古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「難波津」について

2020年04月30日 | 古代史
 『延喜式』の中に「諸国運漕雑物功賃」つまり「諸国」より物資を運ぶ際の料金を設定した記事があります。それを見ると「山陽道」「南海道」の諸国は「海路」による「与等津」までの運賃が記載されており、これらの国は「与等津」へ運ぶように決められていたと思われます。
いくつか例を挙げてみます。

山陽道
播磨国陸路。駄別稲十五束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別稲一束。挾杪十八束。水手十二束。自与等津運京車賃。石別米五升。但挾杪一人。水手二人漕米
長門国陸路。六十三束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別一束五把。挾杪卌束。水手三十束。自余准播磨国。

南海道
紀伊国陸路。駄別稲十二束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別一束。挾杪十二束。水手十束。自余准播磨国。
土佐国陸路。百五束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別二束。挾杪五十束。水手三十束。但挾杪。水手各漕米八斛。自余准播磨国。

 この「与等津」については詳細不明ながら現在の「淀川」の河口付近にあった「津」と思われ、そこからやはり「水運」で「京」まで運んでいたようです。
ところで「大宰府」については「与等津」ではなく「難波津」に運ぶこととなっていたようです。

大宰府海路。自愽多津漕『難波津』船賃。石別五束。挾杪六十束。水手卌束。自余准播磨国。…

 「南海道」の諸国の中には「与等津」へ運ぶより「難波津」の方が近い国もあったはずであり、また逆に「博多」からであれば「与等津」の方が近いような気もしますが、当時は現実として「大宰府」は「難波津」へ運ぶとされていたのです。
 ところで「難波津」は歴史的に見て非常に重要な港であったと思われます。そもそも「難波」には迎賓館ともいうべき「難波館」が置かれたとされますし、その後「新羅」「唐」などの使者も皆「難波津」に入っています。(以下の例など)

(六三二年)四年秋八月。大唐遣高表仁送三田耜。共泊干對馬。是時學問僧靈雲。僧旻。及勝鳥養。新羅送使等從之。
冬十月辛亥朔甲寅。唐國使人高表仁等到干『難波津』。則遣大伴連馬養迎於江口。船卅二艘及鼓吹旗幟皆具整餝。

(六四二年)元年
二月丁亥朔…
壬辰。高麗使人泊『難波津』。

(五月)乙卯朔己未。於河内國依網屯倉前。召翹岐等。令觀射獵。
庚午。百濟國調使船與吉士船。倶泊于『難波津』。盖吉士前奉使於百濟乎。

 また以下では「新羅」に対する威嚇の方法として以下のように「難波津」から「筑紫の海の裏」まで船を並べるとされ、それを新羅人が目にすることを前提としていますから、「筑紫の海の裏」から「難波津」までが「新羅」からの使者の航行ルートであったことが推定できます。

(六五一年)白雉二年…
是歳。新羅貢調使知万沙餐等。著唐國服泊于筑紫。朝庭惡恣移俗。訶嘖追還。于時巨勢大臣奏請之曰。方今不伐新羅。於後必當有悔。其伐之状不須擧力。自『難波津』至于筑紫海裏。相接浮盈艫舳。召新羅問其罪者。可易得焉。
 また「遣唐使」の出発基地としての機能も「難波津」にあったと見られます。

(六五九年)五年
秋七月丙子朔戊寅。遣小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自『難波三津之浦』。

 このように「難波」「難波津」は外交の拠点ともいうべき場所であったものと思われ、「外交」が「諸国」つまり「附庸国」ではなく「本国」つまり「宗主国」の専権事項であったことを含んで考えると、上の記事の時代に「難波」に拠点を持っていた「王権」は「倭国王」そのものであったと考えられ、「難波」が「倭王権」の本拠地(直轄地)であったことが知られます。 
 また「西国」に対してもいわば「窓口」としての機能が「難波」にあったものと思われ、「近畿」から見て「西国」が唐や半島の諸国に準ずる立場にいたことが知られます。それを示すのが「壬申の乱」の際の以下の記述です。
 ここでは「倭地」を制圧した後「難波」にやってきた大伴将軍が「(難波)以西の国司」達から「官鑰騨鈴傳印」つまり「税倉」等の鍵や「官道」使用に必要な「鈴」や「印」などを押収しています。

「辛亥。將軍吹負既定倭地。便越大坂往難波。以餘別將軍等各自三道。進至于山前屯河南。即將軍吹負留難波小郡。而仰以西諸國司等。令進官鑰騨鈴傳印。」(天武紀)壬申(六七二年)の条

