『二中歴』の「年代歴」の記事について「干支一巡」の遡上が措定されるべき事を述べたわけですが、その「年代歴」の冒頭には「年始五百六十九年内、三十九年無号不記支干、其間結縄刻木、以成政」とあります。それに引き続き「継体五年元丁酉」から「大化六年乙未」に至る年譜が記されているわけです。
ここで「無号」といっているのは「年号」のことと思われます。そして「年始」つまり「年」を数え始めたその基準となる時点以降、最初の三十九年間は「年号」はなく「干支」もなかった、ただ「結縄刻木」していただけだった、というわけです。そして、その後に「継体元丁酉」から始まる「年代歴」が接続されるわけであり、「継体」という年号と「丁酉」という「干支」がその時点以降表記され始めるというわけですから、その前段から意味が連続していることと理解できます。つまりこの時以来(それまでなかった)「年号」と「干支」併用し始めたということと理解するのが当然といえることとなります。
(この「年始」については以前「古田氏」の見解(※1)をなぞる形で「紀元前」に求める記述をしていましたが、「二中歴」のこの部分を正視すると「無号不記干支」の終わりと「継体元丁酉」が接続されているというある意味当然ともいえる知見を得たため、この「継体元丁酉」という年次の「三十九年前」に「年始」を定めるべきというように見解を変更しました。これは「丸山晋司氏」の見解(※2)と結果的に同じとなります。)
この「年代歴」冒頭部分は当然その直後の「年号群」につながらないとおかしいですから、意味的にも連続していると考えるべきでしょう。たとえば、この「年始」を「大宝建元」のことと理解するなら(これは故・中村幸夫氏の論(※3))、この部分から「年代歴」中程の「大化」年号の後に書かれている「已上百八十四年~」という部分まで「飛ぶ」こととなります。しかし、それは読み方として「恣意的」に過ぎるのではないでしょうか。
また「古田氏」等のようにこれを紀元前まで遡上させた場合そこから数えて「三十九年」以降「継体」までの間のことに「年代歴」では全く言及していないこととなりそれもまた不審と思われます。
また、当初の「三十九年」が二倍年歴としての表記であるという考え方もありますが、そうは受け取れません。そうであるなら「年始五百六十九年」さえも「二倍年暦」であることになるはずです。(三十九年はその中に包含されているのですから)しかし誰もそのような議論はしていないようです。
「古田氏」は「継体元年」である「五一七年」から「五百六十九年」遡上した「紀元前五十二年」を「年始」としているわけですが、「結縄刻木」は「明要元年」まで行われていたものであり、その時点まで「二倍年暦」であったとすると、「紀元前五十二年」から「五四二年」まで全て「二倍年歴」であるということとなり、そうであるなら「年始五百六十九年」という数字全体が「二倍年歴」であることとなってしまいます。もしこれを「二倍年歴」であるとすると、「五百六十九年」ではなく、実際には「二百八十年」ほどとなってしまいます。「継体元年」から「二百八十年」遡上すると「二三七年」となり、これは「卑弥呼」の治世の真ん中になります。こう考えて「年始」を「卑弥呼」の時代に置くというならそれも一考かも知れませんが、現在のところそのような見解はないようです。
これについてはこれらの年数は「一倍年暦」時代に書かれたものであり、すでに「換算」が終えた段階の記述と考えるのが正しいと思われます。つまりこの「年代歴」の冒頭部分では「年始」からの年数に関していわば「二中歴」作者の公式見解とでもいうべきものが書かれていると思われ、その中の「五百六十九年」や「三十九年」は「生」の数字ではなく、彼の立場ですでに整理されたものと思われ、「二倍年暦」などがもしあってもそれを太陰暦に変換した上で述べているのではないかと推察するわけです。
結局自国年号を使用開始した時点(『二中歴』の記事を「六十年」遡上した年次として修正して考えると「四五七年」)から遡る年数として「三十九」という数字が書かれていると判断できるものであり、これを計算すると「年始」とは「四一八年」となります。この時点を「起点」として「年を数え始めた」というわけですが、これは既に見たように「仏教」の伝来とされる年次とまさに一致します。
