした。
ネネムは泣いてどなって森の中をうろうろうろうろはせ歩きましたがとうとう疲つかれてばたっと倒たおれてしまいました。
それから何日経たったかわかりません。
ネネムはふっと目をあきました。見るとすぐ頭の上のばけもの栗の木がふっふっと湯気を吐はいていました。
その幹に鉄のはしごが両方から二つかかって二人の男が登って何かしきりにつなをたぐるような網あみを投げるようなかたちをやって居りました。
ネネムは起きあがって見ますとお「キレ」さまはすっかりふだんの様になっておまけにテカテカして何でも今朝あたり顔をきれいに剃そったらしいのです。
それにかれ草がほかほかしてばけものわらびなどもふらふらと生え出しています。ネネムは飛んで行ってそれをむしゃむしゃたべました。するとネネムの頭の上でいやに平べったい声がしました。
「おい。子供。やっと目がさめたな。まだお前は飢饉のつもりかい。もうじき夏になるよ。すこしおれに手伝わないか。」
見るとそれは実に立派なばけもの紳士しんしでした。貝殻かいがらでこしらえた外套がいとうを着て水煙草みずたばこを片手に持って立っているのでした。
「おじさん。もう飢饉は過ぎたの。手伝いって何を手伝うの。」
「昆布こんぶ取りさ。」
「ここで昆布がとれるの。」
「取れるとも。見ろ。折角やってるじゃないか。」
なるほどさっきの二人は一生けん命網をなげたりそれを繰くったりしているようでしたが網も糸も一向見えませんでした。
「あれでも昆布がとれるの。」
「あれでも昆布がとれるのかって。いやな子供だな。おい、縁起えんぎでもないぞ。取れもしないところにどうして工場なんか建てるんだ。取れるともさ。現におれはじめ沢山のものがそれでくらしを立てているんじゃないか。」
ネネムはかすれた声でやっと
「そうですか。おじさん。」と云いました。
「それにこの森はすっかりおれの森なんだからさっきのように勝手にわらびなんぞ取ることは疾とうに差し止めてあるんだぞ。」
ネネムは大変いやな気がしました。紳士は又云いました。
「お前もおれの仕事に手伝え。一日一ドルずつ手間をやるぜ。そうでもしなかったらお前は飯を食えまいぜ。」
ネネムは泣き出しそうになりましたがやっとこらえて云いました。
「おじさん。そんなら僕ぼく手伝うよ。けれどもどうして昆布を取るの。」
「ふん。そいつは勿論もちろん教えてやる。いいか、そら。」紳士はポケットから小さく畳たたんだ洋傘こうもりがさの骨のようなものを出しました。
「いいか。こいつを延ばすと子供の使うはしごになるんだ。いいか。そら。」
紳士はだんだんそれを引き延ばしました。間もなく長さ十米メートルばかりの細い細い絹糸でこさえたようなはしごが出来あがりました。
「いいかい。こいつをね。あの栗の木に掛かけるんだよ。ああ云う工合ぐあいにね。」紳士はさっきの二人の男を指さしました。二人は相かわらず見えない網や糸をまっさおな空に投げたり引いたりしています。
紳士ははしごを栗の樹きにかけました。
「いいかい。今度はおまえがこいつをのぼって行くんだよ。そら、登ってごらん。」
ネネムは仕方なくはしごにとりついて登って行きましたがはしごの段々がまるで針金のように細くて手や、足に喰くい込んでちぎれてしまいそうでした。
「もっと登るんだよ。もっと。そら、もっと。」下では紳士が叫んでいます。ネネムはすっかり頂上まで登りました。栗の木の頂上というものはどうも実に寒いのでした。それに気がついて見ると自分の手からまるで蜘蛛くもの糸でこしらえたようなあやしい網がぐらぐらゆれながらずうっと青空の方へひろがっているのです。そのぐらぐらはだんだん烈はげしくなってネネムは危なく下に落ちそうにさえなりました。
「そら、網があったろう。そいつを空へ投げるんだよ。手がぐらぐら云うだろう。そいつはね、風の中のふかやさめがつきあたってるんだ。おや、お前はふるえてるね。意気地なしだなあ。投げるんだよ、投げるんだよ。そら、投げるんだよ。」
