これは以前投稿したものの祖型となった文ですが、端的に真意を説明しているのでここに投稿します。
「法華義疏」については従来「聖徳太子」と関連づけて語られていますが、「古田氏」も言われるように(『古代は沈黙せず』駸々堂、ミネルヴァ書房刊)その「法華義疏」の分析からは「天台大師」も「嘉祥大師」もその存在がほぼ確認できないとされます。確認できるのは「南朝」(「梁」)の「法雲法師」です。というより「古田氏」がいみじくも指摘したように「人名(注釈学僧)はすべて、法雲の「法華義記」中に現われるものに限られる」のです。すなわち「梁」の時代以降の人名を見出すことができないように見えます。
この事はこの「法華義疏」の著者が「南朝」に深く関係した人物であることを推定させるものですが、それはやはり「古田氏」が言うように、この「法華義疏」という書そのものが「天台大師」が登場する以前の段階の法華経についての注釈書であることを示すものです。
「法華義疏」についていうとその著者は「聖徳太子」ではないのは間違いないと思われ、それらはいずれも「古田氏」の主張が正しいことを示していますが、その論旨の中で「遣隋使」が持ち帰った経典やその「疏」を題材にしているなら「天台大師」や「嘉祥大師」の著作が引用されて然るべきであるのにそれがないのは不審とされ、それも「遣隋使」が実際には「遣唐使」である証拠という文脈で語られていますが、最も説明として矛盾がないのは「天台大師」や「嘉祥大師」の時代よりも「以前の教学」が参考とされているのではないかと言うことであり、それらが「倭国」に流入したのは「隋」が「陳」を滅ぼして「南朝」の「楽」や「仏教」に関する経典や「僧」が「隋」の都へもたらされた時点ではないかということです。
また氏は「…なぜなら、それ以前は、前代(第一代)の文帝(ぶんてい)の治世であるから、その時期の仏教保護政策を指したのでは、現在の天子(第二代)たる煬帝に対して「菩薩天子」の敬称を呈すべきいわれは存しないからである。…」(『古代は沈黙せず』駸々堂、ミネルヴァ書房刊)とされましたが、この「菩薩天子」や「重興仏法」というのは「大業三年記事」に現れるものであり、氏はこの皇帝を「煬帝」として疑っていないように見えます。しかし、これらは「煬帝」が強く仏教に関連した存在であることを示すものではあるものの、それが「重興仏法」の語に整合しているかというと疑問であると思われるわけです。つまり、いみじくも文中で触れているように、この時の「皇帝」を「煬帝」と見なすと矛盾であることも、「文帝」と見なしたその瞬間に「菩薩天子」の称号も「重興仏法」という用語もまったく違和感のないものになると同時に、彼の時代(特に前半)であるなら、未だ「天台大師」も「嘉祥大師」もその才覚を現しておらず、経典に対する「疏」も書かれていない時期ですから、彼らの文章を引用することも批判することも適わないのは当然とも言えることとなります。このことは、「法華義疏」の元となった「法華義記」と「法華経」が「煬帝」以前に「倭国」にもたらされたものであることを強く示唆するものではないでしょうか。そしてそれは「遣隋使」の派遣された時期に関係してくると言えるでしょう。
それまで「南朝」の方が仏教は優位であり、優れた教学は「南朝」の側にあったものです。確かに「鳩摩羅什」に始まる「北朝仏教」も大きく発展していましたが、その仏教界にも「南朝」の仏教が「本場」のものという意識があったものです。「平陳」以降「隋」が中国全体を制圧した中で「仏教」についてもその中心が「隋」の都である「洛陽」に移ったものであり、その時点では「南朝」仏教も「洛陽」に多く存在することとなったのです。それは「文帝」の仏教振興策の一環であったと思われ、「南朝」の僧を「洛陽」に多数招聘し、「隋」における仏教振興に「南朝」仏教を介在させて一種の起爆剤としたように見受けられます。そうすると「隋」と国交を樹立した段階で「倭国」に流入した仏教が「南朝系」のものであったとしても不思議ではないこととなるでしょう。この「南朝仏教」優位の状態を前進させたのが「天台大師」であり「嘉祥大師」であったと見られ、彼らにより新しく「北朝」的解釈が施されていったものと思われますが、その様なものを参照したとすれば、「法華義疏」は「北朝」的なものとなっていたはずです。
もしそう考えなければ「隋」以前に「南朝仏教」が流入したこととなりますが、「南朝」との関係は「梁」からの「授号」が「梁書」に書かれた以外は記録上確認できませんから、「南朝仏教」が「直接」「隋」以前に「倭国」へ伝来していたとは考えにくいこととなります。
そう考えると「百済」から伝来したという考えもできそうですが、しかし「百済」の仏教は北朝系のものであることが知られており、それは「高麗」を通じて北朝から伝来したものと考えられています。そうであればその時点で「北朝系」の仏典が流入し、それを原資料として「法華義疏」が書かれて当然と思われるわけですが、実際には上にみたように「南朝」に偏っているわけですから、これが「六世紀半ば」という時点付近で「百済」から伝来したものとも考えにくいこととなります。
そうすると「法華義疏」の原資料となった「法雲」による「法華義記」などの「南朝系」資料の伝来時期としては、「隋」が「中国」を統一し「南朝」の仏教文化が「隋」の首都洛陽に集められた時点付近で「倭国」へ伝来したということ以外に考えにくいこととなるでしょう。そうであれば「遣隋使」の派遣された時期としては「隋初」以外に考えられないということにもなるわけです。