つまりこの時点で「年」を数え始めたという事の意味は『「仏教伝来」からの年数』を把握するというものであったのではないかと思われるわけです。つまり「倭国」における「年」の意識は元々「仏教」に結びつけられたものであったという可能性があると思われるわけであり、それはその後「年号」に「仏教」関係のものが著しく多いこととなって現れたといえるのではないでしょうか。
そして、「二中歴」でその基準年とされているのが「四一八+五六九=九八七年」であったということであり、この「二中歴」の「年代歴」記事は元々「十世紀」の終わりに書かれていたものを下敷にしたという可能性が高いと考えられることとなるでしょう。
(※1)古田武彦「独創の海――合本『市民の古代』によせて」合本『市民の古代』(新泉社)第一巻(第1集~第4集)所収
(※2)丸山晋司『古代逸年号の謎 古写本「九州年号」の原像を求めて』
(※3)誌上論争「二中歴年代歴」市民の古代研究「二十二、二十四、二十五号」昭和六十二~六十三年
「二中歴」の年代歴の「細注」については、今見たように「仏教」の伝来とされる時期と齟齬する記述があるわけですが、これを「修正」するための方法論としては、「推古紀」などと同様「一二〇年」(干支二巡)「過去」へずらすというものも考えられるところです。たとえば「古賀氏」はその論(※)の中で、「大江匡房」が書いた『筥埼宮記』の解析から「応神朝」に「漢字」が導入され、その結果「政治」を行う際にそれまでの「結縄刻木」が止められたと理解され、それは「三国史記」の「百済」「阿花王」の時代と同じ五世紀の初め(四〇五年か)と推定されました。しかし、それは新たな「矛盾」を引き起こすものでもあると思われます。
このような仮定がもし正しいとすると、「二中歴」の「年代歴」との齟齬はますます大きくなってしまいますから、必然的に「二中歴」も「百二十年」遡上せざるを得なくなると思われますが、その場合「僧聴」という年号は、その「元年」が「四一六年」となり、これは「仏教伝来」以前の時期に「僧聴」という年号が使用されたこととなってしまいます。
さらに「継体」の項に記された「年号」の使用開始というものも「一二〇年」遡ることとなった場合、その年次として「三九七年」になってしまい、「四一八年」と考えられる「仏教伝来」よりも早くなると同時に、最初の「南朝遣使」と考えられる「四一三年」よりも(もちろん「元嘉暦」の伝来よりも)早いこととなってしまいます。
それは『隋書俀国伝』の主張と食い違うこととなるでしょう。『隋書』ではあくまでも「百済」からの「仏法」伝来以降の文字(日本語)成立であり、それ以前は「結縄刻木」であったとするわけですから、「仏教伝来以前」に「太陰暦」があったとすると「結縄刻木」の存在と少なからず矛盾するわけです。なぜなら「年号」と「暦」は一体不可分のものであり、また暦(太陰暦)と「結縄刻木」は逆に相容れないものであると思われるからです。しかし「二中歴」によれば「年始」以降三十九年間は「無号不記干支」とされていて「その後」「年号」と「干支」が使用されるようになります。この記述からも「結縄刻木」の以前に「太陰暦」が伝来していたとは考えられないと思われることとなるでしょう。しかし「二中歴」の記事(細注)を一二〇年遡上させるという方法論は、それが「矛盾」として現れてしまうということとなります。
また、「結縄刻木」を止めて、「文字」の使用開始となったとされる年次が「明要元年」「五四一年」であったものが「四二一年」となると「仏教伝来」からわずか「三年後」のこととなります。このことは「仏教受容」から「文字」成立まで余りにも早すぎるのではないかと考えられ、蓋然性が低いように感じられます。
私見ではこの「文字」は「日本語」を表すべきものと見ていますから、当然国内においてある程度「漢字」文化が行き渡るといういわば準備期間にあたるものが必要であり、それを使用する多くの人間により共有される環境が成立して始めてコミュニケーションツールとして機能すると思われるわけですが、そのような環境が構築されるためにはそれなりに時間がかかって当然と思われ、そう考えると「三年」は短すぎると思われるのです。(ただし「一二〇年」は長過ぎると思われますが)