ネネムは何とも云えず厭いやな心持がしました。けれども仕方なく力一杯いっぱいにそれをたぐり寄せてそれからあらんかぎり上の方に投げつけました。すると目がぐるぐるっとして、ご機嫌きげんのいいおキレさままでがまるで黒い土の球たまのように見えそれからシュウとはしごのてっぺんから下へ落ちました。もう死んだとネネムは思いましたがその次にもう耳が抜けたとネネムは思いました。というわけはネネムはきちんと地面の上に立っていて紳士がネネムの耳をつかんでぶりぶり云いながら立っていました。
「お前もいくじのないやつだ。何というふにゃふにゃだ。俺おれが今お前の耳をつかんで止めてやらなかったらお前は今ごろは頭がパチンとはじけていたろう。おれはお前の大恩人ということになっている。これから失礼をしてはならん。ところでさあ、登れ。登るんだよ。夕方になったらたべものも送ってやろう。夜になったら綿のはいったチョッキもやろう。さあ、登れ。」
「夕方になったら下へ降りて来るんでしょう。」
「いいや。そんなことがあるもんか。とにかく昆布がとれなくちゃだめだ。どれ一寸ちょっと網を見せろ。」
紳士はネネムの手にくっついた網をたぐり寄せて中をあらためました。網のずうっとはじの方に一寸四方ばかりの茶色なヌラヌラしたものがついていました。紳士はそれを取って
「ふん、たったこれだけか。」と云いながらそれでも少し笑ったようでした。そしてネネムは又はしごを上って行きました。
やっと頂上へ着いて又力一杯空に網を投げました。それからわくわくする足をふみしめふみしめ網を引き寄せて見ましたが中にはなんにもはいっていませんでした。
「それ、しっかり投げろ。なまけるな。」下では紳士が叫んでいます。ネネムはそこで又投げました。やっぱりなんにもありません。又投げました。やっぱり昆布ははいりません。
つかれてヘトヘトになったネネムはもう何でも構わないから下りて行こうとしました。すると愕おどろいたことにははしごがありませんでした。
そしてもう夕方になったと見えてばけものぞらは緑色になり変なばけものパンが下の方からふらふらのぼって来てネネムの前にとまりました。紳士はどこへ行ったか影かげもかたちもありません。
向うの木の上の二人もしょんぼりと頭を垂れてパンを食べながら考えているようすでした。その木にも鉄のはしごがもう見えませんでした。
ネネムも仕方なくばけものパンを噛かじりはじめました。
その時紳士が来て、
「さあ、たべてしまったらみんな早く網を投げろ。昆布を一斤きんとらないうちは綿のはいったチョッキをやらんぞ。」とどなりました。
ネネムは叫びました。
「おじさん。僕もうだめだよ。おろしてお呉くれ。」
紳士が下でどなりました。
「何だと。パンだけ食ってしまってあとはおろしてお呉れだと。あんまり勝手なことを云うな。」
「だってもううごけないんだもの。」
「そうか。それじゃ動けるまでやすむさ。」と紳士が云いました。ネネムは栗の木のてっぺんに腰こしをかけてつくづくとやすみました。
その時栗の木が湯気をホッホッと吹ふき出しましたのでネネムは少し暖まって楽になったように思いました。そこで又元気を出して網を空に投げました。空では丁度星が青く光りはじめたところでした。
ところが今度の網がどうも実に重いのです。ネネムはよろこんでたぐり寄せて見ますとたしかに大きな大きな昆布が一枚ひらりとはいって居りました。
ネネムはよろこんで
「おじさん。さあ投げるよ。とれたよ。」
と云いながらそれを下へ落しました。
「うまい、うまい。よし。さあ綿のチョッキをやるぜ。」
チョッキがふらふらのぼって来ました。ネネムは急いでそれを着て云いました。
「おじさん。一ドル呉れるの。」
紳士が下の浅黄色のもやの中で云いました。
「うん。一ドルやる。しかしパンが一日一ドルだからな。一日十斤以上こんぶを取ったらあとは一斤十セントで買ってやろう。そのよけいの分がおまえのもうけさ。ためて置いていつでも払はらってやるよ。その代り十斤に足りなかったら足りない分がお前の損さ。その分かしにして置くよ。」
