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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「入れ墨」について

2018年04月24日 | 古代史

 『隋書俀国伝』の中には「倭人」の「入れ墨」の風習に関する記述があります。

「男女多黥臂點面文身沒水捕魚」

 この書き方は『魏志倭人伝』の以下の記述を下敷きにしていると考えられそうですが、実は微妙に表現が異なります。

(倭人伝)「男子無大小皆黥面文身。…文身亦以厭大魚水禽。後稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。」

 ここでいう「黥」とは「入れ墨」であり、皮膚表面に「線刻」の傷をつけた跡に「墨」や「黒土」などをすり込むものです。また「點」とは単に「点」を意味する語であり、「墨」や「黒土」などで「ホクロ」のように印をつけることを言うようですが、「黥」とは異なり「傷」をつけることはなく「消すことのできるもの」であったと見られます。
 さらに「文身」は「身体」のほぼ全部に針先などで傷をつけ、そこに「墨」や「色素」などをすり込んで「文様」を描き出すこととされます。
 また「臂」とは肩から手首までを言い、「面」は顔を言います。
 これらを踏まえて考えてみると、『魏志倭人伝』と『隋書俀国伝』では以下のような違いがあることが判ります。
 『倭人伝』では対象としては年令に関係なく「男子」とされ、女性については言及がないのに対して、「倭国伝」では「男女」となっており、女性も含まれています。
 『倭人伝』では「黥面」とされ「面」つまり顔に「入れ墨」がされているとしていますが、『俀国伝』では「面」は「點」とされ、これは「入れ墨」ではなく、消したり書き換えたりができるものと考えられます。
 
 また『倭人伝』ではただ「文身」とされていますが、『俀国伝』では「臂」と「身」とで表現が異なっており、「黥」つまり「入れ墨」は「肩から手首」までに施されるものであるのに対して、「文身」はそれ以外の身体各所に施されるものであり、表現が異なることが注意されます。

 これについては「黥」は元々「中国」では「刑罰」としてのものしか存在せず、それは「顔面」にだけされるものであったと見られます。そのことを示すのが『漢書地理志』の「魏」の「如淳」が施した「注」です。

「楽浪海中有倭人,分為百余国,以歳時来献見云,如淳日,『如墨委面』,在帯方東南万里,臣さん日,倭是国名,不謂用墨,故謂之委也,師古日,如淳云如墨委面,蓋音委字耳,此音非也,倭音一戈反,今猶有倭国,魏略云,倭在帯方東南大海中,依山島為国,度海千里,復有国,皆倭種」(『漢書地理志』より)

 ここでは「如墨委面」とだけ書かれており、その簡潔に過ぎる表現もあってその後の「臣さん」や「顔師古」の注がこの「如淳」の注の意義を誤解し、そのためやや的外れなことが注として書かれることとなっています。(この「如墨委面」を国の名とする理解もあるようで、誤解もはなはだしいと思われます)それもあって全体として混沌とした理解となっているようですが、これは古田氏がいみじくも指摘したように(※)「墨刑」という刑罰のことを示しているものとみられ、あたかも「中国」における「墨刑」のように「倭人」は顔に「入れ墨」をしている、という説明と見るべきでしょう。(「黥」は「墨」とも称したもの)それが「帯方郡」の東南万里にいるというわけであり、これは『魏志』の伝える「倭国」と一致する表現です。つまりここでは「刑罰」ではなく別の意義で「入れ墨」をしているというわけであり、そのような変った風習が倭人にはあるというわけです。
 この「黥」は「墨刑」になぞらえられるだけあって「墨」だけで書かれているのに対して、「文身」では色と模様が入っているものと思われます。(それらは共通して「沈没」して「魚」を捕らえる際に「虹龍(サメなど)の害」を避けるためのものであるとされますが、同時に「飾り」ともなっていたともされます)。

