新古今和歌集の部屋

重衡切られ

○写真:木津川市木津川重衡墓附近河原

源平盛衰記 裳卷 卷第四十五

内大臣京上被斬附重衡向南都被切並大地震事

南都ノ返事聞テ後、土肥次郎ハ、其日モ早暮ケレバ、河ヨリ南ノ在家ノ中ニ、大道ヨリハ東南ニ向テ、一間四面ニ造タル旧堂アリ。是ヘゾ入奉リケル。
ユカケヲセバヤト宣ヒケレバ、近所ヨリ新キ桶杓ヲ尋出シ、水ヲ上テ奉ル。御堂ノ傍ニテ行水シ、髪洗タブサヲ取、最後御装束ト覺エテ、武士共兼テ用意シ持セタリケレバ、小袖、帷、直衣、褌、扇、笏、沓ニ至マデ取出シテ奉。日比著給ヒタル物ヲバ、武士給テノキニケリ。武士ノ申儘ニ御装束ヲメシ、新キ沓ニハ子細アル者ヲトテ、紙ヲ畳テ敷サシハキテ、縁ヲ歩テ、正面ヨリハ東西向ニシテ座シケル。
此間東ノ旅ニ下リ上リ、風ニ窄レ日ニ黒ミテ、アラヌ貌ニシテ衰給タレ共、遉ニ餘ノ人ニハ替テゾ見エ給ケル。暫有ケレバ、御食賂出シテ進セタリ。是ヤ此下ノ云ナル死粮トハ、只今死スル者ノ、魚鳥不可有トテ取除サス。散飯多カニ取テ佛前ニ備テ、其後ハマヰラズ、又酒ヲ奉進。只今頸切レンズル者ノ、極熱ニ酒ハ惡カル者ヲトテ、三度請ルマネヲシテ、舌ノ先バカリニ宛テ是モ進ズ。其後手洗嗽テ宣ケルハ、抑汝等ハ、頼朝ガ政ヲバ善トヤ思惡シトヤ思、所謂善ト思ヘバコソ平家ヲバ角ハ虐ラメ。昔ハ如此人ヲ虐、今ハ又人ノ為ニ虐ゲラル、因果ノ理世ヲモ恨べカラズ、但敵ヲ敵ヘ渡事ハ、昔ヨリシテ未聞、頼朝モ彌勒ノ代ヲバヨモ持シ、今日ハ人ノ上ト思共、明日ハ必身ノ上ト思フべシ、重衡ヲ罪深キ者ト云ナレ共、全ク罪深カラズ、心ヨリ発テ南都ヲ亡タラバ、西海ノ波ノ底ニモ沈、東路ノ頭ニ骸ヲモ曝スべケレ共、法相三論ノ学地ノ辺、華厳法華修行ノ砌、佛法流布ノ境、奈良都ニ廻来テ、切レテ其後首ヲ東大興福ノ両寺ニ被渡事、大乗値遇ノ過去ノ縁淺カラズト思ヘバ、可罪深共不覺ト宣ヘバ、実平申ケルハ、二位家ノ計バカリニテハヨモ候ハシ、法皇ノ御計ニテコソ候ラメ。就其鎌倉ニテ善便宜ハ候シ者ヲ、ナド御自害ハ候ハザリケルヤラント申セバ、中將ハ打咲ヒ給テ、人ノムネニハ、三身ノ如来トテ佛御座、怖悲シト思テ、身ヨリ血ヲアエサン事ハ佛ヲ害スルニ似タリ、サレバ自害ヲバセザリキ、只今モ首ヲ刎ントセバ、流石妄念モ起リヌべシ、何トナキ振ニモテナシ、我ニ不知首ヲ打ト宣ヘバ、武士共目ヲ合テ畏ル。其後中將突立テ、正面ノ東ノ妻ヲ立廻、後戸ノ方ヲ見給ヘバ、歳六十餘ノ僧、左手ニハ花ヲ持、右手ニハ念珠ニ打鳴シ、取具シテ參タリ。哀僧カナ、一人ト思召ツルニ神妙ニモ參給ヘリ、ハヤ入給ヘトテ、中將ハ本ノ道ヨリ歸リテ、正面ノ東ノ間、本ノ座ニ西向ニオハシケレバ、彼僧ハ西ノ妻ヲ廻テ、正面ノ西ノ間、東向ニゾ候ケル。実平ハ縁ニアリ、家子郎等ハ坪中大庭ニ並居タリ。中將僧ニ向テ宣ケルハ、善知識ノ人カナト思ツルニ、折シモ神妙ニモ候、抑重衡世ニ在シ程ハ、出仕ニマギレ世務ニホダサレテ、驕慢ノ心ノミ起テ後世ノタクハヘ微塵バカリモナシ、況世亂軍起ツテ後、此三四年間ハ、禦彼助我トノ営ノ外ハ又他事ナシ、就中南都炎上ノ事、王命ト云武命ト云、君ニ仕世ニ随習、力及バス罷向ヒ侍リヌ、其ニ思ハズニ火出来テ、風烈クシテ伽藍ノ及滅亡、其ヲ重衡ガ所為ト皆人ノ申シ事ノ、今思合スレバ実ニ侍ケリ、サレバニヤ人モコソ多ケレ、一門ノ中ニ我一人虜レテ、京鎌倉ニ恥ヲ曝シ、此迄骸ヲサラサン事只今ニ極レリ。サレバ斯ル罪人ノ如何ナル善ヲ修シイカナル佛ヲ奉憑テカ、一劫助ル事候べキ、示給ヘト泣々掻詢テ宣ヘバ、僧急ト土肥ニ目ヲ見合スレバ、実平トモ/゛\随仰被參候ヘト申。
上人念珠オシスリ金打鳴シテ、阿彌陀經一卷懺法一卷讀テ後、法華經一部ト志、早ラカニ轉讀ス。八ノ卷ニ及デ、実平今ハ夜モ明方ニ成候ヌ、トクト申セバ、八ノ卷ヲバ卷置奉授戒、若浄土ニ生ント思召バ、西方極楽ヲ歓ヒ御座セ、極重惡人無他方便、唯称彌陀得生極楽ト説レタリ、彌陀名号ヲ、口ニ唱ヘ心ニ念シ給べシ、若惡道ニ赴御座べクバ、地藏ノ悲願仰給ヘ、抜苦与楽慈悲深ク、大悲抜苦ノ誓約アリ、依之タウリ雲上ニシテハ、正シク釈尊殷懃ノ付属ヲウケ、奈落炎中ニシテハ、必衆生難忍ノ受苦ヲ助給、彼ト云此ト云、深ク憑ミ奉ラバ争カ利勝ナカラント、細々ニ讃嘆シ奉教化ケレバ、中將モ実平モ、眼ニ餘ル涙ノ色、家子モ郎等モ、絞兼タル袂也。土肥申ケルハ、加様ニ候べシトダニモ兼テ知進セタリセバ、御布施ナドモ用意仕ルべク候ケル者ヲ、是ハ日比君ノ召テ候者ナレバトテ、取納タリケル御装束裹ヨリ取出シ、佛前ニゾ備ヘタル。
其後又彌陀經一卷、懺法早ラカニ一卷讀ケルガ、六根段ニ懸ケルニ、暁ノ野寺ノ鐘ノ聲、五更空ニゾ響ケル。中將涙ヲ流シ突立テ、東ノ妻ヲ後戸ノ方ヘオハス。兵二人影ノ様ニテ不奉離御身。後戸ノ縁ヲ彼方此方ヘ行道シ御座ケルニ、紫ノ雲一筋出来リタリ。折シモ郭公ノ啼テ、西ヲサシテ行ケルヲ聞給テ、カク、