ネネムは実にがっかりしました。向うの木の二人の男はもういくら星あかりにすかして見ても居ないようでした。きっとあんまり仕事がつらくて消滅しょうめつしてしまったのでしょう。さてネネムは決心しました。それからよるもひるも栗の木の湯気とばけものパンと見えない網と紳士と昆布と、これだけを相手にして実に十年というものこの仕事をつづけました。これらの対手あいての中でもパンと昆布とがまず大将でした。はじめの四年は毎日毎日借りばかり次の五年でそれを払いおしまいの三ヶ月でお金がたまりました。そこで下に降りてたまった三百ドルをふところにしてばけもの世界のまちの方へ歩き出しました。
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四、ペンネンネンネンネン・ネネムの安心
ばけもの世界裁判長、ペンネンネンネンネン・ネネムの評判は、今はもう非常なものになりました。この世界が、はじめ一疋ぴきのみじんこから、だんだん枝えだがついたり、足が出来たりして発達しはじめて以来、こんな名判官は実にはじめてだとみんなが申しました。
シャァロンというばけものの高利貸でさえ、ああ実にペンネンネンネンネン・ネネムさまは名判官だ、ダニーさまの再来だ、いやダニーさまの発達だとほめた位です。
ばけもの世界長からは、毎日一つずつ位をつけて来ましたし、勲章くんしょうを贈おくってよこしましたので、今はその位を読みあげるだけに二時間かかり、勲章はネネムの室へやの壁かべ一杯になりました。それですから、何かの儀式ぎしきでネネムが式辞を読んだりするときは、その位を読むのがつらいので、それをあらかじめ三十に分けて置いて、三十人の部下に一ぺんにがやがやと読み上げて貰もらうようにしていましたが、それでさえやはり四分はかかりました。勲章だってその通りです。どうしてネネムの胸につけ切れるもんではありませんでしたから、ネネムの大礼服の上着は、胸の処ところから長さ十米メートルばかりの切れがずうと続いて、それに勲章をぞろっとつけて、その帯のようなものを、三十人の部下の人たちがぞろぞろ持って行くのでした。さてネネムは、この様な大へんな名誉めいよを得て、そのほかに、みなさんももうご存知でしょうが、フゥフィーボー博士のほかに、誰たれも決して喰べてならない藁のオムレツまで、ネネムは喰べることを許されていました。それですから、誰が考えてもこんな幸福なことがない筈はずだったのですが、実はネネムは一向面白くありませんでした。それというのは、あのネネムが八つの飢饉ききんの年、お菓子の籠かごに入れられて、「おおホイホイ、おおホイホイ。」と云いながらさらって行かれたネネムの妹のマミミのことが、一寸も頭から離れなかった為ためです。
そこでネネムは、ある日、テーブルの上の鈴リンをチチンと鳴らして、部下の検事を一人、呼びました。
「一寸君にたずねたいことがあるのだが。」
「何でございますか。」
「膝ひざやかかとの骨の、まだ堅かたまらない小さな女の子をつかう商売は、一体どんな商売だろう。」
検事はしばらく考えてから答えました。
「それはばけもの奇術きじゅつでございましょう。ばけもの奇術師が、よく十二三位までの女の子を、変身術だと申して、ええこんどは犬の形、ええ今度は兎うさぎの形などと、ばけものをしんこ細工のように延ばしたり円めたり、耳を附つけたり又とったり致いたすのをよく見受けます。」
「そうか。そして、そんなやつらは一体世界中に何人位あるのかな。」
「左様。一昨年の調べでは、奇術を職業にしますものは、五十九人となって居おりますが、只今ただいまは大分減ったかと存ぜられます。」
「そうか。どうもそんなしんこ細工のようなことをするというのは、この世界がまだなめくじでできていたころの遺風だ。一寸視察に出よう。事によると禁止をしなければなるまい。」
そこでネネムは、部下の検事を随したがえて、今日もまちへ出ました。そして検事の案内で、まっすぐに奇術大一座のある処に参りました。奇術は今や丁度まっ最中です。