 以上からみて明らかにこの『魏志』と『隋書』の双方の記事はその内容が異なるものであり、『隋書俀国伝』は単に『倭人伝』から記事を引用したのではなく、その時点の最新の風俗を記したものと見られます。それはこの記事が「遣隋使」が自ら語った内容をベースにしたものと考えられる事からも明らかであり、「六世紀末」の「倭国」における「入れ墨」という風習についてかなり確度の高い情報と考えられます。そうであれば、『倭人伝』の時代(三世紀半ば)からこの間三百年間ほど経過している事となりますが、その時間的経過の中で「黥面」に対する感覚の変化があったと見られることとなります。
 年月が経過する内に事物に対する考え方や感覚が変化することは起きて当然ともいえるわけですが、この場合その変化の原因として最も考えられるのは「犯罪」に対する刑罰としての「黥面」の発生です。
 『書紀』の中でも「刑罰」として「黥面」にした後さらに「」とし、それが「部民」に及んだという記事が見られます。そこでは「犯罪者」に対してその「しるし」として「顔面」に「黥」を施すこととなったものであり、それはあきらかにそれまでの「風習」としてのものから変質したことを示します。

「元年…夏四月辛巳朔丁酉。召阿雲連濱子詔之曰。汝與仲皇子共謀逆。將傾國家。罪當干死。然垂大恩而兔死科墨。即日黥之。因此時人曰阿曇目。…」(日本書紀卷第十二 去來穗別天皇 履中天皇)

 これによれば「阿雲連濱子」は「謀逆」という罪を犯した結果「墨刑」とされたものであり、「黥」を施されたものです。(彼らはさらに「」とされたものと見られます)
 つまり、元々単なる「風習」であった「黥面」が、後に「犯罪者」に対してその「しるし」として「顔面」に「黥」を施すこととなったものであり、明らかにそれまでの「風習」としてのものから変質したことを示します。
 このような変化は「黥面」そのものに対する意識の変化が先にあったものと思われます。『倭人伝』の中でも罪を犯した場合「没」されるとは書かれていても「黥」されるとは書かれていません。それは当然当時「黥」には「犯罪者」の印という意義がないからです。そのようにそれまでは特に普通のことであった「點面」が、ある時期以降「蔑視」されるようなこととなり、そのため「一般人」は「彫る」ことはせず「點面」にとどまるとなったものと見られるわけです。(但し「文身」はまだこの「六世紀末」という時点でまだ遺存しているようですし、「臂」に「黥」する習慣もまだ残っていますから、これらは「衣服」などにより直接見えないことから「刑罰」の意義がないことと考えられたものと思われ、「黥面」だけが「刑罰化」したこととなるでしょう。)

 「改新の詔」以前には「黥面」は「犯罪者」及び「」の他「部民」にも施されていたものであり、「鳥飼部」「馬飼部」なども「入墨(黥)」がされていたとらしいことが『書紀』の記述から窺えます。

(同上)「五年…秋九月乙酉朔壬寅。天皇狩干淡路嶋。是日。河内飼部等從駕執轡。先是飼部之黥皆未差。時居嶋伊奘諾神託祝曰。不堪血臭矣。因以卜之。兆云。惡飼部等黥之氣。故自是以後。頓絶以不黥飼部而止之。」

 このような「黥面」の刑罰化は「黥面」の風習を強く保持していた集団あるいはそれらの集団で構成されていた「クニ」の衰退あるいは没落と関係しているのではないかと考えられるところです。
 この「黥面」や(「文身」も)という風習は「沈没」して「漁」をすると書かれている事からも海の民である「海人族」のものであるのは明らかですから、どこかで彼ら「海人族」にとって致命的とも言える政治的事案が起きたということではないでしょうか。そう考えてみると、「伊都国」の衰退と関係しているという可能性があると思われます。

