ところで、「百済を救う役」という戦いについては、その第一回目の派遣は「阿曇比羅夫」と「阿部比羅夫」の二人が将軍となっているわけですが、これが『書紀』によれば「六六一年八月」のことであり、その翌年の「五月」には「阿曇比羅夫」が「大将軍」となり、再度「派兵」されていることとなります。
そして、更に翌年には今度は「阿部比羅夫」を「大将軍」とする軍が派遣されていることとなるわけで、基本的に「阿曇比羅夫」と「阿部比羅夫」の二人が主たる「将軍」であることが分かります。
「(六六一年)七年…八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。…」
(六六二年)元年春正月辛卯朔丁巳。賜百濟佐平鬼室福信矢十萬隻。絲五百斤。綿一千斤。布一千端。韋一千張。稻種三千斛。
三月庚寅朔癸巳。賜百濟王布三百端。…
夏五月。大將軍大錦中阿曇比邏夫連等。率船師一百七十艘。送豐璋等於百濟國。宣勅。以豐璋等使繼其位。又予金策於福信。而撫其背。褒賜爵祿。于時豐璋等與福信稽首受勅。衆爲流涕。」
「(六六三年)二年…三月。遣前將軍上毛野君稚子。間人連大盖。中將軍巨勢神前臣譯語。三輪君根麻呂。後將軍阿倍引田臣比邏夫。大宅臣鎌柄。率二萬七千人打新羅。」
「阿曇連比羅夫」は「海人族」である「阿曇氏」と深い関係があるのはもちろんであり、彼が多くの「船師」を率いていることは確実です。(但し「阿曇氏」の系図には出てこないようですが)
また、「阿部臣比羅夫」は「越国守」と『書紀』に出てきていますが、「蝦夷」「粛慎」遠征に派遣され「成果」を挙げているようであり、外洋航海にも慣れているようですから、かなりの水軍勢力と考えられます。
いわば「海」のスペシャリスト二人を「大将軍」として戦闘に臨んでいたものと考えられるわけですが、それを示すように「斉明」の「軍遣の詔勅」によれば「新羅」本国を先ず攻めようとしていたように読み取れます。
「(斉明)六年(六六〇年)冬十月…
詔曰…而百流國遥頼天皇護念。更鳩集以成邦。方今謹願。迎百濟國遣侍天朝王子豐璋將爲國主 云云。詔曰 乞師請救聞之古昔。扶危繼絶 著自恒典。百濟國窮來歸我 以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存■救。遠來表啓。志有難奪可 分命將軍百道倶前。雲會雷動 倶集沙喙翦其鯨鯢。■彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。…」
ここに書かれた「翦其鯨鯢」とは「鯨」や「サンショウウオ」などになぞらえられた「敵」を切り捨てる(倒す)ということを示しますが、「李白」の「赤壁歌送別」という詩にもあるように「鯨鯢」は「海」や「大河」に住む「大魚」の一種とも考えられていたようです。
「二龍争戦决雌雄,赤壁楼船掃地空。/烈火張天照云海,周瑜于此破曹公。/君去滄江望澄碧,『鯨鯢』唐突留餘迹。/一一本来報故人,我欲因之壮心魄。」
このように基本的にはこれらの「動物」(怪物)は「海」に棲息しているとされ、「海」が戦いの場であることが想定されているようです。
また、同様に文中に登場する「沙喙」というのが「新羅」の地名であり、現在の「慶尚北道」に位置し、日本海に面した土地であることを考えると、この時の「倭国軍」は直接「新羅」の本国を攻撃する意図を持っていたことが判ります。つまり、「百済」に向かったのではなく、「新羅」そのものを攻撃する作戦であったと思われるのです。
しかし、『書紀』には「新羅国内」での戦闘シーンが出てきません。実際には「百済国内」の記事しか見られないのです。これが「百済再興」という目的ならばこのような行動範囲は首肯できるものですが、「百済」を「支援」するというのであるなら、「新羅」本体を攻める方が道理にかなっています。