ネネムは、検事と一緒いっしょに中へはいりました。楽隊が盛さかんにやっています。ギラギラする鋼はがねの小手だけつけた青と白との二人のばけものが、電気決闘けっとうというものをやっているのでした。剣けんがカチャンカチャンと云うたびに、青い火花が、まるで箒ほうきのように剣から出て、二人の顔を物凄ものすごく照らし、見物のものはみんなはらはらしていました。
「仲々勇壮ゆうそうだね。」とネネムは云いました。
そのうちにとうとう、一人はバアと音がして肩かたから胸から腰こしへかけてすっぽりと斬きられて、からだがまっ二つに分れ、バランチャンと床ゆかに倒たおれてしまいました。
斬った方は肩を怒いからせて、三べん刀を高くふり廻まわし、紫色むらさきいろの烈はげしい火花を揚あげて、楽屋へはいって行きました。
すると倒れた方のまっ二つになったからだがバタッと又一つになって、見る見る傷口がすっかりくっつき、ゲラゲラゲラッと笑って起きあがりました。そして頭をほんのすこし下げてお辞儀をして、
「まだ傷口がよくくっつきませんから、粗末そまつなおじぎでごめんなさい。」と云いながら、又ゲラゲラゲラッと笑って、これも楽屋へはいって行きました。
ボロン、ボロン、ボロロン、とどらが鳴りました。一つの白いきれを掛かけた卓子テーブルと、椅子いすとが持ち出されました。眼のまわりをまっ黒に塗ぬった若いばけものが、わざと少し口を尖とがらして、テーブルに座すわりました。白い前掛をつけたばけものの給仕が、さしわたし四尺ばかりあるまっ白の皿さらを、恭々しく持って来て卓子の上に置きました。
「フォーク!」と椅子にかけた若ばけものがテーブルを叩たたきつけてどなりました。
「へい。これはとんだ無調法を致しました。ただ今、すぐ持って参ります。」と云いながら、その給仕は二尺ばかりあるホークを持って参りました。
「ナイフ!」と又若ばけものはテーブルを叩いてどなりました。
「へい。これはとんだ無調法を致しました。ただ今、すぐ持って参ります。」と云いながらその給仕は、幕のうしろにはいって行って、長さ二尺ばかりあるナイフを持って参りました。ところがそのナイフをテーブルの上に置きますと、すぐ刃がくにゃんとまがってしまいました。
「だめだ、こんなもの。」とその椅子にかけたばけものは、ナイフを床に投げつけました。
ナイフはひらひらと床に落ちて、パッと赤い火に燃えあがって消えてしまいました。
「へい。これは無調法致しました。ただ今のはナイフの広告でございました。本物のいいのを持って参ります。」と云いながら給仕は引っ込こんで行きました。
するとどうもネネムも検事もだれもかれもみんな愕おどろいてしまったことは、いつの間にか、どうして出て来たのか、すてきに大きな青いばけものがテーブルに置かれた皿の上に、あぐらをかいて、椅子に座った若ばけものを見おろしてすまし込んでいるのでした。青いばけものは、しずかにみんなの方を向きました。眼のまわりがまっ赤です。俄にわかに見物がどっと叫さけびました。
「テン・テンテンテン・テジマア! うまいぞ。」
「ほう、素敵すてきだぞ。テジマア!」
テジマアと呼ばれた皿の上の大きなばけものは、顔をしずかに又廻して、椅子に座ったわかばけものの方を向きました。そして二人はまるで二匹の獅子ししのように、じっとにらみ合いました。見物はもうみんな総立ちです。
「テジマア! 負けるな。しっかりやれ。」
「しっかりやれ。テジマア! 負けると食われるぞ。」こんなような大さわぎのあとで、こんどはひっそりとなりました。そのうちに椅子に座った若ばけものは眼めが痛くなったらしく、とうとうまばたきを一つやりました。皿の上のテジマアはじりじりと顔をそっちへ寄せて行きます。若ばけものは又五つばかりつづけてまばたきをして、とうとうたまらなくなったと見えて、両手で眼を覆おおいました。皿の上のテジマアは落ちついてにゅうと顔を差し出しました。若ばけものは、がたりと椅子から落ちました。テジマアはすっくりと皿の上に立ちあがって、それからひらりと皿をはね下りて、自分が椅子にどっかり座りそれから床の上に倒れている若ばけものを、雑作もなく皿の上につまみ上げました。