 「伊都国」はその支配領域が「海」に近接した領域であり、また「邪馬壹国」と関係の深い「クニ」でもあり、「形骸化」はしているものの『倭人伝』で諸国の中では唯一「王」の存在が書かれている「クニ」でもあります。
 「倭国」において指導的「権威」を長く保持し続けてきた「伊都国」が海に深く関係しているとすれば、「黥面」という倭国の一般的風習の形成に「伊都国」が関係していたという可能性はあるものと思われます。
 『魏志』の「韓伝」においても(「弁辰」の項)「「倭」と接しているところでは「文身」している」とされています。(男女近倭,亦文身。)
 「倭」に近いところと言う「倭」とは「対海国」や「一大国」あるいは「九州島」の北端である「伊都国」などを指すと思われますから、この地域と「文身」という習慣が密接な関係があるのは確かと思われます。(但し「黥面」については書かれていませんから、「黥面」は「倭人」独自の習慣であったものでしょうか。)
 しかし、その「伊都国」は『倭人伝』でも「一大率」が「伊都国王」を差し置いて「刺史」の如く統治権を行使しているように書かれており、既にかなりその権威が低下している風情がみられ、これがその後さらに進行し、私見によれば「博多湾」に面した「大津城」が「伊都国」の支配下から「奴国」に編入されるという事案が発生したとみられる時点以降、「伊都国」そのものがいわば消滅したものではないかと推量され、このような政治的変化が(あるいは闘争を伴って)起きて以来、「伊都国」を象徴するものとして存在していた「黥面」が、その「伊都国」という権威の否定と共に「刑罰」化したものではないでしょうか。(倭人伝時点で既に「戸数」も少なくなっており、実力はほぼなかったと思われますから、伝統とそれに基づく権威だけで存在していたと見られ、その意味でも消えゆく運命であったともいえるものです。)
 またそれは「海人族」一般の没落をも意味していると思われ、その後の「倭の五王」などの時代には「海人族」は傍流という立場とされていたのではないでしょうか。このことは相対的により内陸にあった勢力が伸張したことを示唆するものであり、「筑紫」から「筑後」そして「肥後」というように「玄界灘」から奥まった地域に倭国の権力中心が移動したことを暗示するようです。
 そして以後この「黥面」は「罪」を犯して「」となった人々以外にも「東国」など「被征服民」として「部民」とされた人々に対しても同様に施されたものであり、これが停止されるのは「阿毎多利思北孤」の改革まで待たなければならなかったものです。


(※)古田武彦「「邪馬台国」はなかった」(文庫版)角川書店一九七七年


(この項の作成日 2014/09/11、最終更新 2017/01/29)(ホームページ記載記事に加筆)

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律(刑法)について

2018年04月24日 | 古代史

 『隋書俀国伝』の記事からは「刑法」の存在が窺え、後の「笞杖徒流死」の原型とも言うべき「杖流奴(奴隷になる)死」が定められていたようです。この事から「」という存在は「犯罪」に関係していると考えられるでしょう。

「其俗殺人強盜及姦皆死、盜者計贓酬物、無財者沒身為奴。自餘輕重或流或杖。毎訊究獄訟、不承引者、以木壓膝、或張強弓、以弦鋸其項。或置小石於沸湯中令所競者探之、云理曲者即手爛。或置蛇甕中令取之、云曲者即螫手矣。」

 「無財者沒身為奴」という表現からは「窃盗」の罪に問われた際、「賠償」不可能であるときに「奴隷」となるとされますから、基本的に「奴隷」とされる条件は「賠償能力」の問題であるようです。
 『倭人伝』においても「刑」の一つとして「没」あるいは「滅」する場合があるとされています。

『魏志倭人伝』「其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸、及宗族。尊卑各有差序、足相臣服。」

 これは犯した罪の軽重により及ぶ範囲が異なっている事を示すものですが、いずれも「没」や「滅」とされています。これらは「」「官」などに身分を落とされることを意味していると考えられます。(「没」が「」になるということを意味するのは『書紀』や「中国」史料にも多数見られ、伝統的な用法のようです。)
 
