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アウシュビッツ解放80年…何度も殴られ「選別」された女性、毒ガス不足で生還「人間の非道と強さ知った」

2025年01月28日 19時03分12秒 | 歴史的なできごと

アウシュビッツ解放80年…何度も殴られ「選別」された女性、毒ガス不足で生還「人間の非道と強さ知った」
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読売新聞オンライン
 ホロコーストの象徴となっているポーランド南部のアウシュビッツ絶滅収容所の解放から27日で80年となる。アウシュビッツから生還し、現在はイスラエル中部ヘルツェリアに住むハリーナ・ビレンバウムさん(95)が読売新聞のインタビューに応じ、過酷な経験から「人間がどこまで非道になり、強くなれるかを知った」と振り返った。(聞き手・エルサレム支局 福島利之、写真も)






【年表】ヒトラー首相就任からアウシュビッツ解放までのホロコーストを巡る出来事


ドイツ軍の侵攻
イスラエル中部ヘルツェリアの自宅でインタビューに応じるハリーナ・ビレンバウムさん(2024年12月16日)


 私はポーランドの首都ワルシャワで1929年に生まれ、父ヤーコブ、母ポーラ、長兄マレク、次兄ヒリクと住んでいた。39年にドイツ軍がポーランドに侵攻すると、夜間外出や通学が禁止された。人々と「耐えるんだ」と励まし合い、夜には家に集まって歌を歌った。


 住んでいた建物はゲットー(ユダヤ人強制居住区)となり、壁の外に出るのが難しくなった。ゲットー内では飢えが広がり、道端に遺体が放置された。42年7月にゲットーの壁に「全てのユダヤ人は東部へ労働へ行く」と告げるポスターが貼られた。毎日数千人が連行された。


 私たち家族は地下室や空き家に隠れた。1か月後、捕獲作戦が終わったと思って外に出た瞬間、ドイツ兵に囲まれた。私は13歳になる直前だったが、母から「17歳と言いなさい」と言われた。労働力とみなされれば助かるからだ。


 「集合場所」の広場に連行され、ドイツ兵は機関銃を向けた。母は「一緒に死ぬの。怖がらないで」と言った。ドイツ兵は私たちを殴り、列車へ乗せようとした。列車に乗せられたら二度と戻れないのを知っていた。列車から遠ざかろうとした父は(ドイツ軍に協力する)ユダヤ人警察に殴り殺された。残りの家族は近くの排水溝に逃れ、再びゲットーに戻った。


 43年4月にはゲットー蜂起が始まり、地下壕(ごう)で3週間過ごしたが、ドイツ兵に見つかり、拘束された。再び集合場所へ連行され、貨車に詰め込まれた。1台の貨車に100人以上が詰め込まれ、空気を吸える小さな窓を確保しようと殴り合った。

1/25(土) 6:00配信




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読売新聞オンライン
マイダネク収容所
 到着したのは、ポーランド東部マイダネク絶滅収容所だった。貨車から降りると、長い道のりを素足で歩かされた。歩けなくなったら、その場で射殺された。母はすぐ近くで撃たれた女性の靴を拾い、私に履かせた。42歳の母は衰弱していた。


 収容所に着くと「選別」された。選別漏れは死を意味する。私はシャワー室に入れられたが、母の姿が見えない。義姉(次兄の妻)のヘラは「今日から私があなたのお母さんよ」と言った。シャワーを浴びた後、私たちはむちを打たれながら外に出された。


 木造の小さなバラックにには800人ほどの女性が詰め込まれ、地面に寝るしかなかった。水やスープを入れるバケツは150個しかなく、皆で奪い合った。


 ある夜、ドイツ兵が犬を伴い、数十人と共にガス室に連れて行かれた。「全員、服を脱げ」と命令された。皆でユダヤ教の祈りの歌を歌い、私は義姉の手を握った。ガス室から生きて出た人がいないのを知っていた。私は「死の意味は何か」と考えた。だが、2時間が過ぎても何も起こらない。突然、ガス室のドアが開けられ、「服を着ろ」と命令された。後日、毒ガスが不足していたと聞いた。


