12年4月、仲間と二度目の秩父札所めぐりに出かけた。今度は34寺中で最西端の31番「観音院」だけである。
秩父札所の中で最高の景観を誇るとされるだけに、さすがに素晴らしかった。
西武秩父駅からバスで40分。老人の足だから終点の栗尾で降りて、坂道を同じくらいの時間歩く。
「花街道」の名に恥じず、名物の「しだれ桃」が、坂の下から上に順に開き始めていた。
「しだれ、梅、桜」には慣れているものの、「しだれ桃」、それも一本ではなく、道の両脇のあちこちに咲こうか、咲くまいか、微妙な状態にあるのを見たのは初めてだった。
白、紅一色のもあれば、同じ木に白、紅の花が別々についているもの、もっとすごいのは花の中に白、紅の混じっているもの。満開になればさぞ美しかろう。
中国人が昔から桃が好き。「桃源郷」という言葉があるのを思い出した。この春、寒冬の反動で、ソメイヨシノの満開を食傷するほど見たので、「しだれ桃」の美しさは、中国的で格別だった。
この寺は、仁王門に一本石造りとしては日本一の仁王像があるので知られる。木作りの仏像があるのと同じように、一本の砂石から彫り出したものだ。
4mを超す荒削りな石像。地元の日尾村の黒沢三重郎と信州伊那郡の藤森吉弥の作で、明治元(1868)年に完成したとある。
この石は、寺の奥の観音山から切り出された。地元産である。昔は秩父地方の墓石は、ここから切り出されたものが多かった、という。
仁王門から本堂まで296段の急な階段を登る。手すりもあり、赤い四角の杖もあるので、それを借りて上る。
般若心経の字数は276.それに回向分の20字を足した数なのだそうだ。「お経(心経)を唱えながら登ってください」と書いてある気持ちがよく分かる。
階段の両側に多くの句碑が立つ。本堂が改築された際、埼玉県俳句連盟の役員有志が建立した、と記念碑にある。なかなかの作品が多く、いちいち読んでいたら、登るのに時間がかかった。
本堂は大きな岩を背にしており、左手に落差20mの滝がある。水量が多かった時代には、修験者たちが荒行に励んだという。滝下の池の上に不動明王の像があり、池には大きな鯉が泳ぐ。
滝の左側の断崖の大岩には、県指定史跡の磨崖仏10万8千体が刻まれていると書いてある。風化摩滅のため判然としない。
この岩は、2、3千万年前の海底に小石や砂が積もってできた礫質砂岩だという。
秩父が大昔、海底にあったことは聞いたことがある。海底の岩が隆起して目前にあるわけで、感慨を禁じえない。
本堂からさらに階段を登ると、芭蕉の句碑もある東奥の院だ。西奥の院は、土砂崩れがあったため、閉鎖されている。
東奥の院から西奥の院を遠望すると、多くの石仏の姿も見える。この高みに立つと、秩父札所で最西端のこの寺が「西方浄土」と見なされた気持ちが分かる。
無住(無住職)の寺(曹洞宗)ながら、奉賛会の中の5人が、交代で365日朝8時から午後5時まで詰める。ご苦労様としか言いようがない。
本堂の近くで「秩父札所サイクル巡礼」のポスターを見かけた。札所巡りにもサイクリングの時代が到来したようだ。
坂道が多いとはいえ、34寺合わせて100kmだから、若くて元気なら難しい距離ではない。
観音院の手前にある地蔵寺は、札所ではなく水子供養の寺である。1971(昭和46)年の落慶式には、住職の知人だった当時の佐藤栄作首相も祭文を読み、写経を納めた。
山の山腹の何か所かに、赤いおべべ(おかけ)に赤い風車のついた1万4000体を超す水子地蔵が、ずらり並んでいる光景はショッキングである。
建立由来を記した石碑には、第二次大戦後、優生保護法が制定されて以来、胎児の中絶は、当時すでに3千万を超えていたと書いてあり、二重のショックを受けた。
しだれ桃に観音院、地蔵寺と札所最西端に来た甲斐が十分にあった。
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