 また、ここでは「笞」の刑が書かれていません。「笞」は「孝徳朝」とされる「東国国司の詔」の中に(以下のように)現れます。ただし、後でも述べるように、この「詔」が実際には「七世紀前半」に出されたものと考えられ、その時期的変遷から上に見た「杖」と「奴」との間に新たに「笞」刑がその時点で加えられたらしいことが推定され、これは「強い権力」の出現と重なると思われます。つまり、「強い権力」の出現は、「律」の制定(改定)を伴ったものとみられますが、「犯罪」の規定が変化して種類が増えるとそれに伴って「刑」の種類も増加せざるを得ず、その結果「笞刑」が追加されることとなったのではないでしょうか。

『日本書紀』巻二十五「大化二年(六四六年)三月辛巳条」
「詔東國朝集使等曰。集侍群卿大夫。及國造。伴造。并諸百姓等。咸可聽之。以去年八月朕親誨曰。莫因官勢取公私物。可喫部内之食。可騎部内之馬。若違所誨。次官以上降其爵位。主典以下。决其『笞杖』。…」

 中国の例でも、社会の進歩は即座に犯罪の増加につながり、またその増加は数と共に種類の増加でもあったものです。「漢王朝」成立後、「高祖」は「犯罪」の種類を簡素化しましたが、それはそれまでの「犯罪種類」の数の多さに人々が「辟易」していたためであり、それを大胆に削減したものです。(しかしそれもまた暫時増加することとなったとされます。)
 「秦王朝」は「法治国家」を目指し、また完成させたとされますが、それを支えていたのは膨大な種類の「刑法規定」であり、それに伴う「刑罰」の種類の多さであったと思われます。「統治行為」の中心には強大な「警察・検察機構」の存在が必須であり、またそれは発生する犯罪の多角化を招くこととなったと思われます。その結果「微罪」が増加することとなり(微罪でさえも許容しないという姿勢であるため)、その「微罪」に対しては「杖」の刑では重すぎると言うこととなって「笞刑」が追加されることとなったと見られます。
 このように「笞刑」が増加された時点は「強い権力者」の出現と同期していると考えられ、それもやはり「天子」を自称した「六世紀後半」の「阿毎多利思北孤」の即位時点付近を想定するのがもっとも蓋然性が高いと思料します。

 また、ここで見られる「奴」の制がその後の「徒」の制に変わったものと思われ、いずれも「強制労働」の意が含まれているようです。
 但し、「徒」の方は「身分」の変更を伴わなかったのではないかと考えられ、「良民」はその「良民」のまま一時的に「強制労働」をさせられていたと見られます。

 また「盟神探湯(くがたち)」と思われる「罪」の有無の判定法が書かれているのが印象的です。これは「解部」によって「審判」が行われるわけですが、判断が難しいとき、あるいは双方の主張が折り合わないときは「神意」に任せるため、「熱湯」の中に手を入れさせ、焼け爛れない方の言い分を認める、というもので、後の江戸時代にも行われていたという記録があるほど日本では古代からポピュラーな方法でした。『書紀』にその例を求めると「垂仁」「応神」「允恭」「継体」と確認できますが、それ以降は見られません。
 また当然「磐井」の「解部」時代にもあったものと思料されます。
 「隋使」には非常に珍しかったようで、詳しく書かれています。ただし「継体紀」の例は「任那」における例であり、日本からの官人が「正邪」の判断を専らこれで行い、焼け爛れて死ぬものが多く、大不評だったことが書かれています。
 
 また「盟神探湯」とやや似ているのが「罪の有無」を「炎の中に身を投じさせ」、火に焼かれなければ「無実」という方法でした。これは『欽明紀』にある記事であり、そこでは「鞍」の飾りを盗んだとされる「馬飼首歌依」が拷問で死んだ後彼の子供に対して「刑」として「投火」つまり「火の中に投げ入れる」というものを行おうとしたとされます。(結局は実行されなかったもの)これについては『書紀』編纂者の「注」とおぼしき文が書かれてあり、そこでは「古の制度か」とされています。)