アウシュビッツ収容所
 43年夏、私と義姉は貨車に詰め込まれ、移送された。到着したのは、アウシュビッツだった。全てが泥色だった。男女とも髪をそられ、ボロ布のような服を着ている。性別も年齢も分からない。「ここから出られないだろう」と思った。


 髪をそられ、左腕に入れ墨を彫られた。番号は「48693」。バラックには木造の3段ベットが並べられ、1200人の女性が収容されていた。先にいた収容者から言われた。「一日ずつ生き延びるのよ」


 収容所生活は規則的だった。朝4時に「起きろ」と叫び声が響き、寝ている人は殴られた。朝食は「コーヒー」と呼んでいた黒い液体だけで、昼はジャガイモの皮が入ったスープ、夜はパン。パンを翌日に取っておくと夜に盗まれた。靴も盗まれ、私は誰かの靴を盗んだ。盗むことが生き延びることだった。


 働ける者が生き残り、働けない者は殺された。私は洗濯場で働いたが、義姉は日に日に弱り、働けなくなった。ある日、「選別」が行われた。医師は片手を挙げ、右左に振り分けた。右は生き残り、左は死を意味した。医師は私を右へ、義姉を左へ振り分けた。私は義姉を抱き締め、「私の母よ、姉よ」と叫んだ。将校が手招きし、「黙れば助けてやる」と言った。平手打ちされたが、私と義姉はリストから外された。義姉はしばらくして亡くなった。


「死の行進」と解放
 45年1月になると、緊張が漂い始めた。ソ連軍が近づき、ドイツ軍は証拠を隠滅しようとガス室を爆破した。1月18日、ドイツ軍は収容者6万6000人を西へ移送し始めた。雪と氷の中を歩かせ、足が止まれば撃った。「死の行進」だった。


 雪を食べて生き延び、10日後、ドイツ東部のラーフェンスブリュック収容所に着いた。4月にドイツ軍が撤退すると、ソ連軍が到着し、解放された。私は15歳だった。


 アウシュビッツで知ったのは、人間の本質だ。人間はどこまで非道になり、どれほど強くなれるのか。ホロコーストへの理解を深めることは、人間とは何かを学ぶこと。私は命が尽きるまで語り続ける。


 ◆ホロコースト=欧州でナチス・ドイツが行ったユダヤ人大虐殺。第2次世界大戦が始まった1939年からドイツが敗北した45年5月まで絶滅収容所などで約600万人が殺害された。アウシュビッツ収容所はナチス下の最大施設でユダヤ人ら約110万人が殺害されたとみられている。ユダヤ人の団体によると、ホロコーストの生存者は現在24万5000人と推計され、半数程度の13万7401人がイスラエルに住む。


ホロコーストとガザ、歴史的な悲劇
 昨年12月にインタビューに応じたハリーナさんは、イスラム主義組織ハマスが拉致した人質について「どうやって生き延びているのか」と自らの経験に重ねて思いをはせた。一方、パレスチナ自治区ガザの戦闘で住民は無差別に殺害され、食料も十分にない。


 ハリーナさんはホロコーストとガザの戦闘の比較を快く思っていないが、パレスチナ人に対するイスラエル極右勢力の人種差別的な言動には「ナチスと似ている」と恐ろしさも感じている。ホロコーストとガザの戦闘はいずれも、後世に伝えなくてはならない歴史的な人類の悲劇だ。(福島利之)








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1 コメント

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Unknown (空と花)
2025-01-27 15:27:01
この残酷な経験を多くの人に知って欲しい。人類の愚かさ、残酷を繰り返したくない とだれもが思うだろう。
広島、長崎の悲劇も同じだ。
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