「漢字」がその国の言語を表すツールとして成立するには「漢字」に対して「なじむ」期間が必要であり、「漢文」を使いこなして、その意味、由来、「音」など知り尽くした後に、これを「日本語」へ転用できないか考えて考案されたという過程が想定され、その成立は「仏教」伝来後「六十年」ほど経過した「六世紀後半」だったと仮定する方がよほど整合性が高いと思料されます。逆に言うと「漢語」こそ導入後すぐに「公文書」には使用されるようになったものと思われますが、(それは「南朝」へ「国書」を提出しているらしいことで推察できるものと思われます)それでは「俗」(一般民衆)には届く(理解される)はずがなく、その間は「結縄刻木」を続けるしかなかった(それが三十九年間)であったと理解するのが正しいと思われるわけです。
そう考えると、「二中歴」の「年代歴」に書かれている「細注」はそのままでよいはずがないと同時に「百二十年」(干支二巡)のズレは多すぎてかえって不審となると思われ、「干支一巡」程度の遡上年数を措定すると最も整合するようです。
また『書紀』同様『古事記』にも「百済」から「漢籍」が「阿直岐氏」や「王仁氏」(和邇吉師)により「応神朝」にもたらされたという記事がありますが、そこでは「漢籍」として「論語」と並び「千字文」が貢進されたと書かれています。
「(応神記)…亦百濟國主照古王 以牡馬壹疋 牝馬壹疋 付阿知吉師以貢上【此阿知吉師者阿直史等之祖】 亦貢上横刀及大鏡 又科賜百濟國 若有賢人者貢上 故受命以貢上人名 和邇吉師 即論語十卷 千字文一卷 并十一卷付是人即貢進【此和邇吉師者 文首等祖】」
しかし「千字文」は「南朝」の「梁」の時代に作られたものであり、「応神」の時代とされている「四世紀末」から「五世紀初め」とは時代が全く合いません。この点からこの記事には(「記紀」とも)信憑性が疑われるわけですが、この「千字文」記事についてのみ「潤色」が行われていると考えるより、記事全体として「年次」あるいは「時代」を変えて記述されていると考える方が合理的と思われます。つまり「論語」や「千字文」は「百済」から伝来していたことは確かでしょうけれど、ただそれが「五世紀初め」という時期ではなかったと言う事ではないでしょうか。(当然その場合は「六世紀初め以降」の伝来ということとなるわけですが、具体的には「六世紀後半」が最も考えられる時期と思われます。)
このことからも「五世紀初め」という早い時期に「漢字」の国内使用が始まったとか「結縄刻木」が止められたとは考えられないこととなり、先に述べたように「仏教」伝来から「ある程度」時間が経過した後に「日本語としての文字」が成立することとなったと考えることによって正当な理解が得られると思われます。
(※)古賀達也「倭国に仏教を伝えたのは誰か -「仏教伝来」戊午年伝承の研究」『古代に真実を求めて』第1集一九九六年
この「天然痘」はその病原体が「列島」起源のものではないことが判明していますから、半島や大陸から持ち込まれたとすると、半島などと往来が頻繁になった時期を措定すべきであり、その意味で「五世紀」というのは「天然痘」の流行時期として適合していないとはいえないこととなります。
この時代は「倭の五王」という「南朝」への遣使が行われる時期であると共に「半島」において「高句麗」の南下政策が強まり、「百済」と「倭国」がそれに対抗して「通交」していた時期でもあります。「好太王碑」の文章によっても「倭人」が相当多数半島に所在していたらしいことが知られます。
つまりこの「五世紀」という時期は「倭国」と「百済」との間がかなり親密になった時期であり、その意味で「天然痘」が流行する素地ができていたこととなりますから、その感染拡大が「六世紀」や「八世紀」などに限らないことは確かと思われます。(中国では遅くとも四世紀には「天然痘」による死者などが出ていたとされますから、その意味でも「早すぎる」と言うことはないといえます。)