「(欽明)廿三年(五六二年)…夏六月…是月。或有譖馬飼首歌依曰。歌依之妻逢臣讃岐鞍薦有異。熟而熟視。皇后御鞍也。即收廷尉。鞫問極切。馬飼首歌依乃揚言誓曰。虚也。非實。若是實者必被天災。遂因苦問。伏地而死。死未經時。急災於殿。廷尉收縛其子守石與中瀬氷守石。名瀬氷。皆名也。將投火中。投火爲刑。盖古之制也。咒曰。非吾手投。以祝手投。咒訖欲投火。守石之母祈請曰。投兒火裏。天災果臻。請付祝人使作神奴。乃依母請許沒神奴。」

 このような制度もあったものと見られますが、これが「死刑」の一種なのか、「拷問」の一種なのかやや不明ですが、「神託」による審判という意味においては「盟神探湯」と共通しているようです。しかし『隋書』に記された「刑」の分類中には「窃盗」は「没」とされており、結果的にはこの「馬飼首歌依」の子供も「神奴」とされたらしいですから、整合しているといえなくもないですが、通常の刑と異なっていると思われ、それは「皇后」の所属に帰するものの盗難事件であったからではなかったかと思われます。

 ちなみに「咒曰。非吾手投。以祝手投。咒訖欲投火。」という部分を見ると、「倭国」においては「祟り」が大変恐れられていたらしいことが窺え、他人を死に至らしめたものは「祟り」に見舞われると信じられていたらしいことことが推察できます。そのため「自分」が火の中に投げ入れるのではなく、「祝」(神官のような人物)がこれを行うのだと「咒」っています。これはこのような際の決まり文句だったかもしれません。つまり「神」に仕える者であれば「祟り」を免れるものも、それ以外の者の行動では「祟り」が避けられないと信じられていたもののようです。
 またこの事は「死刑執行人」のなり手がいなかった可能性を示唆するものであり、それは結局「部民」に割り当てられるべき作業となっていたのかもしれません。
 後の「律令」の導入においても「死刑制度」などについてはその範囲が狭く、たいていの場合死刑ではなく罪一等を減じているのも同様に「祟り」を恐れたものともいえるでしょう。
 戦いの中で傷つけ合うことはあっても、戦いのその後では極刑に処しているのは「蘇我倉山田麻呂」の謀反記事の中で「物部」が「山田麻呂」の首をはねたという記事が初見です。


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2017/01/03)(ホームページ記載記事に加筆)

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「冠位制」と「冠」の制度の差

2018年04月24日 | 古代史

 『隋書俀国伝』の中では「官位制」について「内官有十二等 一曰大德 次小德 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定數」と書かれており、「徳」及び「仁義礼智信」により冠位が定められています。これは「儒教」の五徳そのものです。
 しかし「聖徳太子」が定めたという「冠位十二階」は階の並び方が違っており、「徳」以下は「仁礼智信義」という順番になっていて、この順番は儒教などに基づくものではありません。明らかに、『隋書』に書かれた「倭国」の制度の方がノーマルであり、また納得できるものです。
 また、『隋書俀国伝』の別の部分に記すところ(これは隋使「裴世清」の見聞を記したものと思料されます)によると、「隋使」が来たことを知ると、まず「十二階」中「二番目」である「小徳」という高位の人物を向かわせ、「倭国王」の「代理」として「歓迎」の「意」を表わさせた後、「旅の疲れ」が癒えたころに「七番目」という地位の「大禮」という「実務方」とも云うべき位の人物に「引率」させ「倭国王」に面会させているように見えます。
 これが『書紀』に記載する「冠位」でいうと「大禮」は「五番目」の高位の人物となりますから、格段に「丁重」な扱いをした事となるでしょう。

「…倭王遣小德阿輩臺、從數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多?、從二百餘騎郊勞。…」『隋書たい国伝』
 
 しかし来倭した「裴世清」は「鴻臚寺掌客」という最下級の官人(九品)でしたから『隋書』の順位でほぼ対等な関係ともいえ、『推古紀』では少なからず高すぎると云えるでしょう。

