古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

石田泉城氏の論に対する反論

2020年04月25日 | 古代史
 少々前になりますが石田泉城氏のブログ(https://ameblo.jp/furutashigaku-tokai/entry-12579995137.html )で「投馬国」の位置について私が書いた論(これは「水行」したからそこが「島」であるという氏の論に対する反論)(https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/5150f760a16329178983ad792739ed94 )に対する再反論が書かれていました。
 詳しくは氏のブログをご覧いただくことして、韓半島の移動ルートについては以前ブログに以下のような文章を書いています。

「…ここで半島全体を水行していないのは、「済州島」近辺の海域については小島が多く海流が複雑でありまた水深が浅い場所があるなど座礁の危険などのリスクを伴うからと思われます。このため途中から陸路により「半島南岸」まで移動すると言うこととなったものではないでしょうか。
 また逆に半島内全部を陸行しないのは「韓国」が混乱の後やっと制圧されたのが「張政」来倭の直前であり、その時点であれば「全陸行」も可能かも知れませんが、それ以前の「正始元年」付近に倭国を訪れた「魏使」はまだ「不穏」な情勢があり、完全には「帯方郡」の治世下に入っていなかった「半島内」は部分的にしか陸行できなかったのではないでしょうか。その際はまだしも「帯方郡」の統治力が強い地域を限定して通過したものであり、その意味で「洛東江周辺」地域は安全地帯であったと思われます。それに対し「帯方」「楽浪」二郡と主に戦火を交えたのが郡治のすぐ南にあったと思われる「馬韓」であり、「魏使」はこの地を迂回して進んだとすると部分的に「水行」している理由として理解しやすいものです。
 また「陸行」は道路整備が進んでいない段階では正しい方向に進んでいるのかがかなり判りにくいことと、山賊や野犬(半島であればまだ虎もいたはずです)などの動物の脅威などもあり、長距離移動はかなり危険を伴ったと思われ、しかもその割りに「馬」でも使用しなければ非常に日数を要するものであったらしいことも不利な条件です。そう考えると長距離移動は「水行」(ただし「沿岸航法」による)が基本であったと思われます。…」

 上に書いたことは現時点でも変わらず有効と思います。
 道路を整備するというのは、その地域全体を完全に統治下に置くことが可能な政治力があればこそであり、この時点では「魏」の権力が半島全体を覆っていたとは言えないことからも道路整備が不十分であったことは想像しやすく、その意味でそもそも「全陸行」できる条件はなかったと言っていいでしょう。

 また氏は「魏使」が倭国に到着後「伊都国」まで「水行」していない理由を挙げるよう要求していますが、これはそれほど難しいものではないと思います。(というよりこれを要求するのであれば「半島」において一部「水行」している理由についても氏は述べなければなりません。氏の論にはそれが書かれていません。)それは『倭人伝』にあるように「末盧国」が外交の窓口であったからであり、そこで外交文書などの検閲等行い、その後「一大率」の治するという「伊都国」まで「陸上を引率する」という目的あるいは考え方が倭王権にあったからではないかと推察します。
 そもそも「末盧国」に外交港を設定しているのは「倭王権」の中心領域近くの港への進入を抑制する意図があったと見られ、「末盧国」へ入港後は「陸上」を移動させることで「安全」を確保する目的ではなかったでしょうか。つまり「魏使」(彼らだけが対象ではないでしょうが)の「行動の自由」を奪うという「一大率」の基本的な目的があったと思われ、彼等を自らの管理下に置くために「倭王権」側に案内される以外に進む方法がないという状態に置かれることとなったものと推量します。これらは多分に軍事的な側面からの移動法の選択であり、その目的のためには「行くに前を見ず」というルートも積極的に選んだものと思われるのです。
 つまり「投馬国」への行程が「水行」なのは、そこ(「投馬国」)が「島」だからではなく、上に行った推論から、単に「遠距離」であったからと見るのが相当でしょう。(「島」であれば「水行」は当然ですが逆に「水行」だから「島」とは限らないということであり、逆必ずしも真ならずということです。)
 後の『筑後国正税帳』(天平十年)によれば得度僧の「多褹」(種子島)への帰途の食料として「二十五日分」を支給しており、これはその経路が「水行」であったことを示しています。この時点では「陸上」の移動もかなり安全と思われ、そうであれば隣の国府(肥後)までの食料を支給してしかるべきですが、実際には「多褹」までの全食料を一括で支給しているとみられ、この時点においても「陸路」よりも「水行」を選んでいます。
 「陸路」でも「薩摩」まで行くことは可能なわけであり、そこから「船」に乗るという方法もあったと思われますが、そうしなかったのはこの「水行」というルート(移動方法)が、そこが「島」だからという理由で選ばれたというより、「遠距離移動」は「水行がメイン」という考え方があったからと考えるべきであり、それは古代においても普遍的な考え方ではなかったかと推察されます。
 ちなみに支給された食料が「二十五日分」というのも示唆的であり、「多褹」までと「薩摩」までの実距離が近似していることを考えると、倭人伝の「水行二十日」の対象である「投馬国」が「薩摩」であったとすると無理なく理解できると思われます。
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