また、これが「初期型」法華経に基づく「疏」であるのは、その中に「提婆達多品」が欠落していることからも分かります。「提婆達多品」は「天台大師」によってそれまでの「法華経」に補綴されたものであり、それが「法華義疏」に脱落しているということだけでも、それが「天台」以前のものであるという事が了解できるものと思われます。つまり「法華義疏」の原資料となったものは「天台大師」以前に「倭国」に流入したものであり、それは「隋初」の「遣隋使」によってもたらされたという想定がもっとも考え得るものなのではないでしょうか。
この事はこの「法華義疏」の著者が「南朝」に深く関係した人物であることを推定させるものですが、それはやはり「古田氏」が言うように、この「法華義疏」という書そのものが「天台大師」が登場する以前の段階の法華経についての注釈書であることを示すものです。
「法華義疏」についていうとその著者は「聖徳太子」ではないのは間違いないと思われ、それらはいずれも「古田氏」の主張が正しいことを示していますが、その論旨の中で「遣隋使」が持ち帰った経典やその「疏」を題材にしているなら「天台大師」や「嘉祥大師」の著作が引用されて然るべきであるのにそれがないのは不審とされ、それも「遣隋使」が実際には「遣唐使」である証拠という文脈で語られていますが、最も説明として矛盾がないのは「天台大師」や「嘉祥大師」の時代よりも「以前の教学」が参考とされているのではないかと言うことであり、それらが「倭国」に流入したのは「隋」が「陳」を滅ぼして「南朝」の「楽」や「仏教」に関する経典や「僧」が「隋」の都へもたらされた時点ではないかということです。
また氏は「…なぜなら、それ以前は、前代(第一代)の文帝(ぶんてい)の治世であるから、その時期の仏教保護政策を指したのでは、現在の天子(第二代)たる煬帝に対して「菩薩天子」の敬称を呈すべきいわれは存しないからである。…」(『古代は沈黙せず』駸々堂、ミネルヴァ書房刊)とされましたが、この「菩薩天子」や「重興仏法」というのは「大業三年記事」に現れるものであり、氏はこの皇帝を「煬帝」として疑っていないように見えます。しかし、これらは「煬帝」が強く仏教に関連した存在であることを示すものではあるものの、それが「重興仏法」の語に整合しているかというと疑問であると思われるわけです。つまり、いみじくも文中で触れているように、この時の「皇帝」を「煬帝」と見なすと矛盾であることも、「文帝」と見なしたその瞬間に「菩薩天子」の称号も「重興仏法」という用語もまったく違和感のないものになると同時に、彼の時代(特に前半)であるなら、未だ「天台大師」も「嘉祥大師」もその才覚を現しておらず、経典に対する「疏」も書かれていない時期ですから、彼らの文章を引用することも批判することも適わないのは当然とも言えることとなります。このことは、「法華義疏」の元となった「法華義記」と「法華経」が「煬帝」以前に「倭国」にもたらされたものであることを強く示唆するものではないでしょうか。そしてそれは「遣隋使」の派遣された時期に関係してくると言えるでしょう。
それまで「南朝」の方が仏教は優位であり、優れた教学は「南朝」の側にあったものです。確かに「鳩摩羅什」に始まる「北朝仏教」も大きく発展していましたが、その仏教界にも「南朝」の仏教が「本場」のものという意識があったものです。「平陳」以降「隋」が中国全体を制圧した中で「仏教」についてもその中心が「隋」の都である「洛陽」に移ったものであり、その時点では「南朝」仏教も「洛陽」に多く存在することとなったのです。それは「文帝」の仏教振興策の一環であったと思われ、「南朝」の僧を「洛陽」に多数招聘し、「隋」における仏教振興に「南朝」仏教を介在させて一種の起爆剤としたように見受けられます。そうすると「隋」と国交を樹立した段階で「倭国」に流入した仏教が「南朝系」のものであったとしても不思議ではないこととなるでしょう。この「南朝仏教」優位の状態を前進させたのが「天台大師」であり「嘉祥大師」であったと見られ、彼らにより新しく「北朝」的解釈が施されていったものと思われますが、その様なものを参照したとすれば、「法華義疏」は「北朝」的なものとなっていたはずです。
もしそう考えなければ「隋」以前に「南朝仏教」が流入したこととなりますが、「南朝」との関係は「梁」からの「授号」が「梁書」に書かれた以外は記録上確認できませんから、「南朝仏教」が「直接」「隋」以前に「倭国」へ伝来していたとは考えにくいこととなります。
そう考えると「百済」から伝来したという考えもできそうですが、しかし「百済」の仏教は北朝系のものであることが知られており、それは「高麗」を通じて北朝から伝来したものと考えられています。そうであればその時点で「北朝系」の仏典が流入し、それを原資料として「法華義疏」が書かれて当然と思われるわけですが、実際には上にみたように「南朝」に偏っているわけですから、これが「六世紀半ば」という時点付近で「百済」から伝来したものとも考えにくいこととなります。
そうすると「法華義疏」の原資料となった「法雲」による「法華義記」などの「南朝系」資料の伝来時期としては、「隋」が「中国」を統一し「南朝」の仏教文化が「隋」の首都洛陽に集められた時点付近で「倭国」へ伝来したということ以外に考えにくいこととなるでしょう。そうであれば「遣隋使」の派遣された時期としては「隋初」以外に考えられないということにもなるわけです。
また、これが「初期型」法華経に基づく「疏」であるのは、その中に「提婆達多品」が欠落していることからも分かります。「提婆達多品」は「天台大師」によってそれまでの「法華経」に補綴されたものであり、それが「法華義疏」に脱落しているということだけでも、それが「天台」以前のものであるという事が了解できるものと思われます。つまり「法華義疏」の原資料となったものは「天台大師」以前に「倭国」に流入したものであり、それは「隋初」の「遣隋使」によってもたらされたという想定がもっとも考え得るものなのではないでしょうか。