その時給仕が、たしかに金かねでできたらしいナイフを持って来て、テーブルの上に置きました。テジマアは一寸ちょっとうなずいて、ポッケットから財布さいふを出し、半紙判の紙幣しへいを一枚引っぱり出して給仕にそれを握にぎらせました。
「今度の旦那だんなは気前が実にいいなあ。」とつぶやきながら、ばけもの給仕は幕の中にはいって行きました。そこでテジマアは、ナイフをとり上げて皿の上のばけものを、もにゃもにゃもにゃっと切って、ホークに刺さして、むにゃむにゃむにゃっと喰くってしまいました。
その時「バア」と声がして、その食われた筈の若ばけものが、床の下から躍おどりだしました。
「君よくたっしゃで居て呉くれたね。」と云いながら、テジマアはそのわかばけものの手を取って、五六ぺんぶらぶら振ふりました。
「テジマア、テジマア!」
「うまいぞ、テジマア!」みんなはどっとはやしました。
舞台ぶたいの上の二人は、手を握ったまま、ふいっとおじぎをして、それから、
「バラコック、バララゲ、ボラン、ボラン、ボラン」と変な歌を高く歌いながら、幕の中に引っ込んで行きました。
ボロン、ボロン、ボロロンと、どらが又鳴りました。
舞台が月光のようにさっと青くなりました。それからだんだんのんびりしたいかにも春らしい桃色に変りました。
まっ黒な着物を着たばけものが右左から十人ばかり大きなシャベルを持ったりきらきらするフォークをかついだりして出て来て
「おキレの角つのはカンカンカン
ばけもの麦はベランべランベラン
ひばり、チッチクチッチクチー
フォークのひかりはサンサンサン。」
とばけもの世界の農業の歌を歌いながら畑を耕したり種子を蒔まいたりするようなまねをはじめました。たちまち床からベランベランベランと大きな緑色のばけもの麦の木が生え出して見る間に立派な茶色の穂ほを出し小さな白い花をつけました。舞台は燃えるように赤く光りました。
「おキレの角はケンケンケン
ばけもの麦はザランザララ
とんびトーロロトーロロトー、
鎌かまのひかりは シンシンシン。」
とみんなは足踏あしぶみをして歌いました。たちまち穂は立派な実になって頭をずうっと垂れました。黒いきもののばけものどもはいつの間にか大きな鎌を持っていてそれをサクサク刈かりはじめました。歌いながら踊おどりながら刈りました。見る見る麦の束たばは山のように舞台のまん中に積みあげられました。
「おキレの角はクンクンクン
ばけもの麦はザック、ザック、ザ、
からすカーララ、カーララ、カー、
唐箕とうみのうなりはフウララフウ。」
みんなはいつの間にか棒を持っていました。そして麦束はポンポン叩かれたと思うと、もうみんな粒つぶが落ちていました。麦稈むぎからは青いほのおをあげてめらめらと燃え、あとには黄色な麦粒の小山が残りました。みんなはいつの間にかそれを摺臼すりうすにかけていました。大きな唐箕がもう据すえつけられてフウフウフウと廻っていました。
舞台が俄かにすきとおるような黄金きん色になりました。立派なひまわりの花がうしろの方にぞろりとならんで光っています。それから青や紺や黄やいろいろの色硝子いろガラスでこしらえた羽虫が波になったり渦巻うずまきになったりきらきらきらきら飛びめぐりました。
うしろのまっ黒なびろうどの幕が両方にさっと開いて顔の紺色な髪かみの火のようなきれいな女の子がまっ白なひらひらしたきものに宝石を一杯いっぱいにつけてまるで青や黄色のほのおのように踊って飛び出しました。見物はもうみんなきちがい鯨くじらのような声で
「ケテン! ケテン!」とどなりました。
女の子は笑ってうなずいてみんなに挨拶あいさつを返しながら舞台の前の方へ出て来ました。
黒いばけものはみんなで麦の粒をつかみました。
女の子も五六つぶそれをつまんでみんなの方に投げました。それが落ちて来たときはみんなまっ白な真珠しんじゅに変っていました。
「さあ、投げ。」と云いながら十人の黒いばけものがみな真似まねをして投げました。バラバラバラバラ真珠の雨は見物の頭に落ちて来ました。
女の子は笑って何かかすかに呪まじないのような歌をやりながらみんなを指図しています。