 ここで彼ら「西国」の国司達が「難波小郡」におり、その彼らが「官鑰騨鈴傳印」を持っていたということは、彼らが何らかの理由で「難波以西」の地から派遣されてきていたものか、あるいは「難波小郡」から西国へ派遣されていたものが帰国した時点のことであったという可能性もあります。
 「難波」には「小郡」と呼ばれる施設があったことが『書紀』に書かれており、またそこに「律令」で規定される「官道」使用に関する統制機構の存在やそこで発揮される権能の所在が看取でき、「難波」の西方の諸国の「税」に関するものや「屯倉」に保管されている物品の所有についてもこの「難波小郡」を設置した権力者に帰するものと判断されますが、それはこれが「倭王権」の直轄地であったとすると整合的です。
 つまり、上の記事からは「難波以西」の諸国にとって「租」や「調」など国家に納入すべきものの集約場所として「難波小郡」があったことが推定出来るわけであり、そして彼等が「上京」する際に必要だったものが「税倉」(屯倉)の「鍵」(鑰)であり、「官道」使用に必要な「騨鈴」であったというわけです。
 またこの時は「天智」が亡くなり、「山陵」の造営中とされていますから、彼らがこの「難波」にいた理由として「天智」の葬儀への出席と「新倭国王」への祝意を表する「表敬訪問」を兼ねたものとも考えられます。その場合「鍵」等を所有していたのはこれを新王権に献上することで忠誠と服従を誓う儀式様なものがあったことが推定出来ますが、このときの彼等は当然「難波津」まで「海路」により来たものと理解するべきでしょう。
 また「無文銀銭」も「難波」から大量に出土しておりここに「鋳銭司」あるいはその上部組織である「大蔵省」があったことが推定され、そのこともここに「王権」の中央組織があったことが推定できます。
 関連するものとして「筑紫傀儡(くぐつ)」が現代に伝えた「筑紫舞」というものがあります。この舞の主要なレパートリーに「各地の翁」が「都」に集まり舞う、という趣向の「翁舞」があります。舞う翁の数で何種類かありますが、頻度が多いのは「五人」から「七人」であり、「七人立」の場合「七人の翁」とは「肥後の翁」「加賀の翁」「都の翁」「難波津より上りし翁」「尾張の翁」「出雲の翁」「夷の翁」とされています。
 この舞はかなり淵源として古いことが推定でき「倭王権」により征服、統合された地域を表すと思われますが、その中に「難波津より上りし」という表現がされている地域があります。
 上に見たように「難波津」は「外国」等「西方に存在する」重要な地域との交渉時出発あるいは到着するという目的で使用されていた「港」であったと思われ、この「舞」における場所(地域)として考えられるのは「近畿王権」であったものと推定できます。(該当するのは「河内」か「明日香」だと思われます。)
 また「難波」には古代官道が存在していたと思われますが、それを示唆する記事が以下のものです。

「(推古)廿一年(六一三年)冬十一月。作掖上池。畝傍池。和珥池。又自難波至京置大道。」

 この「自難波至京「に置かれたという「大道」を「通例」では「難波津から竹内街道を経て横大路につながる東西幹線道路のこと」と理解されているようです。その場合「京」とは「明日香」の地を指して言うとする訳ですが、この「推古」の時代には「飛鳥」はまだ「京」(都)ではありません。「推古」の都は「小墾田宮」ですが、それは「飛鳥」の地名をかぶせられずに呼称されています。つまり「飛鳥」はこの時点では「京」でないわけですが、また「小墾田宮」のある地は「京」とされていたという訳でもないと思われます。そこには「条坊制」が施行されていませんし、何より「天子」がいません。
 そもそも「推古」は「天子」を自称したという記録はありませんし、それに見合う強い権力を行使した形跡もありません。
 「京」(京師)は「天子」の存在と不可分ですから、「天子」がいない状態では「京」は存在していないとするよりありません。このことからこの「京」については「小墾田宮」を指すとは考えられず、「本来」は(位置関係から見て)「難波京」を指すものと考えるべきでしょう。つまり「文章中」の「難波」とは「難波津」を意味するものであり「京」とは(いわゆる)「前期難波京」を指すと考えられます。
 これらはいずれも「難波」と「難波津」が当時「王権」にとって最重要地域であったことを示すと同時に、新日本王権に取って代わった後でも同様に重要な地域として残ったものであり、「倭王権」時代の慣例がそのまま残り「王権」として重要な地域である「筑紫」からの受け入れ先として「難波津」が設定されていたのではないかと推察されます。
 その後十世紀に書かれたと考えられている「竹取の翁の物語」の中で、「かぐや姫」に求婚した際に条件として「優曇華の花」を取りに行ってくるように言われた「車持皇子」は「筑紫」に行くと称して「難波」から出港していますが、これも「筑紫」と行き来するための港が「難波」と決まっていたことを推察させるものであり、それは古代から伝統となっていたものではなかったでしょうか。
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