 またこの記事が『推古紀』の「六〇八年記事」と同じ事象を記したものと考えるには、『書紀』の「裴世清」を迎える儀式に参列する「人」「馬」とも『推古紀』と数字が異なるなどの違いが確認できます。

「(推古)十六年(六〇八年)夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。下客十二人。從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成。召大唐客裴世清等。爲唐客更造新舘於難波高麗舘之上。
六月壬寅朔丙辰。客等泊于難波津。是日。以餝船卅艘迎客等于江口。安置新舘。於是。以中臣宮地連摩呂。大河内直糠手船史王平爲掌客。…
秋八月辛丑朔癸卯。唐客入京。是日。遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢。額田部連比羅夫以告禮辭焉。」

 つまり『隋書』では「二百餘騎」とされているのに対して『推古紀』では「七十五疋」というように「裴世清」を迎えた馬の数が異なっています。また『推古紀』では「飾馬」と共に「飾船」による歓迎風景も書かれていますが、『隋書』の方ではそれが(全く)ありません。さらに「日数」においても『隋書』では「倭国」の都付近に到着後「十日」ほどで「宮殿」に案内されたように書かれていますが、『推古紀』では「六月壬寅朔丙辰」(十五日)に「難波津」(難波館)に到着後一ヶ月半ほど経過した「秋八月辛丑朔癸卯」(三日)になって「入京」したと書かれていますから、これもまた大きく異なるものです。
 これらはこの二つの記事が同一の記事とは思えず、本来「別」の事象であったことの証左ともいえるものです。これは『推古紀』の方が「国交開始時点」であり「隋制」を良く承知していなかったとした場合、人数などがその基準と異なっていたとしても不思議ではないこととなるでしょう。(日数がかかっていることも初めてのことで準備に時間が余計にかかったと見れば不思議はありません)
 
 また官制と服装の制度に関する事としては『隋書』の「開皇二十年記事」において「故時衣橫幅、結束相連而無縫。頭亦無冠、但垂髮於兩耳上。至隋、其王始制冠、以錦綵為之、以金銀鏤花為飾。」という記事が重要です。ここでは「故時」つまり古くは衣服は縫わないで「結んで」つなげただけであったとされており(つまり「針」と「糸」がなかったことを示すもの)、さらに「冠」も以前はなく、ただ「髪」を左右に垂らしていた(「みずら」を指すか)だけであったとされています。そして、それが「至隋」、つまり「隋」に至って「冠」をかぶることが制度として決められたというわけです。
 ここに書かれた「至隋」の意味がやや不明確ではあるものの、これは「隋」と交渉が始まって以降「伝搬」あるいは「導入」したものと理解でき、「冠」をかぶるということ、それが階級によって差を設けたことが制度として決められたのが「隋」の建国の年である「五八一年」以降の「開皇年間」のことと想定され、「九州年号」の「端正元年」が「五八九年」であるところから、この改元が「阿毎多利思北孤」の即位によるものと推察され、この時点付近で「冠」についての制度が施行されたものと推定されます。

 ところでこの『隋書』に書かれた「内官」の制度と、「冠」をかぶることを制度として定めたと言う事は一見同じことを指しているようですが、その『隋書』の中の現れ方は全く別(の文脈)であり、実はこの二つは全く別のことではないかと思われます。これは「大越氏」の議論(※)に既に触れられていますが、少なくとも『隋書』の中では「隋に至って」から「内官」の制度が始められたというようなことは書かれていないのです。
 ここには「内官」として「十二等」があるとするわけですが、この「内官」という表現からも「王権内部」(というより「京域」ともいうべき「倭国中央」)における人事階級制について書かれていると思われるわけですが、この時点付近で初めて「京師」が制定されたと考えられることから、それまでは「畿内」「畿外」の別なく一律の「制度」として「階級制」が(以前から)あったと見るべきでしょう。なぜならそれ以前に「倭国」という政府組織そのものは(それほど中央集権的ではなかったにせよ)あったと見られるわけですから、そこに属する者達の「差別化」は指揮命令系統の構築という意味でも絶対に必要だったはずだからです。つまり、「京師」以外の地域、別の言い方でいうと「畿外諸国」においては、それ以前の「階級制」をそのまま継続する事となったものと思われ、「諸国」の王など倭国とつながる権力者達は「倭国王」支配下の「官人」として階級が定められていたものと思われます。(「内官」という階級的制度は『隋書』の夷蛮伝を渉猟しても当時東夷では「倭国」だけにあったものであり、その意味では「倭国」の統治体制がかなり本格化したものであったことが示唆されます。)それを示唆するのが「任那」を救うためと称して軍を派遣したという以下の記事です。

