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「私の読んだ本とは違いますね…」上皇陛下が満洲事変の解説に異を唱えたワケ

2025年02月06日 16時02分40秒 | 歴史的なできごと

「私の読んだ本とは違いますね…」上皇陛下が満洲事変の解説に異を唱えたワケ 



陛下は異を唱えた


「私の読んだ本に書いてあることとは違う」


 そのうえで半藤さんはこんな裏話も披露した。


「陸軍の中枢は、板垣や石原の動きに対して見て見ぬふりでいるつもりだったのですが、動きに気づいた元老西園寺公望や若槻礼次郎首相に『勝手な動きをするな』と厳しく注意され、南次郎陸相は、『あいつらを止めねばまずいことになる』と悟りました。そこで参謀本部の作戦部長建川美次少将を派遣してこの謀略を止めようとしたのです。


 ところが派遣された建川は、関東軍の幹部と意を通じてもいまして、まあ、本気で説得するつもりだったのかは怪しいものです。飛行機で行けばいいのに、わざわざ列車で下関まで行って関釜連絡船で大陸に渡っている。


 やっとこさで奉天に着いた建川を出迎えたのがほかならぬ板垣大佐。挨拶もそこそこに、2人はそのまま料亭菊文に出かけて酒を飲み始めた。建川は大の酒好き、これに対する板垣のあだ名も午前様。午前にならないと盃を放さないという酒豪です。最後は建川が酔い潰されてしまった。関東軍は2人が飲んでいる間に柳条湖付近で鉄道を爆破したんです」


 陛下にとっては初めて聞く話が多かったようで、「私の読んだ本に書いてあることとは違いますね」ともおっしゃる。それで私たち3人は「えっ」となった。半藤さんは「陛下はどういう本をお読みになったのでしょうか」とすかさず聞いた。こういう質問をずばりとできるのはいつも半藤さんだった。陛下よりも3歳年長ということと、長年の経験ゆえだろう。


 陛下がすっと立ち上がった。



「では、私の読んだ本を書庫から持ってきます」


 突然、部屋を出て行った陛下の行動に驚いている私たちに、美智子さまは雑談の相手をしてくださった。


陛下はどうしてこの戦前の本を


お読みになったのだろう?


「書庫は遠いのですか。どういう書庫なのでしょうか」と私が尋ねると美智子さまは、


「いえ、陛下がよく読む本は、書庫とは別のところに置いてあるんですが……」


 とおっしゃる。陛下が不在だったのは10分くらい。やはり書庫で本を探したようだった。


「この本なんですよ」


 と渡された本は厚手のハードカバーの古めかしい本だった。しかし、著者を見てもピンと来ない。半藤さんに「この人、知ってますか」と聞いたら、「知らないな」という。奥付を見てびっくりした。「昭和8年」とあるのだ。事変からまだ2年後、言論統制は太平洋戦争の時ほどではなかったとはいえ、事変の真相を書けるはずがない。しかし陛下は


「私はこれを読んだんです」


 とおっしゃる。正直なところ、私も半藤さんもあっけにとられた。内心では「満洲事変について戦後に書かれた本はたくさんあるのに、どうしてこの戦前の本をお読みになったのだろう」という疑問が湧いた。


「陛下、この本は今出ている満洲事変の本とは、事変に対する理解がまったく違います。この本はまだ軍の謀略だったことを隠しています」と半藤さんが言った。私も続いて「戦前のこの段階から研究が進み、今は真相とともに詳細な事実が次々と明らかになっています」と申し上げた。


 すると陛下はあっさりと「そうでしょうね」とおっしゃる。私たちの反応に驚いた様子はなかった。予想していたのだろうか。ではなぜわざわざあの本を持ち出されたのだろうか。両陛下は、新聞も読み、テレビも自由にご覧になって、本も自由に入手できる環境におられる。たまたま陛下の手の届くところにあったこの本を読まれ、その内容に疑問を感じ、気安く聞ける相手に見せて確認したかったのだろうか。


「それでは満洲事変は関東軍が仕掛けた謀略という理解でよろしいのですね」


 と陛下は私たちに確認された。それで間違いありませんと私たちは答えた。



田中メモランダムは


けっきょく誰が書いたのですか?


