源氏物語 蛍
殿は、東の御方にもさし覗き給ひて、
「中将の、今日の司の手結(つが)ひのついでに、男ども引き連れて物すべき樣に言ひしを、さる心し給へ。まだ明きほどに來なむものぞ。あやしく、ここにはわざとならず忍ぶる事をも、 この親王たちの聞きつけて、訪らひ物し給へば、自づからこと/\しくなむあるを、 用意し給へ」など聞こえ給ふ。
馬場の御殿は、 こなたの廊より見通す程遠からず。
「若き人々、渡殿の戸開けて物見よや。左の司に、いとよしある官人多かるころなり。少々の殿上人に劣るまじ」と宣へば、物見む事をいとをかしと思へり。
対の御方よりも、童女など、物見に渡り來て、廊の戸口に御簾青やかに掛け渡して、今めきたる裾濃の御几帳ども立て渡し、童、下仕へなどさまよふ。 菖蒲襲の衵、 二藍の羅の汗衫着たる童女ぞ、西の対のなめる。好ましく馴れたる限り四人、下仕へは、楝の裾濃の裳、撫子の若葉の色したる唐衣、今日の装ひ共なり。こなたのは、濃き一襲に、撫子襲の汗衫などおほどかにて、各々挑み顔なるもてなし、見所あり。若やかなる殿上人などは、 目を立てゝ気色ばむ。未の時に、馬場の御殿に出で給ひて、げに親王達おはし集ひたり。手結ひの公事には樣変りて、次将達かき連れ參りて、樣毎に今めかしく遊び暮らし給ふ。
女は、何のあやめも知らぬことなれど、舎人共さへ艶なる装束を盡くして、 身を投げたる手惑はし等を見るぞ、をかしかりける。南の町も通して、遙々とあれば、あなたにもかやうの若き人どもは見けり。
「打毬楽」「落蹲」など遊びて、勝ち負けの乱声どもののしるも、夜に入り果てゝ、何事も見えずなり果てぬ。舎人共の禄、品々賜はる。いたく更けて、人々皆あかれ給ひぬ。
※手結ひ て‐つがひ
① 相撲、射礼(じゃらい)、賭弓(のりゆみ)などの勝負ごとで、競技者を分けて左右の組をつくること。競技の相手を組み合わせること。また、その取り組み。
② 特に平安時代、騎射、射礼、賭弓などで、射手を左右一人ずつつがわせて競わせること。騎射・賭弓では、前日の予行の試練を荒手番(あらてつがい)、当日の試練を真手番(まてつがい)という。《季・夏》
③ 物事を行なう手順や都合。また、その計画。てづかい。てはず。
競(くらべ)馬
源氏
童
近衛府衛士
(正保三年(1647年) - 宝永七年(1710年))
江戸時代初期から中期にかけて活躍した土佐派の絵師。官位は従五位下・形部権大輔。
土佐派を再興した土佐光起の長男として京都に生まれる。幼名は藤満丸。父から絵の手ほどきを受ける。延宝九年(1681年)に跡を継いで絵所預となり、正六位下・左近将監に叙任される。禁裏への御月扇の調進が三代に渡って途絶していたが、元禄五年(1692年)東山天皇の代に復活し毎月宮中へ扇を献ずるなど、内裏と仙洞御所の絵事御用を務めた。元禄九年(1696年)五月に従五位下、翌月に形部権大輔に叙任された後、息子・土佐光祐(光高)に絵所預を譲り、出家して常山と号したという。弟に、同じく土佐派の土佐光親がいる。
画風は父・光起に似ており、光起の作り上げた土佐派様式を形式的に整理を進めている。『古画備考』では「光起と甲乙なき程」と評された。
27cm×44cm
令和5年11月5日 九點零貳伍/肆