「天然痘」のような強力な伝染病は死亡率も高く、古代にはそれを逃れるための有効な治療法がないわけですから、必然的に「神仏」に頼るということとなります。そのことから「仏教」が伝来する或いはそれを受容するという中に「伝染病」の流行が背景にあったと言うことが考えられるでしょう。
また、これらの記事が遡上するという可能性があるのは『隋書俀国伝』の中に「天下熱病」を窺わせる表現や「請観音経」についての記述がないことからも推定できると思われます。
『書紀』にあるように「敏達紀」である「五八五年」付近で「天然痘」の大流行があったとすると、それに程近い時期に派遣されたはずの「遣隋使」からそのような報告があって当然と思われるのに対して、記事ではそれがみられないということからも、実際にはその流行がもっと以前のことであるという可能性が高いものと推量します。それは国内に「観音(観世音菩薩)信仰」があるという説明がされていないということでも推察されます。
既にみたように「請観音経」の中心は「月蓋長者」に関する治病説話であり、それは「天然痘」のような強い伝染病が流行したことがその契機であって、「釈迦」や「観世音菩薩」「勢至菩薩」などを称揚することによる功徳によりそれが治まったとされています。「倭国」における「天下熱病」もこの「請観音経」がその救済として尊崇されたとすると、それと程近い時期に行われた「遣隋使」がそのことに触れないのは不審ではないでしょうか。
しかし実際には「隋書俀国伝」では「如意寶珠」に対する信仰が語られているのです。
この「如意寶珠」は基本的に「小乗」の経典(「賢愚経」や「大方便仏報恩経」)にあるものであり、「北魏」で漢訳されたとされ「北朝系」と考えられます。それに対し「請観音経」は「百済」を通じもたらされたものであり「南朝系」の経典と考えられますから、その意味でも食い違いがあります。
またそこで「俗」の主役となっているのは古から続く「神道系」の信仰であったとされます。「隋書俀国伝」によれば当時の「倭国」の一般の人々は「卜筮を知り、最も巫覡(ふげき=男女の巫者)を信じている」とされています。つまり、「倭国」では古来より伝わる「神道」形式の信仰が主たるものであったと思われるわけであり、この「巫覡」についても「病気」に対しての民間療法の一種ではなかったかと考えられ、これと「如意寶珠」についての信仰が「習合」しているものと推察されます。しかしこれは「天下熱病」に対応する性格のものではないと言うことがいえるでしょう。ここで行われている「如意寶珠」に関する記事の中には「治病」関係の説話が見られないからです。つまりこの段階或いはそれ以前の近い時期には「天然痘」の大流行が起きているとはいえないこととなるでしょう。
「…臣亡考濟、實忿寇讎、壅塞天路、控弦百萬、義聲感激、方欲大擧、奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣…」(「武」の上表文より)
「宋書」の記事から「讃」の死去後「興」が即位したのが少なくとも「世祖大明六年」であり、またその死去は遅くとも「順帝昇明二年」であることとなると思われますから、結局「四六二年」から「四七八年」までの間のどこかで「興は」は死去したこととなりますが、いずれにしても「同時」と言うことはなかったと思われるものの「奄喪」という言葉が示すように「相次いで」というような状況はあったと思われます。さらにこの「奄(とも)に」という語の中には、その「死因」も同様であったと言うことが表されているのではないかとも考えられ、このように「父」と「兄」がほぼ同時期に同じような死因で亡くなったと見られることとなるわけですが、それはどのような事態が考えられるでしょう。
当然「事故」もあり得ますし、「済」の場合は(年令が分からないため)単なる老衰というようなこともあり得るでしょうが、私見によればもっとも考えられるのは「病気」であり「伝染病」の可能性です。
これについては、もし「推古紀」やそれ以前の「崇峻紀」「用明紀」などが移動するなら、その場合「武」と推定される「推古」の「父」と「兄」であるところの「欽明」と「敏達」「用明」の死去した際の状況との比較が気になります。
