JR高崎線が高崎駅に近づくと、西側の丘陵に大きな観音様が立っているのが見える。
「高崎白衣大観音」(高さ41.8m)で、地元の建設会社の創業者が1936年、旧高崎城内に置かれた高崎連隊の戦没者の霊をなぐさめるとともに、観光の拠点にという願いを込めて建てられた。
15年5月の飯能新緑ツーデーマーチに参加した際、飯能市の旧名栗村にも同じ頃、地元の実業家が建てた観音様があると初めて知ったので、早速見物に出かけた。
飯能駅からバスで約40分。白雲山にある白く流麗な3体の救世(ぐぜ)大観音。ここは白雲山の鳥居の地にあるので「鳥居観音」と呼ばれる。真ん中の観音様は33mの高さという。優雅なお姿である。(写真)
白雲山は全山が鳥居観音の境内になっていて、救世大観音だけでなく、麓の本堂・観世音センターを初め、三蔵法師の遺骨を納める「玄奘三蔵塔」や納経塔、平和観音など多くの建物があり、徒歩でも車でもお参りできるようになっている。
三蔵法師のお骨は、さいたま市岩槻区の慈恩寺にもあり、訪ねたことがある。「埼玉県に2か所もあるのか」とびっくりした。
この鳥居観音を築いたのは、西川材の中心的な生産地であるこの地に生まれ、白雲山を所有する素封家・平沼家の当主平沼弥太郎だった。
弥太郎は、家業の林業経営をバックに、飯能銀行会長など経て1949(昭和24)年には埼玉銀行の頭取となり、日本一の地方銀行に育て上げ、「埼玉銀行中興の祖」と呼ばれた人である。
1937(昭和12)年、日支事変の勃発を機に、戦没将兵の慰霊と観音信仰の篤かった母・志げ子の菩提を弔うため、自宅前の白雲山に観音堂を建てることを決意した。
母親は「私に代わって観音様のお堂をこの地に建てておくれ」と弥太郎に遺言していた。
1940(昭和15)年に観音堂(現在の恩重堂)を完成させ、これが観音信仰の霊場鳥居観音の母体になった。
それから1985年に93歳で死去するまで30年余、営々と作り続けたのが白雲山・鳥居観音である。救世大観音ができたのは、1971(昭和46)年のことである。
この鳥居観音が他と違うのは、弥太郎は観音堂を建てようと決意すると同時に、自ら仏像彫刻を志し、仏像彫刻の第一人者に弟子入りし、「桐江」という名を持つほど上達したことである。
「桐江」の作品は、本堂や鳥居文庫などに7観世音菩薩や大黒天などとして残されている。
鳥居観音に三蔵法師遺骨があるのは、孫文や蒋介石といった当時の中国の要人と交流のあった水野梅暁が病気静養のため平沼邸を訪れたのがきっかけだった。
梅暁は、中国国民政府から三蔵法師の遺骨を分贈され、日本に遺骨を納める塔を建設するのを使命としていた。
弥太郎は1947(昭和22)年、第1回の参議院議員に選ばれたが、1961(昭和36)年、武州鉄道汚職事件で逮捕、起訴され、辞任している。
聖俗併せ呑む大人物だったようだ。
鳥居観音は、紅葉が美しいので知られる。
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