「新羅伐任那。任那附新羅。於是天皇將討新羅。謀及大臣。詢于群卿。田中臣對曰。不可急討。先察状以知逆。後撃之不晩也。請試遣使覩其消息。『中臣連國』曰。任那是元我内官家。今新羅人伐而有之。請戒戎旅。征伐新羅。以取任那附百濟。寧非益有于新羅乎。田中臣曰。不然。百濟是多反覆之國。道路之間尚詐之。凡彼所請皆非之。故不可附百濟。則不果征焉。爰遣吉士磐金於新羅。遣吉士倉下於任那。令問任那之事。時新羅國主遣八大夫。啓新羅國事於磐金。且啓任那國於倉下。因以約曰。任那小國。天皇附庸。何新羅輙有之。随常定内官家。願無煩矣。則遣奈末智洗遲。副於吉士磐金。復以任那人達率奈末遲。副於吉士倉下。仍貢兩國之調。然磐金等末及于還。即年以大徳境部臣雄摩侶。『小徳中臣連國』爲大將軍。以小徳河邊臣禰受。小徳物部依網連乙等。小徳波多臣廣庭。小徳近江脚身臣飯葢。小徳平群臣宇志。小徳大伴連。闕名。小徳大宅臣軍爲副將軍。率數萬衆以征討新羅。…」「(六二三年)卅一年。…是歳条」

 この記事は「六二三年」と推定されていますが、それを「事実」と考える人はいないでしょう。なぜならそこには「任那」が存在しているからであり、この時点であたかも「任那」が存在しているように書かれているのは一見して不審です。
 「任那」は『書紀』による限り「欽明紀」には「新羅」によって滅ぼされたとされていますから、この時点では「国」の体を成しているはずがないこととなります。しかもそれだけではなく、この時点で「百済」「新羅」と「倭国」を加えて「任那」の争奪戦をしていることとなっており、そのような戦いがこの時点付近の大陸や半島をめぐる国際情勢とは全く位相を異にするものです。
 この年次がもし正しければ、それは「隋」が「高句麗」と戦った影響もあって疲弊し衰亡して「唐」に取って代わられた直後であり、「半島」においてはその「隋」に拮抗し得た「高句麗」の影響力が強くなっていた時期です。当然「高句麗」は五世紀のように軍事力を背景として南下政策をとるという可能性もあり、「百済」も「新羅」も「高句麗」の脅威をいかに和らげるかを考えていたと思われます。
 他方「倭国」は「隋」から「宣諭」された一件以降「隋」からの脅威を感じていたわけですが、「唐」に代わって以降そのような関係を一旦清算して新たな友好関係を「唐」との間に築こうとしていたと見られるのに対して、この「新羅出兵」記事はそのようなことが全く想定されていないように見えます。これらの「任那」をめぐる諍いは「唐」との間に「隋」と同様友好関係を築こうとしていたはずの半島諸国にとってみると不利な事案であり、(「唐」にとってみると「臣下」同士の争いとなってしまうため、それこそ「宣諭」される可能性が出て来てしまうでしょう)このことからこの戦いは「七世紀初め」のものと考えるには著しく不審があるものであり、この記事には「年次移動」という「潤色」が施されていると見るべきこととなります。