「百済」は「前方」からの「唐軍」と「後方」からの「新羅軍」に挟撃される形であったと思われますから、「倭国軍」が「新羅」に直接その軍事力を行使すると、少なくとも「新羅軍」の「百済」に対する圧力が減るのは間違いないところです。つまり『書紀』からは、「発遣の詔勅」の目的としては「百済再興」ではなく、「支援」である事と理解されるものです。
それは『書紀』の記事でも明確に現れています。
(斉明六年)「…是歳。欲爲百濟將伐新羅。乃勅駿河國造船。」
ここでも明確に「新羅を伐つ」とされています。このように「新羅」を伐つことが作戦上有効であるとするなら、その時期としては「百済」が「唐」と「新羅」の攻撃にさらされていた時点が最もふさわしいと思われます。
これがいわゆる「百済滅亡」の一年後で、また「扶余豊」を「百済国王」にするためという目的での「派遣」であるなら、「新羅」を直接攻撃するという意図が曖昧になり、「違和感」はぬぐい得ないこととなるでしょう。
このことから考えても、先ず「海戦」に経験豊富な人物を将軍として人選している意図が理解できます。このような意図で、彼等水軍の雄とも言うべき人物(「阿曇比羅夫」と「阿部比羅夫」の両名)を将軍として派遣し、「新羅」に対する「背後」からの攻撃を加えたものと思われます。
ただし、これはあまり効果がなかったのかも知れません。それはこれがやはり「海戦」を主体としたものであり、「上陸兵力」としてはそれほど多くはなかったという可能性があるでしょう。「百済」と連係した動きでなければ上陸した兵力が「孤立」する恐れもあります。そしてそれは現実となってしまったものではないでしょうか。この時の戦いで「博麻」や「薩夜麻」は捕囚となったものと推量されるものです。(このことは「薩夜麻」達の捕囚となっていた場所について「百済」地域や「唐」国内などではなく「新羅」の国内である可能性が高いことを示します)
このため、「倭国」としてはさらに引き続き軍を派遣することとなったものと思料されます。
この様な経過により「阿曇比羅夫」を「大将軍」とする部隊が続いて派遣されることとなったものであり、この場合はかなり大量の「地上戦闘員」を乗船させていたものと見られ、これも「新羅」本国への攻撃を行なう事の他、「新羅」の国内で捕囚となっていた「薩夜麻」奪還作戦の側面があったものと思われます。(当然「記事」にいうように「百済」へ兵力と武器を送り、「地上戦」を支援する予定でもあったと思われます。)
その「阿曇比羅夫」はその後一切彼に関する記事が見えなくなることから「戦死」したという可能性が高いと推量されます。これに対し「阿部比羅夫」は以下のように『続日本紀』に「大錦上」という冠位が書かれ、「斉明朝」の際には「筑紫大宰帥」であったとされています。
「(靈龜)四年(七二〇年)春正月甲寅朔(中略)大納言正三位阿倍朝臣宿奈麻呂薨。後岡本朝筑紫大宰帥大錦上比羅夫之子也。」
彼は「蝦夷」や「粛慎」遠征の際には「越国守」とされていますから、「筑紫大宰」への就任はその後のこととなると考えられ、「百済を救う役」の軍派遣段階の時点の事かと推察されますが、そうすると自ら「遠征」しているのは「不審」であるとも考えられるものです。
「壬申の乱」の際の「栗隈王」の言葉にもありますが、「筑紫」は防衛上の要点であり、ここを「不在」にするようなことは「本来」してはいけないことであったと考えられますが、そうせざるを得ない事情があったものでしょう。それは「倭国王」の「親征」という意向であったと思われます。
(この項の作成日 2012/05/29、最終更新 2016/12/25)(ホームページ記載記事を転記)