思事カタリアハセン郭公ゲニ嬉シクモ西ヘ行カナ

トスサミ給ケル御音計ゾ幽ニ聞エケル。坪ノ中大庭ニ並居タリケル武士モ、ハラ/\ト立ニケリ。上人ハ、コゝハ何ト成給ヌルヤラント思テ、立給タル跡ヲ見レバ、涙ヲ拭給ヘル畳紙モヌレナガラ未アリ。
庭ヲ見レバ、沓ノ鼻ヲカゝヘテカブリ居タル犬アリ。立廻後戸ヲ見レバ、頸モナキ死人ウツブシニ臥タリ。犬二三匹ソバニテ諍之居タリ。穴無慙ヤ、此中將既ニ切レ給ヒケルニコソト思、前後ナリケル犬共ヲ追除テ、松葉柴葉ヲ折カザシ、經ヨミ念佛申テ奉弔。大道方ニハ馬ノ足音稠カリケレバ、上人急立出テ見レバ、歳五十計ナル男ノ、貲布直垂ニ長刀杖ニ突タル男、北ヘ向テ行ケルヲ袖ヲ引ヘ、是ニ御座ツル上ハ、何ト成給ヌルヤラント問申ケレバ、御首ヲバ南都ヘ奉渡ヌトテ、高念佛申テ北ヲサシテ過行ケリ。
其後友時泣々来リテ、中將ノ空キ身ヲ輿ニ舁ノセテ日野ヘ歸、地藏冠者、十力法師、共ニ涙ニクレテ行先モ見エズ。
已上ハ南都ヨリ出タリ。