 ここで満洲事変の話はいったん終わったのだが、その次の3回目の懇談(2014年11月8日)の際、陛下の関心はさらに意外なところに向かっていることがわかった。


「ところで、『田中メモランダム』とはどういうものだったのでしょうね」


 田中メモランダム(田中上奏文)とは、1927(昭和2)年に当時の田中義一首相が昭和天皇に極秘に送ったとされる偽書だ。

「支那を取るためにはまず満蒙(満洲と内蒙古)を取り、世界を取るためにはまず支那を取れ」と書かれ、

満蒙征服の計画を具体的に示していると宣伝された。つまり日本の「満蒙侵略計画」であるかのように読める文書だが、この文書の存在を知る人はかなりの昭和史通だろう。


 1929(昭和4)年12月に中国の雑誌「時事月報」に掲載されたのが最初で、その後米国に流布された。東京裁判でも持ち出され、真偽が論争になったことはあるものの、すでに死亡していた山縣有朋が登場するなど誤りや矛盾点がいくつもあり、現在では完全なニセ文書だと確定している。


 陛下はむろんこうしたことはご存じの様子だったが、


「けっきょく誰が書いたのですか」


 と尋ねられた。


 誰が作ったものかはわからない。


 半藤さんは、田中メモランダムは偽書ではあるものの、「当時の日本の雰囲気をよく表した内容ではあったと思います」と話した。私は「推測ですが、ベースとなったメモ書きなどは日本側から流れたのかもしれません」と申し上げると、陛下はさらに関心を深められ、


「そのベースとなったメモ書きなどは誰が作ったんですかね」


 と問われた。


「いろんな説があります。政友会の田中義一に対抗していた民政党の息のかかった人たちによるものとする説、血気にはやる将校が意図的に撒いて中国を刺激しようとしたとする説、あるいは中国の謀略機関の捏造による文書などいろいろありますが、現在も判然としません」


 私はこんな説明をした。


石原莞爾はそういうところでも


関与しているんですかね?


 それでも陛下は納得されないご様子だったので、「実は、田中メモランダムをつくったメンバーとして、張作霖爆殺事件に絡んだ河本大作大佐など日本の軍人の名を挙げる人もいますね」と話した。実証されているわけではないが、そういう推測をする人がいるのは事実だったからだ。すると陛下はさらに興味を持った様子で、


「石原莞爾はそういうところでも関与しているんですかね」


 とお聞きになったことに、正直なところ私たちはかなり驚いた。半藤さんは「石原は関東軍参謀でした。最前線で満洲事変に深く関係していますから、少なくともそういうことを考えない人物ではありません。ただ、石原が書いたと断言できる証拠はありません。専門家の研究でもやはり中国側による謀略文という説が有力です」と伝えた。




『平成の天皇皇后両陛下大いに語る』 (文藝春秋) 保阪正康 著
© ダイヤモンド・オンライン

 それでも陛下は納得されないご様子で、「そうなんですかねえ」とあいまいな言い方をされた。半藤さんは少し言い訳のように、「ただ、私もすべての仮説を綿密に検証できているわけではありません」とつけ加えた。私も似たようなことを言い添えた。すると陛下は「お2人とも忙しいんですね」とおっしゃった。


 石原莞爾と田中メモランダムを結びつける発想は一般にはない。当時、対中強硬派で売り出し中の奉天総領事吉田茂(後の首相)と結びつけるならまだわかるくらいだが、石原はまだ陸軍大学教官から関東軍に赴任する前だったからだ。もしかすると石原のかかわりについては、陛下は何か核心的なことを誰かから聞いていて、もっと調べてはどうかと私たちにうながしたのではないかと思えるほどの熱心さであった。









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