ペンネンネンネンネン・ネネムはその女の子の顔をじっと見ました。たしかにたしかにそれこそは妹のペンネンネンネンネン・マミミだったのです。ネネムはとうとう堪こらえ兼ねて高く叫びました。
「マミミ。マミミ。おれだよ。ネネムだよ。」
女の子はぎょっとしたようにネネムの方を見ました。それから何か叫んだようでしたが声がかすれてこっちまで届きませんでした。ネネムは又叫びました。
「おれだ。ネネムだ。」
マミミはまるで頭から足から火がついたようにはねあがって舞台から飛び下りようとしましたら、黒い助手のばけものどもが麦をなげるのをやめてばらばら走って来てしっかりと押おさえました。
「マミミ。おれだ。ネネムだよ。」ネネムは舞台へはねあがりました。
幕のうしろからさっきのテジマアが黄色なゆるいガウンのようなものを着ていかにも落ち着いて出て参りました。
「さわがしいな。どうしたんだ。はてな。このお方はどうして舞台へおあがりになったのかな。」
ネネムはその顔をじっと見ました。それこそはあの飢饉ききんの年マミミをさらった黒い男でした。
「黙だまれ。忘れたか。おれはあの飢饉の年の森の中の子供だぞ。そしておれは今は世界裁判長だぞ。」
「それは大へんよろしい。それだからわしもあの時男の子は強いし大丈夫だいじょうぶだと云ったのだ。女の子の方は見ろ。この位立派になっている。もうスタアと云うものになってるぞ。お前も裁判長ならよく裁判して礼をよこせ。」
「しかしお前は何故なぜしんこ細工を興業するか。」
「いや。いやいややや。それは実に野蛮やばんの遺風だな。この世界がまだなめくじでできていたころの遺風だ。」
「するとお前の処ところじゃしんこ細工の興業はやらんな。」
「勿論もちろんさ。おれのとこのはみんな美学にかなっている。」
「いや。お前は偉えらい。それではマミミを返して呉れ。」
「いいとも。連れて行きなさい。けれども本人が望みならまた寄越よこして呉れ。」
「うん。」
どうです。とうとうこんな変なことになりました。これというのもテジマアのばけもの格が高いからです。
とにかくそこでペンネンネンネンネン・ネネムはすっかり安心しました。
五、ペンネンネンネンネン・ネネムの出現
ペンネンネンネンネン・ネネムは独立もしましたし、立身もしましたし、巡視じゅんしもしましたし、すっかり安心もしましたから、だんだんからだも肥ふとり声も大へん重くなりました。
大抵の裁判はネネムが出て行って、どしりと椅子いすにすわって物を云おうと一寸唇くちびるをうごかしますと、もうちゃんときまってしまうのでした。
さて、ある日曜日、ペンネンネンネンネン・ネネムは三十人の部下をつれて、銀色の袍ほうをひるがえしながら丘へ行きました。
クラレという百合ゆりのような花が、まっ白にまぶしく光って、丘にもはざまにもいちめん咲いて居りました。ネネムは草に座って、つくづくとまっ青な空を見あげました。
部下の判事や検事たちが、その両側からぐるっと環わになってならびました。
「どうだい。いい天気じゃないか。
ここへ来て見るとわれわれの世界もずいぶんしずかだね。」ネネムが云いました。
みんなの影法師かげぼうしが草にまっ黒に落ちました。
「ちかごろは噴火ふんかもありませんし、地震じしんもありませんし、どうも空は青い一方ですな。」
判事たちの中で一番位の高いまっ赤な、ばけものが云いました。
「そうだね全くそうだ。しかし昨日サンムトリが大分鳴ったそうじゃないか。」
「ええ新報に出て居りました。サンムトリというのはあれですか。」
二番目にえらい判事が向うの青く光る三角な山を指しました。
「うん。そうさ。僕ぼくの計算によると、どうしても近いうちに噴ふき出さないといかんのだがな。何せ、サンムトリの底の瓦斯ガスの圧力が九十億気圧以上になってるんだ。それにサンムトリの一番弱い所は、八十億気圧にしか耐たえない筈はずなんだ。それに噴火をやらんというのはおかしいじゃないか。僕の計算にまちがいがあるとはどうもそう思えんね。」
「ええ。」