○写真:木津川市重衡墓

次ノ説ハ、世ニ流布ノ本也。
中將日野ヲ出テ小津ニ著給ヘバ、頼兼使者ヲ南都ヘ立、衆徒僉議如上。サテハ此ニテ可切トテ、小津川ノハタニ奉下居、布革ノ上ニ奉居。重衡今ヲ限ト思召ケレバ、木工馬允友時ヲ召テ、此辺ニ佛御座ナンヤト宣ケレバ、友時泣々其辺ノ在家ヲ馳廻ケレ共、世間ニ恐ケルニヤ不出ケレバ、古堂ヨリ阿彌陀ノ三尊ヲ尋出、河原ノ砂ニ東ニ向テ、三位中將ノ前ニ奉掘立、重衡ハ浄衣ノ袖ノ左右ノクゝリヲ解、佛ノ御手ニ奉結付。五色ノ糸ヲ引ヘ給ヘル心地ニテ、法然房ノ教訓シ給ヒシ言ヲ信シ、如来大悲ノ誓願ヲ深ク憑テ宣ケルハ、提婆達多ハ三逆罪人也。無間ノ炎ノ底ニシテ、成佛ノ記別ニ預ル。下品下生ハ五逆ノ業人也。苦痛ノ床上ニシテ、往生ノ素懐ヲ遂タリ。皆是彌陀平等ノ大悲ニ答、法華一実ノ効験ニ寄ル。重衡逆縁重ク萌ト云ドモ、致深懺悔佛法不思議ノ力、忽ニ罪ヲ滅シテ浄土ニ導給ヘ、況彌陀如来ニ、一念十念モ来迎セント云願御座、極楽世界ニ上品下品ニ往生スト云文アリ、重衡彼下品器ニ当レリ、本願ニ無誤、大悲ニ実有ラバ、最後ノ十念ヲ以テ、浄刹ノ下品ニ迎取給ヘト詢ツゝ、西ニ向合掌、念佛百返バカリ高聲ニ唱ヘ給ケレバ、頸ハ前ニゾ落ニケル。友時首ヲ地ニ付テ喚叫。見ル人モ皆涙ヲ流ス。良久有テ友時ハ、三位中將ノ空キ身ヲ輿ニノセテ日野ヘ歸、地藏冠者モ十力法師モ、涙ニクレテ行先モ見エザリケリ。

コメント一覧

jikan314
Re:こんにちは!
sakura様
たいした下調べもせず、安福寺も道に迷ってやっとこさたどり着いたと言うことです。
源平盛衰記だけ読んでは行きましたが。(笑)
この近所に和泉式部の墓の伝承も有り、そちらも迷いながらでした。
木津川河原は、源平盛衰記から推測しました。重衡の亡骸は、日野に大納言佐が引き取って埋葬したと伝えられていましたが、こちらにも墓の伝承があるのですね。
この道は、宇治へ向かう道。義経が実質初戦だった伊賀越えをして行った道でも有るのですよね。
拙句
人々が伝えしものよ枯れ葦葉
sakura
こんにちは!
お写真は重衡が処刑された木津川ほとりと安福寺のお墓ですね。
伝承だそうですが、この寺の本堂の阿弥陀仏は
重衡の引導仏だと聞いております。

明るくて茶目っ気のある重衡は宮中でも人気者。
重衡の周りには、いつも女房たちが群れ、その中で
重衡が冗談を言い、明るい話題ふりまいている様子が
「建礼門院右京大夫集」に描かれています。

重衡なら都落ち後、悲しみに沈む一門の人々の心をきっと和ませていたことでしょう。
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