「書紀」によれば「兄」である「用明」は「三年」という短い期間の在位の後死去しています。その彼は「瘡」つまり「天然痘」で亡くなったとされます。その前代の敏達も「同母兄」ですが、これは二十三年間の在位期間があるものの、その死はやはり「天然痘」によるものであったと推定されています。さらに「敏達紀」と「欽明紀」は「疫病」の発生という点で良く似ているといえます。「天然痘」による国内がパニックに陥った状況は「敏達紀」に詳しいのですが、「二中歴」の「年代歴」の「金光」年号はその元年が「庚寅年」とされていますから、これは「欽明紀」に相当するものであり、その「金光」という年号について既に見たように「請観音経」という「経典」の中にその原点があると見られることと、その「請観音経」が「天然痘」のような強力な病気に対する救済としての「経典」として尊崇されていたと言うことを考えると、「欽明紀」の状況は「敏達紀」の内容にますます近似することとなります。(筑紫の「元岡古墳」から出土した「四寅剣」も「庚寅年」に作られたとされ、その由来から考えても「天下熱病」という事態に対応するためのものという理解が可能ですから、ますます「欽明紀」にこそ「天然痘」の流行があったと考えなければならないこととなります。)
また「敏達紀」と「欽明紀」はその仏教受容に関する経緯も甚だ似通っており、登場人物も「蘇我」「物部」「中臣」など父から子へとその問題解決が先送りされたらしいことが書かれているものの、普通に考えてこの両天皇紀の近似は不審であり、「同一記事」の重複という考え方も一部ではされています。
そう考えると、上記のようにそれらの記事が「一二〇年」遡上するとした場合、「武」の上表文にいうような「父」や「兄」が時をおかず亡くなったという事実は「敏達」「用明」などの死去と重なるものであることとなり、それは「天然痘」によるものであったということになると思われます。
後の「藤原四兄弟」の例を待つまでもなく、「天然痘」のような強力な伝染力を持った病気は近親者に発病者が続いて出る例が珍しくなく、その意味で不自然ではありません。
同様の例と思われるのが「法隆寺」釈迦三尊像の光背に書かれた「上宮法皇」とその「母」(鬼前大后)と「妻」(干食王后)という三者同時期の死去と言う記事です。これもまた強力な伝染病(「天然痘」によるものか)によるものではなかったかと考えられるものです。それは彼らが「伝染病」などの治療に関係した事業を行っていたと考えられるからです。
現在「四天王寺」の別院として「勝鬘院」があります。この「寺院」は元々「四天王寺」の「施薬院」として開かれたという伝承があります。この「四天王寺」は「聖徳太子」の手になる創建が伝えられていますが、この「別院」である「施薬院」についても同様に「聖徳太子」に関わるものとされ、ここでは、「薬草」の栽培から、「調剤」そして「投与」という段階まで行なっていたとされるなど、「貧窮」し、「病」に倒れた民衆の救済にあたっていたとされています。(『四天王寺縁起』による)
この「施薬院」を初めとする「四箇院」は「上宮法皇」の「母」(鬼前大后)など彼の親類縁者の「女性」達により営まれた、当時としては画期的な「福祉施設」であったものと推測されます。そのような施設を運営していた彼らがほぼ同時に亡くなったとされているのは何らかの「感染症」によるという可能性もあり、それがこの「施薬院」等における「看護活動」の際に、患者から何らかの「病気」に「感染」した結果という可能性もあると思われます。
同時期に家族などの近親者が病に倒れ、死に至るというからにはそのような「感染症」や「伝染病」を考える必要がありますから、「四箇院」の存在はその感染ルートとして考慮の対象とすべきものと思われます。
その際最も可能性が考えられるのは「天然痘」ではないでしょうか。「天然痘」は上にみるようにかなり早い段階から国内に流行があったとみられますが、その後も「筑紫」など半島と交渉のある地域から繰り返し「病原菌」が持ち込まれていたものと思われ、「上宮法皇」たち三人もそのような環境の中で「天然痘」患者の救済にあたっていたものと思われますが、患者から感染し死に至ったものではないかと推察されるものです。