上席判事やみんなが一緒いっしょにうなずきました。その時向うのサンムトリの青い光がぐらぐらっとゆれました。それからよこの方へ少しまがったように見えましたが、忽たちまち山が水瓜すいかを割ったようにまっ二つに開き、黄色や褐色かっしょくの煙けむりがぷうっと高く高く噴きあげました。
それから黄金きん色の熔岩ようがんがきらきらきらと流れ出して見る間にずっと扇形おうぎがたにひろがりました。見ていたものは
「ああやったやった。」
とそっちに手を延して高く叫びました。
「やったやった。とうとう噴いた。」
とペンネンネンネンネン・ネネムはけだかい紺青こんじょう色にかがやいてしずかに云いました。
その時はじめて地面がぐらぐらぐら、波のようにゆれ
「ガーン、ドロドロドロドロドロ、ノンノンノンノン。」と耳もやぶれるばかりの音がやって来ました。それから風がどうっと吹ふいて行って忽ちサンムトリの煙は向うの方へ曲り空はますます青くクラレの花はさんさんとかがやきました。上席判事が云いました。
「裁判長はどうも実に偉い。今や地殻ちかくまでが裁判長の神聖な裁断に服するのだ。」
二番目の判事が云いました。
「実にペンネンネンネンネン・ネネム裁判長は超怪ちょうかいである。私はニイチャの哲学が恐おそらくは裁判長から暗示を受けているものであることを主張する。」
みんなが一度に叫さけびました。
「ブラボオ、ネネム裁判長。ブラボオ、ネネム裁判長。」
ネネムはしずかに笑って居りました。その得意な顔はまるで青空よりもかがやき、上等の瑠璃るりよりも冴さえました。そればかりでなく、みんなのブラボオの声は高く天地にひびき、地殻がノンノンノンノンとゆれ、やがてその波がサンムトリに届いたころ、サンムトリがその影響えいきょうを受けて火柱高く第二の爆発ばくはつをやりました。
「ガーン、ドロドロドロドロ、ノンノンノンノン。」
それから風がどうっと吹いて行って、火山弾や熱い灰やすべてあぶないものがこの立派なネネムの方に落ちて来ないように山の向うの方へ追い払はらったのでした。ネネムはこの時は正によろこびの絶頂でした。とうとう立ちあがって高く歌いました。
「おれは昔は森の中の昆布こんぶ取り、
その昆布網あみが空にひろがったとき
風の中のふかやさめがつきあたり
おれの手がぐらぐらとゆれたのだ。
おれはフウフィーヴオ博士の弟子でし
博士はおれの出した筆記帳を
あくびと一しょにスポリと呑のみこんだ。
それから博士は窓から飛んで出た。
おれはむかし奇術師のテジマアに
おれの妹をさらわれていた。
その奇術師のテジマアのところで
おれの妹はスタアになっていた。
いまではおれは勲章くんしょうが百ダアス
藁わらのオムレツももうたべあきた。
おれの裁断には地殻も服する
サンムトリさえ西瓜すいかのように割れたのだ。」
さあ三十人の部下の判事と検事はすっかりつり込まれて一緒に立ち上がって、
「ブラボオ、ペンネンネンネンネン・ネネム
ブラボオ、ペンペンペンペンペン・ペネム。」
と叫びながら踊りはじめました。
「フィーガロ、フィガロト、フィガロット。」
クラレの花がきらきら光り、クラレの茎くきがパチンパチンと折れ、みんなの影法師はまるで戦のように乱れて動きました。向うではサンムトリが第三回の爆発をやっています。
「ガアン、ドロドロドロドロ、ノンノンノンノン。」
黄金きんの熔岩ようがん、まっ黒なけむり。
「フィーガロ、フィガロト、フィガロット。
ペンネンネンネンネン・ネネム裁判長
その威いオキレの金角とならび
まひるクラレの花の丘に立ち
遠い青びかりのサンムトリに命令する。
青びかりの三角のサンムトリが
たちまち火柱を空にささげる。
風が来てクラレの花がひかり
ペンネンネンネンネン・ネネムは高く笑う。
ブラボオ。ペンネンネンネンネン・ネネム
ブラボオ、ペンペンペンペンペン・ペネム。」
その時サンムトリが丁度第四回の爆発をやりました。
「ガアン、ドロドロドロドロ、ノンノンノンノンノン。」
ネネムをはじめばけものの検事も判事もみんな夢中むちゅうになって歌ってはねて踊おどりました。
「フィーガロ、フィガロト、フィガロット。
風が青ぞらを吼ほえて行けば
そのなごりが地面に下って