 ところで、この「内官十二等」は一見して「儒教」の「五常」と深い関係があると見られますが、その「儒教」が倭国に伝わったのは『書紀』によれば「応神天皇」の頃とされており、そこでは「論語」と「千字文」が伝来したとされています。しかし「千字文」は「南朝」の「梁」の時代の編纂とされますから、「応神」の時代という記述は疑わしいこととなります。
 これについては『梁書』によればいきさつとして以下の通り書かれています。

「高祖革命,興嗣奏休平賦,其文甚美,高祖嘉之。拜安成王國侍郎,直華林省。其年,河南獻?馬,詔興嗣與待詔到沆、張率為賦,高祖以興嗣為工。擢員外散騎侍郎,進直文德、壽光省。是時,高祖以三橋舊宅為光宅寺,敕興嗣與陸?各製寺碑,及成?奏,高祖用興嗣所製者。自是銅表銘、柵塘碣、北伐檄、次韻王羲之書千字,並使興嗣為文,?奏,高祖輒稱善,加賜金帛。」(梁書/列傳 凡五十卷/卷四十九 列傳第四十三/文學上/周興嗣)

 この記事からは「千字文」の成立は「梁」が「斉(南斉)」から禅譲された「五〇二年」のことであったらしいことが読み取れます。つまり「千字文」は「六世紀初頭」の成立であり、「四世的」に伝わるはずがないこととなります。これは「応神天皇」の頃という時代のくくり方をしている『書紀』の記載に問題があると思われ、実際には「千字文」の成立後「六世紀の初め」には伝来していたと見るべきでしょう。
 これについては同じ『書紀』に継体天皇の時代のころ(五一三年)、百済より 五経博士が来倭したという記録があり、これであればこの時点で「千字文」が伝えられると共に「論語」なども「五経」と共に伝来したとしてそれほど不審ではなさそうに見えます。

「(継体)七年夏六月。百濟遣姐彌文貴將軍。洲利即爾將軍。副穗積臣押山。百濟本記云。委意斯移麻岐彌。貢五經博士段楊爾。…」

 しかし、すでに見たように『継体紀』が本来の年次から「六十年」下った位置に置かれているとすると、「千字文」を除き「五経」に関しては「五世紀」半ばには伝来したとみることもできます。(その意味ではこの「継体紀」記事に「千字文」に関することが書かれていないことが注目されます。)そうであれば「内官十二等」についても同様に「五世紀半ば」付近に上限を考えるべきであり、この年次にかなり近い時代の創設ではないかと考えるべきでしょう。つまり「倭の五王」のうち「済」の時代付近で整えられた「等級制」ではなかったかと考えられることとなります。
 そう考えると、この「任那」をめぐる戦いへの派遣記事に「大徳」「小徳」が現れることを踏まえると、他の『推古紀』記事と同様「干支二巡」、つまり百二十年遡上した「六世紀初頭」がこの記事の真の年次として考えられるべきこととなります。(当然「千字文」は「五経」とは別個に伝来したものであり、それは「六世紀初め」以降のことと考えられます。)

 この「六世紀末」の「倭国王」は中央集権的な「統一王権」を造ろうとしていたものと推定され、(それは「隋」の「訓令」に触発されたものと思われますが)「王」の権威を「諸国」の隅々まで行き渡らせようとしていたと推察されます。そのため「隋」から各種の制度、文物を導入しようとしていたと思われますが、それが「冠」をかぶるという制度の導入と関係していると思われます。
 「開皇二十年」に派遣されたという「遣隋使」が述べた「冠」をかぶる制度の紹介では「至隋其王始制冠」とされており、文脈上「其王」とは「阿毎多利思北孤」を指すものと考えられますから、彼により「隋」が成立して以降の「六世紀末」に「冠」を「官位」に応じてかぶることを制度として決めたというわけです。


(※)大越邦生「多元的「冠位十二階」考」(『新・古代学』古田武彦とともに 第四集一九九九年新泉社)


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2017/01/29)(ホームぺージ記載記事に加筆)

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