彼の研究は余り日の目を見ませんが、その内容は重要な意味を含んでいると思われます。その研究を改めてなぞってみると、『書紀』の日付入り記事の分析から、「崇峻紀」を含んでそれ以前においては「月」の前半(十五日以前)の記事しか現れないのに対して、「推古紀」以降は後半(十六日から三十日)の日付も現れ、元となった暦には明らかな違いがあるとされています。つまり「推古」とそれに続く「舒明」「皇極」などは月の後半の日付も確かにある程度存在し、それは明らかに「太陰暦」に基づいて記事が書かれていることを示しますが、それ以前は「太陰暦」ではない「暦」に基づいて書かれた可能性が高いとされます。(但しいくつか例外となる「代」は存在するようです)
彼も既に検討したようにこの「偏り」には「暦」の違い以外の理由が見いだせません。彼はそうはいっていませんが、これは古田氏のいわゆる「二倍年歴」に相当するものではないかと推量されます。しかし、「崇峻紀」の終わりまで「二倍年暦」が継続していたとすると、「矛盾」が発生することとなるのは必定です。
普通に考えても「遣隋使」を派遣するような段階まで「太陰暦」が国内になかったとは信じられず、明らかに不審であることとなるでしょう。
『隋書俀国伝』の中にも「毎至正月一日必射戲飲酒」という文章があり、「太陰暦」の使用が明確です。
また、「年号」と「干支」が「太陰暦」と関係があることは言うまでもないものと思われ、そうであれば「年代歴」の「干支」についての理解がもし仮に「通常」のものとしても「六世紀前半」という「太陰暦」と「六世紀後半」の「二倍年暦」の終焉とは全く時期として整合しないといえることとなります。(もちろん「六十年遡上」した場合であればなおのことですが。)ここに年代のずれが生じることは避けられないと思われます。
ところで、すでに見たように「古賀氏」及び「中小路氏」の研究により「仏教」の初伝は「五世紀初め」(四一八年か)と考えられる事となり、そのことについて言及している「百済僧」「觀勤」の上表も実際には「六世紀初頭」のことと推定されることとなりました。つまり、実年代として「百二十年」程度遡上して考える必要があるということとなったわけです。
このことは「日付」の分析からの帰結として得られた「二倍年暦」終焉の時期として「崇峻紀」と「推古紀」の間に存在している境界線についても同様に「遡上」する可能性を示すものと思われます。
上に見たようにこの境界線の存在が「有意」であるとすれば、倭国の「暦」の使用実態とは整合しないのは確かであろうと思われ、いずれかの年数遡上する必要があると考えられる訳です。その意味でもしこれが「百二十年」程度遡上したとすると、時期としては「四七〇年」付近のこととなります。これはすでに考察した「結縄刻木」が止められたという「明要年間」におよそ該当するものです。
「二中歴」によれば「明要」年間に「結縄刻木」が止められたとされています。
「明要 十一 元辛酉 文書始出来結縄刻木止了」
ここに書かれた「辛酉」は「干支一巡」(六十年)遡上して「四八〇年」付近のことと考えられることとなったことはすでに述べました。それに対して「二倍年暦」終了と推測される時点は(百二十年の遡上を含んで考えると)「四七〇年」付近となりますから、ほぼ重なっていると言えるでしょう。
このことは「二倍年暦」と「結縄刻木」には密接な関係があるという考えからも推察できます。つまり「結縄」が数字あるいは日付を表すとした場合、その日付とは「古暦」つまり「二倍年暦」ではなかったかと考えられる訳です。
「年号」と「干支」が使用されるようになった時点では確実に「太陰暦」(元嘉暦)が導入されたと考えられる訳ですが、当然それ以前は「古暦」の時代であり、それは「二倍年歴」と見られるわけですから、それ以前に行われていた「結縄」は「二倍年暦」を表記するものであったと考えざるを得ないものです。
(※)貝田禎三『古代天皇長寿の謎』(六興出版)