クラレの花がさんさんと光り
おれたちの袍ほうはひるがえる。
さっきかけて行った風が
いまサンムトリに届いたのだ。
そのまっ黒なけむりの柱が
向うの方に倒たおれて行く。
フィーガロ、フィガロト、フィガロット。
ブラボオ、ペンネンネンネンネン・ネネム
ブラボオ、ペンペンペンペンペン・ペネム。
おれたちの叫び声は地面をゆすり
その波は一分に二十五ノット
サンムトリの熱い岩漿がんしょうにとどいて
とうとうも一度爆発をやった。
フィーガロ、フィガロト、フィガロット。
フィーガロ、フィガロト、フィガロット。」
ネネムは踊ってあばれてどなって笑ってはせまわりました。
その時どうしたはずみか、足が少し悪い方へそれました。
悪い方というのはクラレの花の咲いたばけもの世界の野原の一寸ちょっとうしろのあたり、うしろと云うよりは少し前の方でそれは人間の世界なのでした。
「あっ。裁判長がしくじった。」
と誰たれかがけたたましく叫んでいるようでしたが、ネネムはもう頭がカアンと鳴ったまままっ黒なガツガツした岩の上に立っていました。
すぐ前には本当に夢ゆめのような細い細い路みちが灰色の苔こけの中をふらふらと通っているのでした。そらがまっ白でずうっと高く、うしろの方はけわしい坂で、それも間もなくいちめんのまっ白な雲の中に消えていました。
どこにたった今歌っていたあのばけもの世界のクラレの花の咲いた野原があったでしょう。実にそれはネパールの国からチベットへ入る峠とうげの頂だったのです。
ネネムのすぐ前に三本の竿さおが立ってその上に細長い紐ひものようなぼろ切れが沢山たくさん結び付けられ、風にパタパタパタパタ鳴っていました。
ネネムはそれを見て思わずぞっとしました。
それこそはたびたび聞いた西蔵チベットの魔除まよけの幡はたなのでした。ネネムは逃にげ出しました。まっ黒なけわしい岩の峯みねの上をどこまでもどこまでも逃げました。
ところがすぐ向うから二人の巡礼じゅんれいが細い声で歌を歌いながらやって参ります。ネネムはあわててバタバタバタバタもがきました。何とかして早くばけもの世界に戻もどろうとしたのです。
巡礼たちは早くもネネムを見つけました。そしてびっくりして地にひれふして何だかわけのわからない呪文じゅもんをとなえ出しました。
ネネムはまるでからだがしびれて来ました。そしてだんだん気が遠くなってとうとうガーンと気絶してしまいました。
ガーン。
それからしばらくたってネネムはすぐ耳のところで
「裁判長。裁判長。しっかりなさい、裁判長。」という声を聞きました。おどろいて眼を明いて見るとそこはさっきのクラレの野原でした。
三十人の部下たちがまわりに集まって実に心配そうにしています。
「ああ僕はどうしたんだろう。」
「只今ただいま空から落ちておいででございました。ご気分はいかがですか。」
上席判事が尋たずねました。
「ああ、ありがとう。もうどうもない。しかしとうとう僕は出現してしまった。
僕は今日は自分を裁判しなければならない。
ああ僕は辞職しよう。それからあしたから百日、ばけものの大学校の掃除そうじをしよう。ああ、何もかにもおしまいだ。」
ネネムは思わず泣きました。三十人の部下も一緒に大声で泣きました。その声はノンノンノンノンと地面に波をたて、それが向うのサンムトリに届いたころサンムトリが赤い火柱をあげて第五回の爆発をやりました。
「ガアン、ドロドロドロドロ。」
風がどっと吹いて折れたクラレの花がプルプルとゆれました。〔以下原稿なし〕
底本:「ポラーノの広場」新潮文庫、新潮社
1995(平成7)年2月1日発行
1997(平成9)年5月25日3刷
底本の親本:「新修宮沢賢治全集 第九巻 童話」筑摩書房
1979(昭和54)年7月15日初版第1刷発行
※〔〕内は、底本の注記です。
入力:土屋隆
校正:鈴木厚司
2010年2月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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