秩父事件 総理 田代栄助
「一見温厚の老人のようで、暴徒の巨魁(きょかい)などとは見えなかった。全く多勢のために祭り上げられたもののように思われた」。逮捕された後、「総理」田代栄助の取り調べにあたった検事は語ったという。
振りかえりみれば昨日の影もなし 行く末くらし死出の山路
と墓石に刻まれている辞世の句にも“革命家”の高揚感は感じられない。事実、祭り上げられた老人だった。
事件当時、指導者の中で最年長の51歳だった。大宮郷、現在の秩父市熊木町に生まれた。生家は近くの鉢形城の家老から出た名門。旧幕時代、名主を務めていて、大百姓の部類だった。
しかし、しだいにその田畑も手放し、天蚕(てんさん)を育てる農民になっていた。天蚕とはヤママユのことで、野生種だから室内でなく、山林のカシ、クヌギの葉で網を覆って育てる。最高級の絹が取れるので、飼育は困難だが成功すれば大きな利益が期待できた。畑も高利貸しの担保になっていた。
家系を支えるため代言人(弁護士)の資格を取り、裁判所に出入りしていたから、高利貸しに苦しめられる農民たちの苦しみはよく分かっていた。
当時、自由党の影響を受けた「秩父困民党」の旗上げの準備が着々と進んでおり、活動家たちはそのリーダーを求めていた。栄助は義侠心に富んだ侠客(きょうかく)として知られ、「熊木の親方」と呼ばれていた。その年令といい、知名度の高さからうってつけだった。活動家たちが何度も接近、持ち前の義侠心から一命を投げ出す覚悟を固めた。
尋問調書で「生来強きを挫き、弱きを扶(たす)くるを好み、・・・人の困難に際し中間に立ち、仲裁を為すこと18年間、子分と称する者200有余人」と語っている。侠客と言っても博徒や暴力団ではなかった。
蜂起を急ぐ者が多い中で、栄助は慎重派で、政府を相手に回すのだから、秩父だけでなく関東甲信越近県の困民党が一斉蜂起できるよう、蜂起の日が決まった後も一か月延期論を唱えた。
自由党の大井憲太郎も「軽挙はことをあやまる」と阻止のため使者を派遣していた。自由党に属し、困民党の育ての親だった会計長井上伝蔵は、自由党本部の意向を知っており、一斉蜂起ができないと決起の意味が無いと「延期論」「平和論」を唱えた。
だが、高利貸しの取立てが厳しくなって、破産の瀬戸際に追い込まれている者が多くなっていた。結局、田代と井上は、副総理加藤織平らの単独蜂起に賛成せざるをえなかった。
栄助には胸痛の持病があった。3日午前10時頃、皆野村の「角屋」の本陣に入った栄助は胸痛が起こり、大野原村に戻り、民家で静養した。4日朝、本陣に帰ったが、胸痛が去らず、安宿で横になっていた。
この日は、持病の発作に加えて、大隊長の新井周三郎が捕虜の巡査に斬られ、重傷を負って本陣に運び込まれてきた。栄助が皆野防衛のために呼び寄せようとしていた大隊だった。秩父からの出口はすでに軍隊と警官に封鎖されていた。
午後3時頃、栄助は新井の姿を見ると、「嗚呼(あゝ)残念」との言葉を残し、井上伝蔵らとともに角屋の裏口から脱出した。副総理の加藤織平が周三郎を追って皆野に来たときには、栄助の行方は分からなかった。織平も逃亡せざるをえず、本陣は解体した。
「斯(かく)八方敵を受けたる上は打ち死にするの外なし。・・・山中に潜み、運命を俟(ま)たん」と傍にいた者に語ったと調書にはある。
実戦部隊を率いる加藤織平や菊池貫平らが栄助の指令を受けず、単独行動をとったのも栄助には不快だった。栄助はすでに大集団を掌握出来ていなかった。
栄助ら七人で荒川を渡り、長留(ながる)村に来た時、栄助は伝蔵ら六人と分かれ、夜陰にまぎれて姿を消した。伝蔵はこの後、行方をくらまし、死ぬ寸前まで消息は知られなかった。
栄助は一人になると、山中の炭焼き小屋などに潜伏した後、二男と出会い自首するつもりで、14日夜黒谷村の民家で親子で熟睡中、密告で逮捕された。翌年5月18日、熊谷監獄で死刑が執行された。
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